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スピンオフ駿と蓮の物語 蓮編

『今日もどこかで花が咲く』を読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。


本編では描ききれなかった、蓮の幼少時代を綴りました。


駿とは違う景色の中で育った蓮の歩みを、感じていただけたら嬉しいです。

蓮は、父親の顔を知らない。


だが、

物心ついた頃から、

家にはいつも音楽が流れていた。


ヴァイオリンの音色。


人を惹きつけて離さない、

どこまでも美しい旋律。


その音を、

母はいつも静かに聴いていた。

言葉は少なく、ただ穏やかに。


その姿を見て、蓮は思っていた。


(母さんは、ヴァイオリンが好きなんだ)


だから――


自分も、弾けるようになりたい。

母が、喜ぶように。

母が、笑うように。


小さな胸に、まっすぐな願いが芽生える。


「ボク、大きくなったらヴァイオリニストになる!」


無邪気にそう言うと、


母は少しだけ目を細めて――

何も言わずに、蓮の頭を撫でた。

その手は、優しかった。


けれど――

どこか、寂しそうでもあった。


幼い蓮は、まだその意味を知らない。

ただ、嬉しくて。


早く弾けるようになりたいと、

強く思った。


蓮、三歳の春。


⸻


ある日、ふと気になった。

母がいつも聴いている、その音。


(……誰が弾いているんだろう)


蓮は、こっそりと棚に並んだ

レコードに手を伸ばした。


一枚、取り出す。


ジャケットに写っていたのは――


ヴァイオリンを肩に乗せ、

ステージのライトを全身に浴びる、

一人の男。


けれど。


その顔は、見えなかった。

背中だけ。

振り返らないままの、後ろ姿。


蓮は、もう一枚手に取る。

また同じ男。


別の一枚。


やっぱり、同じ。


どのレコードも――

同じヴァイオリニストだった。


(母さんの、好きな人なんだ)


そう思った。


それ以上、深く考えることはなかった。


ただ――


あの音は、いつもここにある。

そして母は、必ずそれを聴いている。

それだけが、確かなことだった。


蓮は静かにレコードを元に戻す。

何もなかったように。


けれど――


胸の奥に、小さな引っかかりだけが残った。

まだ、名前のない違和感。


蓮、六歳の秋。


⸻


母を喜ばせたい。

その想いは、

いつの間にか確かな形になっていた。


「ヴァイオリンがほしい」


蓮は、母にそう願い出た。


少し驚いたような顔をしたあと、

母は静かに頷いた。


それからの蓮は、ひたすら弾いた。

教わる人はいない。

最初は独学だった。


何度も音を外し、何度もやり直しながら、

それでも手を止めることはなかった。


頭の中にあるのは、あの音。

母が聴いている、あのヴァイオリン。

あの音に近づきたい。


ただ、それだけだった。


ある日。


ふと、思い出す。

棚に並んでいたレコード。

蓮は、もう一度それを手に取った。


ジャケットに写る、あの後ろ姿。


以前は気にも留めなかったはずの違和感が、

今ははっきりと形を持っている。


(……なんだ?)


胸の奥が、ざわつく。

蓮はレコードを裏返した。

そこに並ぶ、小さな文字。


アルバムのクレジット。

指でなぞるようにして、名前を追う。


そして――

その手が、止まった。


「……木戸……孝臣」


息が、詰まる。

頭の中で、何かが繋がる。


母が聴いていた音。

あの後ろ姿。


そして――


(……まさか)


気づいてはいけないものに、

触れてしまったような感覚。


蓮は、レコードを強く握りしめた。

そのまま、部屋を飛び出す。


そして――


「母さん!!」


声を荒げる。

今までにないほど強く。

問いたださずには、いられなかった。


蓮、十歳の冬。


⸻


中学に入る頃には、その才能を見出され、地域の指導者のもとで学ぶようになっていた。


そして蓮は、奨学金を得て

ヴァイオリン科のある高校へ進学した。


同時に、バイトも始めた。

生活のため。


そして――

自分の力で、前に進むために。


ある日。


何気なく手に取ったクラシック音楽雑誌。


そこに――

父の姿があった。


ステージの上。

ライトを浴びるヴァイオリニスト。


木戸孝臣。


(……この人が)


胸の奥が、熱くなる。


もし。

自分も同じ場所に立てたなら。

世界に出ることができたなら。


――会えるかもしれない。


そして。


ほんの少しでも。

目を細めて、喜んでくれるかもしれない。


その想いだけで、手が動いた。


雑誌に載っていた事務所の住所。

蓮は、手紙を書いた。


震える手で。

何度も書き直しながら。

そして、送った。


返事を待つ日々。

時間が、やけに長く感じた。


やがて――


封筒が届く。

息を止めるようにして、開ける。

そこに書かれていたのは――


“そのような女性・お子様は存じ上げません”


一行。


それだけだった。


頭の中が、真っ白になる。

何かが、音を立てて崩れた。


母の人生。

自分が信じていたもの。

憧れていた気持ち。


そのすべてを――

否定されたようだった。


(……なんだよ、それ)


笑いそうになる。

あまりにも、馬鹿馬鹿しくて。


そのから

蓮は、父の背中を追うことをやめた。


けれど――


ヴァイオリンは、手放さなかった。

理由は、分からない。


ただ。


胸の奥に――

消えない炎が、残っていた。


静かに。

燃え続ける炎。


(……いつか、必ず)


その言葉だけが、残る。


蓮、十五歳の春。


⸻


その頃から、

蓮はあまり人と話さなくなった。


友人と距離を置き、

一人で過ごす時間が増えていく。


ただ、ヴァイオリンだけは違った。


毎日。

黙々と。

音を重ねる。


何も考えないようにするために。


ある日。


バイト先でのことだった。


「なあ蓮」


同僚が、何気ない調子で声をかけてくる。


「お前ってさ……あの有名なヴァイオリニスト、木戸孝臣に何となく似てるな!」


その瞬間。


頭の中が、真っ赤になった。

気づいたときには、もう遅かった。

蓮は、キレていた。


何を言ったのかも覚えていない。


ただ――

抑えきれなかった。


結果は、すぐに出た。

クビ。


当然だった。


店を出たあと。


行き場のない苛立ちだけが残る。

どうしようもない感情。


逃げ場のない怒り。


蓮は、

そのままヴァイオリンを手に取った。


弓を引く。

叩きつけるように。

感情のままに。


音が荒れる。

整わない。

崩れる。


それでも――


止めなかった。

何度も、何度も。


その日から。

蓮の音は、変わり始めた。


美しさよりも。

正しさよりも。


むき出しの感情を、そのままぶつける音。


誰かに聴かせるためじゃない。


自分の中にあるものを、

吐き出すための音。


そんなある日。

蓮に、一つの話が届く。


全国から選ばれた若い演奏家たちが集まる、特別講習会。


推薦によってのみ参加を許される選抜制の合宿だった。


実力主義の世界。


行き先は、長野県。


蓮は、迷わなかった。


静かに、参加を決めた。

理由なんて何もなかった。


蓮、十五歳の夏。


つづく…

お読みいただきありがとうございます。

スピンオフ 駿と蓮の物語

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