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スピンオフ駿と蓮の物語 駿編

『今日もどこかで花が咲く』を読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。


本編では描ききれなかった、駿の幼少時代を綴りました。


笑顔の奥にあった想いを、感じていただけたら嬉しいです。

駿の父は、ヴァイオリニストだった。


物心ついた頃には、

すでに家にいない人だった。


演奏旅行で世界を飛び回り

帰ってくることはほとんどない。


だから駿の記憶にある家族は、

いつも母と二人だけだった。


父の記憶は――ほとんどない。


⸻


母は、あまり体が強くなかった。

それでも無理をして、

駿のそばにい続けていた。


けれど、積み重なった疲れと心労は、

少しずつ母の体を蝕んでいく。


やがて倒れ、入院することになった。


⸻


白い病室。


ベッドの上で、

母は穏やかに微笑んでいた。


駿の手を優しく握りながら、

何度も同じことを言う。


「駿……あなたのお父さんはね、

音楽だけの人なの」


少しだけ息をついて、

それでも柔らかく続ける。


「だから、恨んじゃダメよ」


その言葉に、駿は何も返せなかった。

ただ、小さく頷くだけだった。


⸻


そして――


母の最期の日。

父は、来なかった。


駿、四歳の冬。


⸻


母を亡くしたあと、

駿は父方の親戚の家に預けられた。


知らない家。

知らない人たち。


けれど、駿は泣かなかった。


「恨んじゃダメよ」


母の言葉だけを、

ずっと胸の中で繰り返していた。


だったら――


自分が同じ場所に立てばいい。

父と同じ、ヴァイオリンの前に。


そうすれば、いつか。

会えるかもしれない。


駿は、ヴァイオリンを始めた。


必死だった。


指が痛くても、弓が震えても、

音がうまく出なくても。


それでも弾き続けた。


一年が過ぎた。

また一年が過ぎた。


けれど――

父は、現れなかった。


そのとき、駿は気づいた。

待っていても、来ない。


静かに。

本当に静かに。


駿は、父を待つことをやめた。


それでも。


心の奥には、小さな火種が残っていた。


消えないまま。

くすぶり続ける感情。


だからこそ――


駿は、笑うようになった。

明るく。


誰にでも分け隔てなく。


友人に囲まれ、

人懐っこい笑顔を絶やさない。


まるで何も抱えていないかのように。

本当の気持ちを、奥に隠したまま。


駿、八歳の春。


⸻


駿は、

ヴァイオリン科のある学校へ進学した。


そこでも駿は変わらない。


明るく、誰にでも分け隔てなく接する。

すぐに周りの輪の中心にいる存在だった。


けれど――


ある日。


「なあ駿、これって……

お前のお父さんだろ?」


友人が差し出してきたのは、

クラシック音楽雑誌だった。


そこに載っていたのは――

世界を舞台に活躍するヴァイオリニスト。


木戸孝臣。


⸻


その名前を見た瞬間。


駿の中で、何かが弾けた。


「……違う!!」


思わず、叫んでいた。


周囲が、一瞬で静まり返る。


自分でも分かっていた。

いつもの自分じゃない。


けれど――

抑えられなかった。


父の話になると、どうしても。

どうしても、苛立ちが消えなかった。


どこにいても、ついて回る。


“木戸孝臣の息子”という影。

その影に触れるたびに――


心の奥に残っていた火種が、揺れる。


少しずつ。

確かに、大きくなっていく。


放課後。


誰もいない音楽室。

駿は、一人でヴァイオリンを手に取る。


弓を引く。

音が、静かな部屋に響く。


その音は――


昼間の笑顔とは、まるで違っていた。


抑えていたものを、

すべて吐き出すような音。

何度も、何度も弾く。


指が痛くなっても、止めない。

ただひたすらに。


(……いつか、必ず)


その想いだけが、音に乗る。


駿、十三歳の秋。


⸻


駿は、どこにいても目立つ存在だった。


明るく、人当たりが良く、

誰とでもすぐに打ち解ける。


そして――


ヴァイオリンの腕は、群を抜いていた。


気がつけば、いつも周りには人がいる。

友人も多く、

自然と中心にいるような存在だった。


そんな駿に、ある話が舞い込む。


全国から選ばれた若い演奏家たちが

集まる、特別講習会。


高校生から大学生まで。


推薦によってのみ参加を許される、

夏季合宿だった。


行き先は長野県の合宿所。


将来を期待される才能たちが、

毎年そこへ集められる。


夏休みの間、そこで過ごすことになった。


初めての場所。

初めて会う、同じレベルの人間たち。


それでも駿は、

いつも通り振る舞っていた。


ある日の午後。


テラスで一人、楽譜に目を落としていると


「なあ、駿」


友人が隣に腰を下ろす。


そして


「お前ってさ…」


駿は視線を楽譜から上げる。


「ん?」


友人は

少しだけ身を乗り出し、

目を輝かせながら言った。


「もしかして、

あの木戸孝臣の息子?」


その言葉に――

駿の思考が、一瞬止まった。


けれどすぐに、いつもの顔を作る。


「……いや、人違いだ」


短くそう言って、立ち上がる。


その背中に、言葉が追いかけてきた。


「でもさ!音、似てる気がするんだよな!」


(……くそっ)


足を止めることはなかった。


どこへ行っても。

どれだけ離れても。

ついて回る。


父の影。


その影は、少しずつ形を持ち始めていた。


逃げきれないと、

どこかで分かっていながら。


駿は、前を向いたまま歩き続ける。


駿、十六歳の夏。


⸻


駿は、親戚の家を離れた。

早く、一人で生きていきたかった。


選んだのは、東京の大学。


音楽の道を、自分の足で進むために。


そして――


大学一年の夏。

再び、長野の合宿所を訪れていた。


去年とは違う顔ぶれ。

けれど、中には見覚えのある顔もある。


「また、会ったな」


軽く言葉を交わす。


笑ってはいるが――

目は、笑っていない。


互いに分かっている。

ここは、遊びの場所じゃない。


競う場所だ。


数日間、ハードなレッスンが続いた午後。


駿は一人、テラスで楽譜を読んでいた。


「駿!」


友人が、少し興奮気味に駆け寄ってくる。


「すげーヤツが

ヴァイオリン科にいるらしい!」


「へぇ……大学生なら

そういうのもいるだろ」


興味なさそうに答える駿。


だが――


「違うんだよ!」


友人が身を乗り出す。


「そいつ、高三なんだ!」


駿の目が、わずかに動く。


「高三?」


「ああ」


友人は頷く。


「しかも、高一から毎年ここに呼ばれてるらしい」


その一言で、空気が変わった。


(……高一から?)


一気に、興味が湧いた。

その音を、聴いてみたい。


駿は立ち上がる。


友人と共に、

ヴァイオリン科のレッスン室へ向かった。


扉の前。

中から、かすかに音が漏れてくる。


――ヴァイオリン。


その瞬間。


(……速い)


思考より先に、身体が反応していた。


弓が走る。

感情のままに叩きつけるような音。


荒い。

整っていない。

決して、美しいとは言えない旋律。


それなのに――


惹き込まれる。


目が離せない。

足が動かない。


ただ、その音に引きずり込まれていく。


どれくらい、そうしていただろうか。

隣にいた友人が、小さく呟いた。


「……あれ?」


「なんか……お前に、似てない?」


その言葉に――


「えっ……?」


初めて、駿の表情が揺れた。

胸の奥で、何かがざわつく。


駿、十八歳の夏。


つづく…

お読みいただきありがとうございます。

スピンオフ 駿と蓮の物語 

蓮編へ———


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