第19楽章
会議室。
再び、団員たちが集まる。
今度は——
前より、空気が軽い。
笑い声。
ツアーの名残。
どこか、気の抜けた空気。
ルーカス
「ヨーロッパツアー、ご苦労だった」
短い労い。
間も置かず、続ける。
「で、次だ」
ざわめき。
少しだけ——
空気が締まる。
ルーカス、全体を見る。
「次はアジアだ」
「日本公演も入ってる」
一瞬。
部屋がざわめく。
「日本……?」
誰かの小さな声。
「遠いな」
「初めてだ」
「飯うまいらしいぞ」
軽い笑い。
でも——
どこか、
興味と緊張が混ざる。
視線が、
わずかに駿へ向く。
日本を知るのは、
この中で駿だけだった。
ルーカス
「詳細は後で話す」
「準備しておけ」
駿、何も言わない。
ただ、聞いている。
(……来るか)
日本。
戻る場所じゃない。
でも——
逃げる場所でもない。
視線は、
もう前を向いていた。
そして
会議室を出る。
駿も、
静かに歩き出す。
⸻
リハーサル室。
音が、重なる。
アジアツアー用のプログラム。
いつも通り。
だが——
どこか、違う。
フェリックス
「ソリスト、まだか」
返事はない。
ルーカス、止める。
「そこ、もう一度」
音が、やり直される。
駿、弾きながら。
(……まだ来ないのか)
もう一度。
揃う。
だが——
埋まらない場所がある。
日にちだけが過ぎていく。
フェリックス
「ソリスト、また来なかったな」
マティアス
「スケジュールが詰まってるらしい」
フェリックス
「客演って大変だな」
クラウス
「……本番に間に合えばいい」
駿、何も言わない。
ただ、聴く。
(……空いてる)
音は、止まらない。
⸻
空港。
ざわめき。
ケースを持つ手。
搭乗口へ向かう。
フェリックス
小声で言う。
「結局、合わせたの二回だけか」
マティアス
「現地合流だからな」
少し間。
クラウス
「……予定通りなら」
誰も、すぐには答えない。
⸻
会場。
スタッフが慌ただしく行き交う。
フェリックスが
辺りを見回す。
「ソリストは?」
マティアス
首を振る。
「まだだ」
駿は何も言わない。
(……来てない)
⸻
リハーサル開始時刻。
スタッフ
時計を見る。
「……まだ到着していません」
ルーカスは黙ったまま、
時計へ目を向ける。
誰も口を開かない。
時間だけが過ぎる。
十分。
二十分。
三十分——。
部屋の空気が、
少しずつ重くなる。
その時。
勢いよくドアが開いた。
スタッフが飛び込んでくる。
顔色が変わっている。
「ルーカス!」
全員が振り向く。
「ソリストが……来られません!」
ルーカス
「理由は?」
スタッフ
「空港へ向かう途中で
事故に巻き込まれたようです」
ルーカス
「容体は」
「命に別状はありません」
指揮者のルーカス
時計を見る。
沈黙。
部屋には、
誰一人、声を出さない。
ルーカスは
ゆっくりと視線を巡らせる。
止まる。
駿に。
短い沈黙。
ルーカス
「代役は……」
一言
「……シュン」
駿
(……そう来るか)
異論は、出なかった。
駿、ゆっくり視線を上げる。
ルーカス、わずかに頷く。
駿、迷わず
「やります」
スタッフ
「時間がありません」
ルーカス
「本番だ」
駿、小さく頷く。
いつもの楽器。
いつもの重さ。
だが——
今日だけは、
立つ場所が違う。
_____
開演前。
場内アナウンスが流れる。
「本日出演予定でしたソリストは、
都合により出演できなくなりました。」
客席がざわめく。
「代わりまして——」
名前が告げられる。
「……誰だ?」
「聞いたことない」
「新人か?」
期待よりも、
戸惑いが広がる。
⸻
舞台袖。
駿は、一人立っていた。
目を閉じる。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
(……いい)
名前が呼ばれる。
駿は目を開ける。
迷いなく歩き出す。
ライトが近づく。
客席が見える。
無数の視線。
期待はない。
疑いの方が、多い。
それでも——
駿は歩みを止めない。
中央へ立つ。
静寂。
ルーカスが駿を見る。
駿も、わずかにうなずく。
指揮棒が上がる。
誰も動かない。
振り下ろされる。
そして——
駿の弓が動く。
最初の一音。
ホールの空気が、
静かに塗り替わった。
チャイコフスキー
《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調》
客席が静まる。
さっきまでのざわめきが、
どこにもない。
音が、伸びる。
誰も、動かない。
息をするのも、忘れる。
駿は、何も変わらない。
ただ、弾く。
視線は前。
揺れない。
だが——
音だけが、前に出る。
引き寄せる。
音が、
少しずつ客席へ届く。
気づけば、
誰もが聴き入っていた。
さっきまでとは、
まるで違う。
音が、場を掴んでいる。
飲まれていく。
駿は、何も語らない。
だが——
そこにいるだけで、
音が、変わる。
進む。
止まらない。
誰も、止めようとしない。
できない。
やがて——
一つ、抜ける。
余韻。
その一瞬でさえ、
誰も崩れない。
次が、来る。
さらに、深く。
やがて——
流れが、頂点に触れる。
迷わない。
音は、
まっすぐ伸びていく。
一瞬。
すべてが、張り詰める。
最後の一音。
落ちる。
……。
静寂。
音は、もう無い。
それでも——
まだ、そこに残っている。
駿は、動かない。
弓を下ろさない。
ただ、
余韻を見届ける。
一人が、
そっと手を打つ。
パンッ!
その音を合図に——
拍手が、
一気に弾けた。
さっきまでの静寂を、
打ち壊すように。
歓声。
口笛。
手を叩く音が重なっていく。
誰かが立ち上がる。
それが、広がる。
止まらない。
駿、ゆっくりと弓を下ろす。
表情は、変わらない。
ただ——
ほんのわずかに、息を吐く。
それで、十分だった。
⸻
楽屋
ドアが閉まる。
ようやく、
張りつめていた空気がほどける。
誰かがネクタイを緩める。
誰かが、
大きく息を吐く。
ミネラルウォーターのボトルが開く音。
静かな笑い。
フェリックス
駿を見る。
「……おい」
駿
顔を上げる。
「ん?」
フェリックス
笑いながら
「やりやがったな」
マティアス
苦笑する。
「完全に客、持っていかれた」
駿
「代役だったし」
マティアス
「そこじゃねぇ」
また笑いが起きる。
誰かが口笛を吹く。
クラウスが近づく。
「……シュン」
駿が振り向く。
「次も頼む」
短い一言。
それだけ言って、
歩いていく。
駿は一瞬だけ目を丸くする。
そして、
小さく笑う。
フェリックス
「おい」
「クラウスがシュンって呼んだぞ」
マティアスも笑う。
「珍しいもん見たな」
クラウス
「うるさい」
楽屋がまた笑いに包まれる。
⸻
ロビー。
ざわめきの中で——
「さっきのソリスト誰?」
「次も出るのかな」
「変更だったからパンフに載ってない」
人の流れに、
その名はまだ溶けていく。
パンフレットにも、
載っていない。
それでも——
あの音だけは、
確かに残っていた。
⸻
楽屋。
ざわめき。
ケースを閉じる音。
誰かが鼻歌を口ずさむ。
誰かが、笑う。
マティアス
「行くぞ」
「祝杯だ」
ドアが開く。
廊下。
そのまま流れるように歩き出す。
誰かが肩を叩く。
「今日の主役」
フェリックスだ。
駿、苦笑する。
「ちげぇーよ」
笑いが起きる。
そのまま、外へ。
⸻
レストラン。
灯り。
ざわめき。
グラスが並ぶ。
音が、重なる。
「お疲れ!」
乾杯。
一気に、空気がほどける。
笑い声。
マティアス
駿の肩を叩く。
「今日で全員の借り作ったな」
笑い。
駿
グラスを傾ける。
「大げさだろ」
フェリックス
「大げさじゃねぇよ」
「助けられたの、分かってんだろ」
一瞬。
駿、何も言わない。
ただ、飲む。
フェリックス
「ほらな」
駿
「何が」
フェリックス
「俺、前に言っただろ」
「次は前で弾けって」
駿
少し笑う。
「……言ってたな」
「当たった」
笑いが起きる。
駿
口元だけで笑う。
「まぐれだ」
フェリックス
首を振る。
「いや、見る目があった」
マティアス
吹き出す。
「自分で言うな」
また笑いが広がる。
笑いが夜に溶けていく。
⸻
その頃、日本では
倉庫スタジオいつもの場所。
亮太
スマホを見ている。
ニヤニヤ。
スマホ画面
“一日署長のニュース”
亮太
「いやーやっぱオレ映えるわー!」
圭一
「お前ってほんとガキだな」
亮太
「うるせぇっ!」
圭一が椅子に腰掛ける。
浩平はお菓子の袋を開ける。
気づけば、
いつもの顔ぶれが揃っていた。
浩平が言う。
「……駿、今どこだっけ」
一瞬の間。
亮太
「ヨーロッパだろ」
それで終わる。
誰も、
深くは触れない。
でも——
どこかで、
分かっている。
同じ場所には、
いないこと。
それでも、
切れてはいないこと。
音が、
鳴る。
誰かが、
適当に弾いたフレーズ。
笑いながら、
誰かが乗る。
また、
音が重なる。
完璧じゃない。
でも——
止まらない。
遠く離れても、
違う場所でも、
それぞれの音は
今日も続いている。
つづく…
お読みいただきありがとうございます。
第20楽章へ———




