第13楽章
いつもの倉庫スタジオ。
亮太は、ふと扉の方へ目を向けた。
いつもなら
真っ先に入ってくるはずの男の姿は、
もういない。
駿は、新しい道へ進んだ。
ドイツへ。
亮太
「……俺たちも、負けてらんねぇな」
小さく笑う。
そのとき——
扉が開いた。
「おっす!」
チェロの水野圭一が、
いつもの調子で入ってくる。
「あれ? まだ誰も来てないの?」
亮太は、短く答えた。
「……ああ」
続いて、
「こんばんはー」
フルートの曽我ゆり子と、
キーボードの宮本いずみ。
さらに——
「腹減っちゃってさー」
お菓子を頬張りながら、
トランペットの杉山浩平が現れる。
いずみが笑う。
「分かる! この時間帯ヤバいよね!」
亮太は、呆れたように息をついた。
「おまえらなぁ……」
そして——
扉が、もう一度開いた。
無言のまま入ってきたのは、
指揮者の塩見仁と、
ヴァイオリンコンマスの斉藤和馬。
空気が、少しだけ締まる。
亮太は慌ててカメラを構えた。
「ちょ、いい感じ!今の…」
「撮るな」
間髪入れず、仁が言い切る。
「え、HP更新用に数枚だけ!」
仁
「却下」
即答だった。
亮太は、あからさまに肩を落とす。
その様子を横目に、和馬が口を開いた。
「で……あいつは?」
亮太は壁の時計を見る。
「まだ……来てない」
短い沈黙。
「……待つか?」
誰ともなく、そう言った。
——二十分後。
カチャ……
小さく、扉が開く音。
入ってきたのは——
新メンバー。
ヴァイオリンの、上野蓮。
無言。
視線だけが、部屋を一周する。
誰も、何も言わない。
張りつめた空気。
その中で——
亮太
「なんだよその歓迎ムードゼロは?」
浩平
「お前が言うな」
いずみ
吹き出す。
蓮は、何も言わない。
亮太が、口を開いた。
「……じゃあ、始めよか」
少しだけ、空気が緩む。
亮太
「今回は、封書での依頼なんだ」
テーブルの上に、二枚の紙を置く。
カサリ、と乾いた音。
そこに記されていたのは——
老舗、みやこホールからの依頼。
定期演奏会の来場者が
減少しており——
若手オーケストラを選考の上、
専属楽団として迎えたい。
みやこホール。
⸻
二枚目の紙。
その内容に、ゆり子が小さく息を吐く。
「審査付き、ね」
亮太が苦笑する。
「しかも…」
紙から視線を外さないまま言う。
「…指定曲」
静寂。
「サラサーテ……」
ゆり子の指先が、わずかに止まる。
和馬が続ける。
「……ナヴァラ」
———空気が、変わった。
誰も、それを軽くは受け取らない。
あの曲。
あの二人のためのような曲。
浩平が、ぽつりと漏らす。
「……ガチじゃん」
冗談は、もう通じない。
その中で
蓮は、何も言わなかった。
ただ、静かに。
ヴァイオリンを手に取る。
迷いも、躊躇もない動き。
その姿に、亮太が言う。
「……とりあえず」
一瞬、全員を見渡す。
「リハだな」
その一言で、空気が切り替わる。
誰もが、位置につく。
音を出す前の、張り詰めた静寂。
始まる前から、
もう戦いは始まっていた。
和馬。
そして——
蓮。
視線が、合う。
ほんの一瞬。
すぐに、逸れた。
和馬が、静かに言う。
「呼吸、合わせろ」
間を置かず。
蓮。
「必要ない」
その一言で
空気が、一気に冷えた。
仁が、指揮棒を上げる。
「……いくぞ」
振り下ろされる。
一音目。
ぶつかる。
和馬の動きに、
蓮が遅れず入る。
揃わない。
でも——
外れない。
押す。
返す。
譲らない。
空気が、張りつめる。
いずみが、息を止める。
浩平
「……おい」
流れない。
前に進まない。
その場で、ぶつかり続ける。
和馬の音が、踏み込む。
蓮が、ねじ込む。
交わらない。
でも——
離れない。
一瞬。
ほんのわずかに、重なる。
すぐに、崩れる。
仁の指揮が、止まる。
静寂。
誰も、何も言わない。
空気だけが、残る。
圭一が、ぽつりと落とす。
「……最悪だな」
いずみが、視線を落とす。
「バラバラだよ……」
浩平が、吐き捨てるように言う。
「話にならない」
和馬。
静かに。
「合わせる気、あんのか」
蓮。
無表情のまま。
「ない」
———空気が凍る。
浩平の声が跳ねる。
「は?」
蓮は、
表情を変えない。
「合わせるために、弾いてない」
ゆり子の声が鋭く入る。
「ここ、楽団よ」
「知ってる」
和馬が、一歩出る。
「一人でやる曲じゃない」
蓮。
ほんの少しだけ、目を上げる。
「だったら……ついてこいよ」
———ピリつく。
圭一の声が低くなる。
「……どういうつもりだ」
仁は、動かない。
ただ、見ている。
亮太。
小さく、息を吐く。
「……おもしれぇじゃん」
一瞬。
全員の視線が、亮太に集まる。
「は?」
亮太が、ニヤッと笑う。
「じゃあさ……もう一回、やるか」
和馬そして、蓮。
視線を、交互に向ける。
仁が、指揮棒を上げる。
さっきと同じはずなのに——
空気が違う。
振り下ろされる。
一音目。
ぶつかる。
今度は——
引かない。
和馬が踏み込む。
蓮が、そのまま返す。
押す。
返す。
逃げない。
さっきより、近い。
揃わない。
でも——
離れない。
音が前に出る。
空気が動く。
いずみ
思わず息を呑む。
浩平
「うわ……」
さっきまでの“ズレ”が、
そのままぶつかっている。
でも——
止まらない。
和馬の動きに、
ほんの一瞬だけ、蓮が乗る。
すぐに外れる。
それでも——
さっきより、遠くない。
仁の指揮が、わずかに揺れる。
止めない。
そのまま、続く。
ぶつかる。
さっきより、近い。
和馬が踏み込む。
その動きに——
今度は、
蓮が外さない。
一瞬、噛み合う。
すぐに、崩れる。
でも——
離れない。
息が、揃いきらないまま。
それでも、前に出る。
仁が、目を細める。
終わり。
音が、止まる。
今度の静寂は
さっきとは、違う。
重い。
だが。
どこか
熱を持っている。
浩平が、低く呟く。
「……なんだよ、今の」
いずみの声が震える。
「一瞬……合ったよね」
「気のせいじゃない」
ゆり子が、はっきりと言い切る。
和馬は、黙っている。
蓮も
何も言わない。
亮太が、ゆっくりと笑う。
「見えたな」
全員の視線が、集まる。
「……?」
亮太は
和馬と、蓮を交互に見る。
「今のだろ…お前らが、組める理由」
空気が、変わる。
誰も、否定しない。
できない。
和馬が、
小さく息を吐く。
「……一瞬だ」
蓮。
「十分だ」
視線が、ぶつかる。
火はまだ、消えていない。
さっきの一瞬。
誰も、口にしない。
でも、
消えない。
そのまま、
時間だけが流れていく。
⸻
やがて——
本番前夜。
倉庫スタジオ。
ドアが、開く。
和馬一人。
ゆっくりと明かりをつける。
ヴァイオリンを取り出す。
構える。
―音。
ナヴァラ。
低く確かめるように。
一音ずつ。
昼の感覚を、追う。
引っかかる。
指が、止まる。
小さく息を吐く。
もう一度。
音が
少しだけ、柔らかくなる。
そのとき⸻
ドアの音。
蓮が入ってくる。
和馬を一瞬だけ見る。
何も言わないまま
ヴァイオリンを構える。
同じ、ナヴァラ。
和馬は、止めない。
そのまま弾き続ける。
蓮も
合わせない。
それでも。
ぶつからない。
距離を測るように。
音が
近づく。
離れる。
また、近づく。
和馬が、小さく言う。
「……そこ」
蓮は、何も言わない。
だが。
ほんのわずかに。
テンポが寄る。
一瞬。
重なる。
すぐに、離れる。
和馬が、目を細める。
蓮の弓が。
わずかに、止まる。
蓮が、ぽつりと落とす。
「……悪くない」
和馬が返す。
「まだだ」
再び。
音が、始まる。
今度は
ほんの少しだけ、近い。
夜が、深くなる。
ドアの外で
亮太が、壁にもたれている。
小さく笑う。
「……やっとだな」
中から、音が続く。
夜は、静かだ。
その音を残したまま——
⸻
当日。
愛車のワーゲンバス。
車体の横。
「TRAVELING ORCHESTRA」
その文字が
誇らしげに、揺れている。
車内は無言。
誰も、余計なことを言わない。
そのまま
みやこホールへ。
客席は埋まりきってはいない。
それでも
確かに、人はいる。
ざわめき、期待と。
そして
わずかな、不安。
⸻
舞台袖。
いずみが、小さく息を吐く。
「……来たね」
圭一
「審査員いるしな」
ゆり子
「ミスしないでよ」
和馬。
静かに構える。
蓮は
何も言わない。
亮太が、肩をすくめる。
「ま、楽しめば勝ちだろ」
仁。
一言。
「……いくぞ」
⸻
ステージへ。
眩しい。
客席のざわめきが、
ゆっくりと遠ざかる。
拍手。
その中を抜けて、位置につく。
音が消える。
静寂。
仁の指揮棒が。
ゆっくりと上がる。
和馬と、蓮。
一瞬だけ視線が、合う。
ほんのわずか頷くような気配。
そして⸻
振り下ろされる。
《ナヴァラ》
完全に揃う。
圭一が、息を呑む。
「……!」
浩平が目を見開く。
和馬の音は、動かない。
蓮の音が、その上に来る。
それでも外れない。
和馬が、引く。
蓮が、出る。
次の瞬間——
入れ替わる。
それでも、崩れない。
浩平の声が、震える。
「マジかよ……」
ゆり子が、呟く。
「昨日と別人……」
客席のざわめきが止まる。
誰も、動かない。
引き込まれる。
終盤。
和馬の音が、残る。
その上を、蓮がなぞる。
重なる。
ほどけない。
そして。
静寂。
完全な、無音。
そのあと。
最後の、一音。
まっすぐに。
ホールの奥まで。
拍手が、来ない。
誰も、動かない。
そして——
一人。
パンッ!と手が鳴る。
それを合図に、
一気に広がる。
拍手。
歓声。
立ち上がる人。
波のように、揺れる。
審査員。
顔を見合わせる。
誰も、口を開かない。
⸻
舞台上。
和馬。
小さく、息を吐く。
張り詰めていたものが
ほどける。
蓮。
わずかに口元が、緩む。
ほんの、一瞬、和馬がそれを見る。
何も言わない。
それでも認める。
仁、静かに、頷く。
亮太。
ニヤッと笑う。
「……やったな」
音は、終わった。
だが
ここからが、始まりだ。
⸻
みやこホール。
ロビー。
ざわめき。
「すごかったよね……」
「でも、ちょっとクセ強くない?」
「クラシックって感じじゃなかった」
年配の男性。
腕を組む。
「面白いが……品がない」
若い女性。
即座に返す。
「でも、良かった」
⸻
舞台裏。
静か。
さっきまでの気配が残っていない。
紙が、配られる。
審査結果。
亮太が受け取る。
目を通す。
ほんの少しだけ
笑う。
圭一
「どうよ」
「……まぁ」
紙が、テーブルに置かれる。
和馬が見る。
数字が、並んでいる。
ゆり子
「……低いわね」
いずみ
「えぇ……あんなに良かったのに」
浩平
「マジかよ」
圭一
静かに。
「評価は、評価だ」
沈黙。
蓮は興味なさそうに。
背を向けてる。
和馬、紙を見たまま。
「……届いてない」
仁。
一言。
「まだだ」
亮太、何も言わないまま歩き出す。
ワーゲンバスに乗り込む。
エンジン音が夜に溶ける。
高速を走る。
車内は
無言。
それでも。
重くはない。
⸻
倉庫スタジオ。
到着。
いずみ
「ただいまぁー」
ゆり子
「疲れたねー」
浩平
「腹へったぁー」
テーブルに惣菜や飲み物が並ぶ。
亮太
「今日はみんなお疲れ!
かんぱーい!!」
「かんぱーい!」
缶が鳴る。
いずみ
「納得いかない〜!」
浩平
「だよな!」
ゆり子
「評価基準が古いのよ」
圭一
「伝統を守るのも役割だ」
亮太
一口、飲む。
「ま、でもさ、客は動いてた」
静かに、落ちる言葉。
いずみ
「……うん」
和馬ぽつり
「一瞬、あった」
蓮をチラッと見る。
和馬が続ける。
「完全に噛み合った場所」
蓮。
短く。
「一瞬だ」
ゆり子。
「素直じゃないわね」
浩平
笑う。
「今さらかよ」
亮太。
ニヤッとする。
「評価なんて、後からついてくる」
缶を、軽く上げる。
「俺らは……
好きにやるだけだろ」
少しの沈黙。
小さな、笑い。
仁。
一言。
「次だ」
つづく…
お読みいただきありがとうございます。
第14楽章へ———




