第五章 覚醒 第二節 ぬらりひょん 第一話「殺気」
第五章 覚醒 第二節 ぬらりひょん 第一話 「殺気」
陽光が降り注ぐ、穏やかな週末の昼下がりだった。リビングの窓から差し込む陽光は暖かく、平穏そのもの。しかし、その安らぎを切り裂くような、肌を刺す異質な気配が玄関先に漂っていた。
最初に異変を察知したのは、葛の葉である。彼女の鋭い霊感が、空間そのものが歪む不快な音を捉えた。
「……来たわね」
独り言のように呟いた彼女の瞳に、深い警戒の色が宿る。彼女の予感は外れない。玄関の外に立っているのは、この世の怪異を統べる者――妖の総大将、ぬらりひょんだった。
かつて、この屋敷の結界は、ぬらりひょんの手によっていとも簡単に踏みにじられている。その屈辱を晴らすべく、神代家は持てる術の粋を集め、再構築を行ったばかりだった。強固に編み込まれたはずの重層的な術式が、今、目に見えない異物によって激しく軋みを上げている。
バリバリバリ……。
まるで分厚い硬質ガラスに、目に見えない巨大な斧が振り下ろされるような、不快な音が響く。それは単なる物理的な破壊ではない。強大な妖力が、屋敷を守る「理」という膜を、指先で摘まんで引き剥がそうとするような、冒涜的な音だった。
葛の葉は迷わず、神代蒼真の元へと駆け込んだ。
蒼真は台所の椅子に深く腰を下ろしていた。彼もまた、すでにその不穏な音を耳にしていた。張り詰めた表情で沈黙を守る蒼真の態度は、あくまで「ことを荒立てたくない」という慎重な姿勢を示していた。ぬらりひょんという存在は、関わればただでは済まない。下手に刺激すれば何が起こるか予測できないのだ。蒼真は音の主の出方を、静かに、しかし研ぎ澄まされた神経で見極めようとしていた。
しかし、結界を削るバリバリという音は止む気配がない。耐えかねたように、蒼真が葛の葉に視線を向け、低く切り出した。
「葛の葉、刀で切り捨てるべきか。これ以上、我が家の門前で結界を弄ばれるわけにはいかない」
蒼真の提案に対し、葛の葉は即座に首を横に振った。彼女の表情には、一級の妖に対する深い畏怖と、冷静な戦術的分析が同居していた。
「無駄よ、蒼真。相手はぬらりひょん。その名の通り、刀を振るえば『ぬらり』と躱され、『ひょん』と煙に巻かれるのが落ちよ。真正面から刃を交えるのは得策じゃない」
葛の葉は立ち上がり、慎重な足取りで廊下を見つめた。
「それに、忘れないで。彼は妖の親玉よ。奴がここにいるということは、配下の妖たちもすでに周囲を囲んでいる可能性がある。ここで我々が動けば、泥沼の戦いになるわ。……もう暫く、様子を見ましょう。相手の目的を見極めるまで、うかつに手は出せない」
緊迫した空気が、台所を支配する。
そのとき、足音が重なった。息子の蒼也が、戸惑いを隠せない表情で台所に現れた。彼は周囲の異様な殺気に気づいたのか、手には数枚の呪符を握りしめている。
「父さん、葛の葉さん。……外の音、聞こえてるよね」
蒼也は状況を飲み込もうと必死だった。彼は握りしめた呪符を掲げ、少しだけ震える声で尋ねた。
「ねえ、これで追い返すのはダメなの? 頭に貼り付けて、結界の外へ……」
蒼也の問いかけは、あまりにも純粋で、かつ真っ当な対抗策だった。だが、葛の葉は苦笑しながら、その手を制した。
「蒼也、気持ちは分かるわ。でも、普通の妖と同じ手は通用しない。彼にとって、我々の術すらも『遊び』の一部に過ぎないのよ」
ぬらりひょんの恐ろしさは、単なる暴力ではない。そこに在るというだけで、理屈や法則を無視して事態を己の都合の良い方へ歪めてしまう、その圧倒的な存在感にある。
三人は、再び玄関の方角へと意識を集中させた。
バリバリ、という音はやがて、不気味な笑い声のように聞こえてくる。結界の亀裂から、冷たい風が屋敷の中に流れ込んできた。
殺気。
それは物理的な攻撃ではなく、この屋敷の理そのものを喰らおうとする、強烈な飢えに近いものだった。彼らは気づいていた。今、扉を開ければ、そこにはきっと、長年連れ添った旧友の家を訪ねたかのような、拍子抜けするほど穏やかな顔をした老人が立っているのだろう。しかし、その背後には、終わりの見えない怪異の群れが牙を剥いている。
「蒼真、覚悟はいい?」
葛の葉が問う。
蒼真は腰の刀の柄に手をかけた。その動きは機械的で、迷いがない。
「ああ。だが、まずは言葉を交わす。それが私のやり方だ」
玄関の扉が、ゆっくりと、音もなく開き始めた。
結界は、すでにその役目を終えて砂のように崩れ落ちていく。
その先には、夕闇を背負い、静かにこちらを見つめる小さな老人の姿があった。
「やあ、お邪魔しているよ」
ぬらりひょんのその第一声が、屋敷の空気を凍りつかせた。戦いの火蓋は切って落とされたはずだった――しかし、次の瞬間、ぬらりひょんは当然の権利のように屋敷へと上がり込むと、こともなげに台所の椅子に座り込んだ。
そして、あろうことか勝手に急須を手に取り、自らお茶を淹れ始めたのである。
「……貴様、一体何をしに」
蒼真が問う間もなく、ぬらりひょんは茶を啜り、どこからか取り出した八つ橋を口に運んだ。
「おや、八つ橋が美味いな。京都に行ったんだってね。妖達から聞いているよ。酒呑童子を倒したんだって? やるじゃないかい」
拍子抜けするほどの世間話。しかし、その言葉には重すぎる圧があった。
ぬらりひょんは、老獪な笑みを浮かべ、茶碗を置いた。
「あっ……私はね、八つ橋も好きだけど、ういろうも好きなんだ。今度はういろうも買っておいてね。邪魔したよ、また、来るね」
そう言い残すと、ぬらりひょんは煙のように立ち上がり、玄関から出ていった。
その後ろには、玄関の周囲を埋め尽くしていた無数の妖たちが、恭しく影を潜めて控えていた。ぬらりひょんが去ると同時に、その怪異の群れも霧散する。
残されたのは、冷めかけた茶と、呆然とする蒼真たちだけだった。
ただの挨拶か、それとも宣戦布告か。
総大将の背中は、夕闇の中に溶け込みながらも、確かに神代家への「招待状」を置いていった。
戦いは、もう始まっている。




