第五章 覚醒 第一節 酒呑童子 第四話 「激突」
第五章 覚醒 第一節 酒呑童子 第四話 「激突」
地底深く、太古の瘴気が淀み、光すらも拒絶する鍾乳洞の底。
湿り気を帯びた重苦しい空気が肌を刺し、暗闇の奥からは、この世のものとは思えぬ悍ましい妖気が、まるで生き物のように脈動となって伝わってくる。ここは、生者と死者の境界線が曖昧になる場所。神代蒼真は、その最奥に鎮座する巨影と対峙していた。
伝説の鬼、酒呑童子。
その圧倒的な存在感は、見る者の精神を削り取り、呼吸すら凍りつかせるほどだ。蒼真は愛刀『草薙の剣』の柄を強く握り締め、己の血を沸き立たせ、喉の奥から咆哮を絞り出した。
「神代蒼真、いざ見参! 今日こそ、その醜悪な首をこの手で仕留め、貴様の悪夢に終止符を打ってやる!」
空間が震えるほどの叫び。だが、酒呑童子は身じろぎ一つせず、退屈そうに巨大な鼻を鳴らした。
「……以前の人間か。性懲りもなく、またぞろ命を捨てに来たというのか。貴様の力量など、先日の戦いで既に見飽きたわ。わざわざこのわしが腰を上げる価値すらない。子分ども、早くこの虫けらをひねり潰して追い返せ。わしの眠りを妨げるな」
その傲慢な一喝に応えるように、鍾乳洞の入口、そして闇の奥底から、無数の鬼が這い出てきた。
ぬらりと光る皮膚、血走った眼、裂けた口から漏れる濁った吐息。百を数える鬼の軍勢が、蒼真を完全に包囲していく。逃げ場などどこにもない。だが、蒼真の瞳には、死への恐怖ではなく、不退転の意志が宿っていた。
蒼真は退くことなく、背後に控える息子・蒼也と相棒の妖狐・葛の葉に向かって、全幅の信頼を込めて吼えた。
「予定通りだ! 今すぐ配置へつけ! 頼むぞ!」
決戦の火蓋は、凄まじい爆音と共に切られた。
蒼真は草薙の剣を抜き放ち、鍾乳洞を揺るがす地響きを立てて酒呑童子へと突進する。眼前の強敵を前に、恐怖を興奮へと変え、蒼真の剣筋が空を切り裂いた。
酒呑童子が何気なく拳を振るう。ただの拳打。だが、それが空間を圧迫する轟音を伴い、蒼真を襲う。
カキンッ!
金属音と共に火花が散る。剣で受け止めたはずの蒼真だったが、鬼の膂力は桁外れだった。衝撃を殺しきれず、蒼真の身体は人形のように宙を舞い、鍾乳洞の壁に叩きつけられた。
「お父さん!」
蒼也の悲鳴に似た叫びが響く。
「大丈夫だ……! いいから、予定通りやれ! 自分の役割を忘れるな!」
蒼真は瓦礫の中から血を吐きながら立ち上がる。その眼光は鋭く、獲物を狙う猛獣のように研ぎ澄まされている。父の言葉を受け、蒼也は即座に心を切り替えた。今、自分にできる唯一のこと。百の鬼の軍勢を食い止め、父への道を作ること。
蒼也は中学生剣道大会で優勝を飾ったその洗練された剣技を、実戦という名の殺し合いへと昇華させた。
呼吸を整え、鬼との距離を測る。踏み込んだその一歩は、疾風よりも速い。
剣閃が舞うたび、鬼の首が宙を舞い、黒い血飛沫が鍾乳洞の壁を汚す。今の蒼也には、鬼たちの動きがスローモーションのように見えた。天狗から学んだ極意が、彼の神経を研ぎ澄ませている。
だが、百の軍勢は伊達ではない。蒼也の剣技を警戒したのか、鬼の集団の中から一際巨大な体躯を持つ青鬼が姿を現した。その筋肉は鎧のように隆起し、手には巨大な戦斧を握っている。
「小僧、図に乗るな。わしが相手になってやるわ」
青鬼が重厚な大刀を構え、蒼也の前に立ちはだかる。
ガキンッ!
鋭い金属音が洞窟に反響し、火花が暗闇を照らす。青鬼の膂力は尋常ではない。一合、二合と打ち合うたびに、蒼也の手首に痺れが走り、骨が軋む音を聞く。
「ヒョロい剣だ! そんな華奢な刃で、何が守れる!」
青鬼の嘲笑と共に、渾身の一撃が放たれる。蒼也の剣が弾き飛ばされ、身体が大きくのけ反った。武器を失い、喉元という致命的な死角を晒す。
「もらったァ!」
青鬼がトドメの斧を振り上げた、その瞬間だった。空間に裂け目が走り、影が鎌首をもたげる。
「秘術、影縛り!」
葛の葉の冷徹な声が響き、床の影が生き物のように這い上がり、青鬼の足を凍てつかせる。一瞬、青鬼の巨体が硬直した。その一瞬が、死を意味した。
弾き飛ばされていた剣を空中で掴み直した蒼也が、その勢いを殺さずに青鬼の喉元を深々と引き裂く。青鬼の巨体が轟音を立てて崩れ落ちた。
「次だ!」
軍勢を薙ぎ払った蒼也の目に、崖の上から放たれる無数の矢が見えた。崖は険しく、駆け上がる隙に射殺されるのがオチだ。しかし、蒼也は天狗から教わった秘術を思い出していた。
気を丹田に練り、身体を宙へと浮かす。舞空術――。
重力を無視した軌道で垂直の壁を駆け上がり、蒼也は瞬く間に弓兵たちを皆殺しにした。
残るは、酒呑童子一人。
一方、蒼真は激闘の中で全身傷だらけだった。深淵を裂くような傷口から鮮血が絶えず流れ、床を赤く染めていく。葛の葉が蒼真の背後に回り、傷口に手を当てる。淡い光が傷を覆うが、完全な治癒には程遠い。
「予定通り……か。子供一人が増え、狐が一匹加わったところで、何が変わるというのだ」
酒呑童子は、嘲るように笑った。
蒼真は、深く呼吸を刻む。狙いは既に決まっている。筋肉と筋肉の付け根、関節の脆弱な一点だ。
蒼真が突撃する。酒呑童子の筋肉が微かに動いた瞬間、蒼真はそれを察知して軌道を変える。
――読まれている。
蒼也の攻撃は読まれており、吹き飛ばされた。
しかし、蒼真は怯まない。戦術が読まれていようとも、実行するのみ。それが覚悟というものだ。
蒼真は攻撃の旋回軸を変えず、アキレス腱、膝、肘と、酒呑童子の巨体の弱点部位を烈火のごとく叩き続けた。
蒼也と葛の葉も連動する。親子、そして相棒の息の合った連携が、伝説の鬼の足元を突き崩していく。
どれほどの時間が過ぎたのか。鍾乳洞に響くのは、荒い呼吸と刃がぶつかる音だけだった。
攻め続けて、激戦は、なお続いた。
ついに、酒呑童子の巨体が、初めて膝を地面に沈めた。
「今だ!」
三人の意志が重なった。
一斉に跳躍し、全神経を指先に込める。
その刹那、三つの刃が、酒呑童子の首を正確無比に断ち切った。
巨体が崩れ落ち、鍾乳洞に深い沈黙が訪れる。
「見事だ、人間。」
荒い息を吐きながら、蒼真は携帯端末を取り出し、震える手で討魔庁へと静かに告げた。
「……標的の撃破を確認した。直ちに回収班を回せ」
決戦は終わった。しかし、覚醒した彼らにとって、これはまだ長い戦いの序章に過ぎなかった。
鍾乳洞の外に広がる世界には、まだ見ぬ闇が蠢いている――。




