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第五章 覚醒 第六節 夜行さん 第三話:錯綜する推理と不可解な遺留品

第五章 覚醒 第六節 夜行さん 第三話:錯綜する推理と不可解な遺留品


1. 対策本部的状況と不可解なナイフ


臨時に設置された対策本部の中は、重苦しい緊迫感に包まれていた。ホワイトボードには被害者の顔写真が貼られ、その周囲を無数の付箋や捜査資料が取り囲んでいる。


「被害者の交友関係、および職場関係の洗い出しは現在も継続中です。今のところ、強い恨みを買うようなトラブルや、金銭的な大きなトラブルは見当たりません」


捜査員の一人が声を張り上げた。続いて、鑑識からの報告が読み上げられる。


「現場に残された凶器の果物ナイフについてですが――」


担当者は一度言葉を区切り、首を傾げた。


「ナイフから検出された指紋は、被害者本人のもののみでした。犯人のものは一切検出されていません」


その報告に、室内の空気が一段と引き締まった。


通常であれば、犯人は自身の痕跡を残すことを極度に恐れる。血のついた凶器をそのまま現場に放置すれば、DNAや指紋が採取されるリスクを自ら高めることになるため、普通は持ち去るか、あるいは徹底的に拭き取るはずだ。


――なぜ、犯人はそれほど重要な証拠を現場に残したまま逃走したのか。


その疑問に対する答えは、誰の口からも出てこなかった。状況証拠のピースが噛み合わないまま、捜査は早くも奇妙な違和感に直面していた。


2. 帰路の車内、葛の葉の仮説


夜更け。一通りの捜査を終えた蒼真たちは、疲労の色を滲ませながら帰宅の途についていた。街灯の光が車窓を流れていく中、静寂を破るように、助手席に座る葛の葉がふと口を開いた。


「今回の事件……。本当にただの偶発的な犯行だったのでしょうか。私は、あらかじめ綿密に計画されていたのではないかと睨んでいます」


唐突な切り出し方に、運転席の蒼也がバックミラー越しに視線を向けた。


「どういう意味だ?」


葛の葉はまっすぐ前を見据えたまま、淡々と持論を展開する。


「あそこで果物ナイフを用いて頸動脈を断つという手口。それ自体が、すでに周到に用意されたシナリオの一部だったとしたらどうでしょう」


「待て、計画されていたのなら、なおさらあのナイフの状況はおかしい。指紋がないことと矛盾するだろう」


「矛盾しません。例えば――『や行』さんの存在を思い出してください」


葛の葉の言葉に、蒼真はわずかに眉をひそめた。


「人の声を完璧に真似ることができる力があれば、相手を言葉巧みに誘導し、ある種の洗脳状態に置くことなど造作もないはずです。あるいは、以前池袋で出会ったあの占い師はどうでしょう。彼女がもし、あの被害者を事前に洗脳していたとしたら?」


「占い師が洗脳……?」


「ええ。人の心を操るなど、彼らにとっては朝飯前でしょう」


「だがな、葛の葉」蒼也が呆れたような、しかし警戒を怠らないトーンで遮った。「仮に彼らにそんな真似ができたとして、彼らが被害者を殺害するメリットはいったいどこにある? 動機が見当たらない」


「メリットなんて、最初から必要ないのかもしれませんよ」


「なんだと?」


「たとえば――。たまたま池袋で、私たちと彼らが出くわした。その偶然を利用して、あらかじめ水面下で仕込んでおいた殺人計画あたかも、私たちに未来を予言したかのように見せかけたかっただけだとしたら?」


葛の葉は指折り数えるように、可能性を次々と挙げていく。


「それに、彼らは影を媒介することなく、人間を意図した場所へ瞬時に移動させることが可能です。物理的な制約を無視できる。つまり、私たちの想像を遥かに超えたトリックが成立する環境が揃っているのです」


車内には、重い沈黙が落ちた。荒唐無稽に聞こえるが、彼らがこれまで対峙してきた異形の者たちの能力を思えば、完全に否定し切ることもできなかった。


3. 動画の検証と計画性の欠如


「……さまざまな可能性が考えられるな」


腕を組んでいた蒼真が、静かに口を開いた。


「憶測だけで話を広げてもキリがない。一つひとつ、確実な事実から整理していこう」


蒼真は手元にあった電子タブレットを取り出し、ダッシュボードの上に置いた。


「そう言えば、今回の殺人現場を捉えた防犯カメラの映像データがあったな。今すぐ確認できるか?」


「はい、問題ありません」


葛の葉が素早く操作し、画面に夜間の街頭を映し出した。モノクロの粗い映像の中に、微かに人影が浮かび上がる。


「……かろうじて、私たち自身の姿も映り込んでいますね」


蒼真は画面を覗き込みながら言った。


「ちょうど街路樹の電柱が死角になっていて、肝心の犯行の瞬間こそ隠れているが……」


「ええ、しかし周囲の状況はしっかりと記録されています」


映像を巻き戻したり、再生速度を落としたりしながら、二人は細部を精査した。


「要するに、これだけの状況証拠がありながら、肝心の決定的な瞬間はきれいに死角に収まっている。まるで、誰かが計算してその場所を選んだかのように」


蒼真は顎に手を当て、思考を巡らせた。


「待てよ。もしこの映像が示す通りだとすれば……この事件には、私たちが思うような『緻密な計画性』そのものが欠落しているとも解釈できるのではないか?」


「計画性がない、ですか?」


「ああ。あえて死角を選んだのではなく、結果的にそこが死角になっていただけの偶然。あるいは、犯人にとって犯行のプロセスそのものはどうでもよく、ただ結果だけが必要だったとしたら」


蒼真は視線をタブレットから外し、窓の外の闇に向けた。


「世の中には、明確な理由や動機など存在しないまま、人を害する異常な事件も数多く存在する。私たちは『彼らのような特殊な存在が関わっている』という前提にとらわれすぎて、かえって本質を見誤っているのかもしれない」


「……確かに、私の推論は少し飛躍しすぎていたかもしれません」


葛の葉は小さく息をつき、画面を見つめ直した。


「ああ。もっと多角的な観点から、今回の事件をゼロベースで分析し直す必要がある」


車は夜の首都高を滑るように進み、対策本部のあるビルへと急ぐのだった。事件の真相にたどり着くには、まだいくつかの分厚い霧を晴らさなければならない。

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