第五章 覚醒 第五節 山彦 第三話 対決
第五章 覚醒 第五節 山彦 第三話 対決
対策本部の空気は、重く張り詰めていた。窓の外ではどんよりとした雲が低く垂れ込め、まるでこれからの激戦を予感させているかのようだった。蒼真と蒼也は、テーブルを囲み、地図を広げながら最後の打ち合わせを行う。山彦――他人の姿を写し取り、記憶や能力までも奪い取る厄介な怪異。その討伐に向けて、二人は言葉を交わす必要すらないほどの緊張感を共有していた。
本部を出て、池袋へと向かう車内。沈黙を破ったのは蒼也だった。
「……左手、まだ痛むの?
蒼也の視線は、蒼真の左手に向けられている。前回の激闘で負った深い傷は、いまだ完治には程遠い。蒼真は軽く手を動かし、苦笑いを浮かべた。
「ああ、痛むよ。だが、この痛みは勲章のようなものだ。家族を守り抜いた証だからな」
蒼真は視線を窓の外の景色へと移し、静かに続けた。
「山彦には、この痛みという概念が理解できないだろう。いや、正確には『真似』ができないんだ。あいつは形を写し取ることはできても、その背後にある積み重ねや、心の奥底にある絆までは盗めない。前回は影縛りが有効だったが、あいつは決定的な『核』までは再現できなかった。そう考えると、勝算は十分にある」
蒼真は一度言葉を切り、少し寂しげな笑みを浮かべた。
「お前も母さんから聞いているかもしれないが、昔、俺は幼馴染のユズハという少女とペアを組んでいた。だが、彼女は戦闘中に俺を庇って命を落としたんだ。あの日、俺が抱えた喪失感、あの深い悲しみ。あれこそが俺という人間を形作っている。山彦に、死者の重みを真似ることはできないだろう。それに、草薙の剣――あれは真実を求める心に応える剣だ。偽物の蒼也には、決して鞘から抜くことはできないはずだ。人間は、そういった痛みや思い出を背負い、それを糧にして強くなっていくものなんだよ」
蒼真の言葉には、長く生きてきた者特有の深みと、未来を担う息子への信頼が滲んでいた。蒼也は深く頷く。父の背中を見つめ、自分もまた、そうして強くなっていかなければならないのだと心に誓う。
「……わかった。行こう、父さん。今度こそ、完全なリベンジを果たす」
池袋駅の喧騒は、いつものように人々が行き交い、現実の日常を演出している。だが、二人の目には、その影の中に潜む異質な気配がはっきりと映っていた。二人は手際よく二手に分かれる。蒼真は東口の繁華街へ、蒼也は西口の公園周辺を受け持つことになった。
張り詰めた空気の中、巡回を続ける蒼也の耳に、突如として甲高い叫び声が響き渡った。
「ひったくり! 誰か、助けて!!」
迷う暇はなかった。蒼也は地を蹴り、叫び声のした方へ駆け出す。そこには、慌てふためく女性と、逃走を図る男の姿があった。蒼也は卓越した身体能力で距離を詰め、男の背後から一瞬の隙を突いて背負い投げを決めた。男はアスファルトに叩きつけられ、気絶した。
騒ぎを聞きつけて駆け寄ってきた管轄の警察官に、蒼也は犯人を引き渡す。任務を終え、その場を立ち去ろうとした瞬間、蒼也の背筋に冷たいものが走った。強烈な違和感。まるで、霧の中に突き飛ばされたような眩暈だった。
(……今の、影は?)
男を捕まえた際、ふと視界に入ったはずの影が見当たらない。蒼也は再び振り返り、警察官とひったくり犯を注視した。
「……!」
見間違いではなかった。ひったくり犯の足元には、はっきりと黒い影が伸びている。しかし、犯人を受け取ったばかりの警察官の足元には、太陽が真上に近いにもかかわらず、影が影も形も存在しなかった。
「乗り移ったのか……!」
蒼也は即座に刀を抜き放つ。影が奪われることは、その存在の「核」が食い荒らされることを意味する。警察官がふらりと足元をよろめかせ、周囲の人々の影に触れようと手を伸ばした。妖は、宿主を変えることで逃走を図ろうとしているのだ。
蒼也は迷わず地面を斬りつけた。
「影縛り!」
青白い光が走り、警察官の影を地面に縫い付ける。
「草薙一閃!」
動けなくなった警察官の表情が、一瞬にしてゆがみ、山彦の顔へと変貌した。蒼也はすぐさま父に通信を入れ、現在地を告げた。
駆けつけた蒼真と合流し、二人は連携して山彦を追い詰める。山彦が抵抗しようと悪あがきを見せるが、準備を整えた二人の敵ではなかった。蒼真が正確に呪符を叩き込み、山彦を完全に封印する。
「……これで、終わりだ」
蒼真が安堵の息を漏らす。護送の間、蒼也はひったくり犯を保護しつつ、山彦が乗り移っていた警察官の様子を注視し続けた。もし、ここで呪符が剥がれれば、山彦は再び別の人間へ乗り移り、元の宿主は記憶を失った抜け殻になる可能性がある。
「父さん、山彦は今まで、一体何人の人間に乗り移ってきたんだろう」
帰路につく車内で、蒼也が静かに呟いた。
「……ああ。乗り移られた人々の罪はどうなるんだ。山彦が引き起こした悪事の責任は、山彦にあるのか、それともその体を無理やり動かされた本人にあるのか。答えのない問いだよ」
蒼真は力なくハンドルを握りしめる。妖を狩ることは、被害者を救うことであると同時に、悲劇の断片を目の当たりにすることでもあった。
池袋の夜の帳が降りる。二人は車を走らせながら、自分たちが背負うものの重さを、改めて噛み締めていた。戦いは終わった。しかし、人間と怪異が共存するこの世界で、真の平穏はいつ訪れるのだろうか。蒼也は窓の外の夜景を見つめながら、拳を強く握り直した。強くなければ、守れない。その事実が、今の蒼也にとっての唯一の真実だった。




