第五章 覚醒 第五節 山彦 第二話 撹乱
第五章 覚醒 第五節 山彦 第二話 撹乱
一、交錯する無線
「こちら、渋谷中央署。スクランブル交差点付近にて通行人の女性が刃物で切り付けられた! 重傷。至急、応援を要請する!」
警察無線特有のノイズ混じりの叫びが、対策本部のメインコンソールを震わせた。本部の通信官は眉間に皺を寄せ、即座に返信を行う。
「こちら対策本部。犯人の追跡状況はどうなっている? 逃走経路を特定せよ」
「……こちら渋谷。犯人を見失った。……煙のように消えた。これ以上の追跡は不可能だ」
報告の直後、本部は直ちに周辺を管轄する機動隊と近隣署へ応援を要請した。しかし、数分もしないうちに、現場に急行したはずの応援部隊から不可解な連絡が入る。
「こちら応援部隊。現場に到着したが、応援要請など出ていない。渋谷署の署員も、そんな無線は飛ばしていないと言う。本部の手違いではないか?」
通信官は背筋に冷たいものが走るのを感じた。無線のログを再確認する。間違いなく、先ほど渋谷署の識別コードで緊急要請が発信されていた。録音データを再生する。確かに、そこにいたはずの隊員の声が、記録されていた。
犯人は、警察無線を完全に掌握し、偽情報を流している。
「……あり得ない」
警察の無線システムは高度に暗号化され、専用の端末を持たなければアクセスは不可能だ。だが、その端末自体は警察官であれば誰もが携行している。犯人は警察関係者なのか。あるいは、システムをハックする未知の技術を持っているのか。混乱が本部を支配しようとしたその時、新たな悲鳴が無線を切り裂いた。
「こちら新宿、新宿署。……女性が、……首を切り付けられた。救急搬送中。意識混濁」
「現場で犯人を見たのか!」
「……姿など、なかった。気づいた時には、血が……」
事態は深刻化していた。犯人は渋谷で警官隊を撹乱し、その隙を突いて新宿で凶行に及んでいる。まるで、警察組織そのものを嘲笑うかのような「山彦」の如き神出鬼没の犯行。対策本部は、犯人の手のひらの上で踊らされているに過ぎなかった。
二、父と子の違和感
その頃、池袋の雑踏の中。蒼真と蒼也は、犯人を追い詰めるべくあえて別行動をとっていた。不穏な空気を感じ取った蒼真は、スマートフォンの画面を凝視し、周囲の気配を殺す。
蒼也から着信があった。
「お父さん、なかなか犯人の尻尾がつかめないね」
蒼真は溜息混じりに答える。
「ああ。……敵は一枚上手だ。警察無線をハックして、現場を撹乱している」
「僕は今、東口の公園周辺を調べてるよ。まだ何もなし」
「ああ。……気をつけておけ」
通話を終えた蒼真は、胸に込み上げる言い知れぬ違和感に足を止めた。
(今の声、今の会話の流れ……どこかで見覚えがある。いや、聞き覚えがある)
数分前。蒼真は既に、蒼也と「同じ会話」をしていたはずだった。
もし、先ほどの蒼也が、精巧に作り上げられた偽物だとしたら? 声を模倣し、会話の内容を学習し、まるで本人のように振る舞う存在。
しかし、物理的な通信端末はどうなっている? 蒼真のスマホに残る発信履歴。もしあれが偽物だとしたら、端末の信号はどうやって偽装したのだ? 現代科学を超越した何かが、この都市の深淵に潜んでいる。
「お父さん、僕、今からそっちに行くよ」
再び蒼也の声が響く。蒼真は即座に警戒を解かず、周囲を見渡した。やがて、人混みを縫うようにして、蒼也が息を切らして駆け寄ってくる。
蒼真は迷わず蒼也のスマートフォンを奪い取った。画面を開き、履歴を確認する。
「……何もない」
発信履歴が、綺麗に消去されていた。いや、最初から存在しなかったかのように空白だった。
「お父さん、どうしたの?」
不思議そうな顔をする蒼也に対し、蒼真は厳しい表情で問いかける。
「蒼也。お前、さっき俺に電話をかけたか?」
「え? かけてないよ。ずっと公園で捜索してたんだ。どうして?」
蒼真は蒼也の端末を突き返した。
「お前じゃない何かが、お前の声で俺を騙そうとしたんだ。……これを見てみろ。184発信(非通知)で受信している履歴がある。俺のプライベートな番号を知っているのは、ごく限られた人間だけだ。一般の人間が知るはずがない」
蒼真の脳裏に、討魔庁という組織の影が過る。犯人は討魔庁関係者なのか。それとも、さらに恐ろしい「何か」が、亡き者の声を借用して獲物を誘い込んでいるのか。
その時、沈黙していた蒼真のスマートフォンが再び震えた。
画面には「非通知」の文字。
蒼真は震える指で応答ボタンを押した。
「……もしもし」
スピーカー越しに聞こえてきたのは、微かなノイズと、聞き間違いようのない、懐かしくも冷え切った女の声だった。
「……もしもし」
「誰だ?」
蒼真の声が低く響く。
「……ユズハ」
電話が切れた。
ツー、ツー、ツー……。耳元で鳴り続ける無機質な発信音が、蒼真の心臓を締め上げる。
ユズハは、死んだはずだ。何年も前に、この手の中で、冷たくなったはずの存在だ。
「お父さん、大丈夫? 今の電話、誰から?」
背後から駆け寄ってきた蒼也が、蒼真の肩を掴んだ。その拍子に、蒼真は我に返る。
先ほどまで話していた「偽の蒼也」ではない。目の前の、温もりを持った我が子。
「……蒼也。さっき、俺と話したな?」
「えっ? 話してないよ。お父さん、誰と話をしていたの? さっきからずっと独り言を言っているみたいで、心配だったんだ」
蒼真の背中に、冷や汗が流れる。
「蒼也……。対策本部に戻ろう。今すぐだ。この街全体が、誰かに塗り替えられている」
蒼真は蒼也の腕を引き、雑踏を駆け抜けた。追いかけてくるのは、自分たちを嘲笑う「山彦」の幻影か。それとも、終わりなき悪夢の始まりか。
二人が角を曲がった瞬間、誰もいないはずの公衆電話から、ユズハの笑い声が静かに街へ反響した。




