第五章 覚醒 第四節 ヌエ 第二話 激突
第五章 覚醒 第四節 ヌエ 第二話 激突
京都の湿った空気が、地下鉄の二条駅を駆け抜ける。
神代一家は、無言のまま地上へと続く階段を上った。重い沈黙の中で、父・蒼真、母・レイカ、そして息子の蒼也の足音だけが、コンクリートの壁に虚しく反響する。
地上に出ると、目の前には夜の帳が下りた二条公園が広がっていた。街灯の光が乏しいその空間は、どこか異界の気配を孕んでいる。
レイカが指先を組み、結界を張るための術式を練り始めたその時、蒼也が静かに母の腕に触れた。
「お母さん、待って」
蒼也は自分を落ち着かせるように、深呼吸をひとつした。
「……僕に、作らせてくれないかな。自宅の裏の公園で、毎日何度も練習したんだ。イメージは完璧だよ。もし失敗したら、その時は助けてほしい」
レイカは少しだけ驚いた表情を見せたが、やがて優しく微笑み、一歩後ろへ下がった。「ええ、あなたの実力を信じるわ。やってみて」
蒼也は公園の中央に立ち、精神を極限まで研ぎ澄ませた。周囲の雑音、風の音、遠くを走る車の音までが、まるで水面に落ちる雫のように鮮明に感じられる。彼は指先を清め、早九字を結ぶ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
力強い言霊が夜気を震わせる。蒼也は周囲を睥睨し、天と地の理を繋ぎ合わせるように、ゆっくりと右手を掲げた。
「天つ光よ、地の理を結べ。邪を隔て、清き境をここに成せ――結界展開!」
詠唱の刹那、蒼也の足元から白銀の光が奔流となって溢れ出した。光の蛇は地を這い、公園の外周を瞬く間に駆け抜ける。やがて、その光は巨大な円柱状の壁となり、住宅街の騒音を遮断するように夜空へと突き抜けた。
「……見事ね、完璧だわ」
レイカが感嘆の声を上げたその時だった。
パサ、パサ、パサ――。
不吉な羽音が頭上で重なり、次々と黒い影が地面に叩きつけられた。
蒼也の足元に落ちたそれは、一羽、二羽、三羽……数え切れないほどのカラスの死骸だった。どれもが硬直しており、その目は異常なほどに濁り切っている。
「術師よ……!」
レイカの顔色が変わる。
「蒼也、結界の反動じゃないわ。何者かがカラスの死骸を依り代にして、こちらの様子を探っていたのよ。すぐ近くにいる……気をつけて!」
公園の入り口から、ゆっくりと拍手の音が響いた。
闇の中から現れたのは、黒いサングラスをかけた男だった。男は気怠げに笑いながら、蒼也の結界を無遠慮な視線で舐めるように見る。
「驚いたね。この年齢でこれほどの結界を張れるとは。英才教育の賜物か、それとも天性の才能か。末恐ろしい小僧だ」
男は拍手をやめ、冷酷な笑みを浮かべた。
「だが、忘れないでもらおうか。陰陽師の世界には、人間同士の礼儀というものがある。……お前たちは『ヌエ』を狩りに来たんだろう? 残念だが、先客がいるんだよ」
男の指先が不自然に曲がった。
「俺が既に仕留めて、今は俺の言いなりだ。……出てこい、ヌエ!」
闇の中から、禍々しい鳴き声が聞こえた。空間が歪み、鋭い爪を持った怪異が蒼也の頭上から急降下する。そして、雷撃を放った。
蒼也は、ダメージを受けたが、歯を食いしばり立ち上がった。
ヌエは、鋭い爪で、蒼也の側にある木々を倒していった。
一瞬の隙も許さぬ速度。しかし、蒼也よりも速く反応したのはレイカだった。彼女は懐から隠し持っていた特殊な銃を取り出すと、迷いなくヌエの眉間を撃ち抜いた。
弾丸は霊力を纏い、ヌエの動きを止める。すかさず、足元から現れた影――九尾の狐・葛の葉がヌエの影を踏みつけた。
「秘技、影縛り!」
「蒼也、今よ!」
母の叫びに呼応し、蒼也は腰の刀を抜き放つ。迷いのない一閃が、動きを封じられたヌエの核を貫いた。黒い煙となって霧散していく妖の死骸。
「へえ、九尾まで連れているのか。神代一家、噂通りの実力だな」
男は呆れるように肩をすくめると、今度は腰の鞘から刀を引き抜いた。狙いは最初からヌエではなく、父・蒼真だった。
「邪魔をしておいて、よくもまあヌエを殺せたものだ」
男の刀が、蒼真の刀と激しく火花を散らす。
キィィィィン! という高い金属音が公園中に響き渡る。
「……何故、邪魔をする!」
蒼真が刀を受け止めながら怒声を浴びせる。
「そもそも特級クラスの妖など、東京にだって掃いて捨てるほどいるだろう。なぜわざわざ京都まで出張ってきた?」
男は嘲笑う。
「俺が言いたいのは逆だ。討魔庁からの正式な討伐依頼も受けていないだろうに、人の縄張りに踏み込んで賞金首をかっさらっていく必要がどこにある? これは俺たちのビジネスなんだよ」
父が罵倒されている光景に、蒼也の中で何かが弾けた。怒りが頭に血を昇らせ、鞘から刀を抜き放って男へと飛び出す。
キーン! キーン!
三人の刀が複雑に絡み合う。しかし、蒼真が素早く蒼也の肩を掴んで引き留めた。
「蒼也、落ち着け!」
「ここで戦えば、公園の結界が破れ、市民を巻き込む。そして、今は家族を守ることが先だ。」
蒼真は男と対峙しながら、厳しく言った。
「陰陽師同士の無益な争いは、我らの法に反する。……すまん。エリアの境界線を見誤っていたのは、我々の情報収集不足だ。この場は引こう」
男もまた、刀を鞘に収めた。
「賢明だな。あんたも特級になったばかりだろう? 調子に乗っていると、すぐに足をすくわれるぞ。特級など、この世にはゴロゴロ転がっているんだからな」
サングラスの男は、蒼也の張った結界を解析し、まるで煙のようにすり抜けて去っていった。その背中からは、圧倒的な格の違いと、不吉な予兆が漂っていた。
公園の静寂が戻ったが、心はひどく荒んでいた。
父が屈辱を受けたこと、自分の力の及ばなさ、そして大人たちの理不尽な世界。
「……悔しいな」
蒼也は拳を握りしめた。
帰りの新幹線の中で、蒼也は窓の外の暗闇をじっと見つめていた。目から溢れる悔し涙が、膝の上で汚れていく。
レイカが蒼也の隣に座り、そっと肩を抱いた。
「蒼也、人生には理不尽なこともたくさんあるわ。今日の敗北も、あの男の言葉も、すべてがあなたを強くするための糧になる。今すぐ答えは出なくていいのよ」
母の言葉は温かい。それでも、蒼也の心に灯った小さな焔は、決して消えることはなかった。あのサングラスの男、そして自分たちの実力を否定したあの存在を、いつか必ず超えてみせる――。
蒼也は誓った。この悔しさを忘れない。そして、いつか必ず、自分たち自身の力でこの世界を証明してみせると。




