第八話 青い名入れ
――受託票 No.008
品名:名入れ済みイベントタオル追加分九枚・交換分三枚
届先:大三島 宮浦海辺交流館 受付本部
指定時刻:本日十三時二十分
今日である理由:島しょ部児童交流会の閉会前配布・解散後は各島へ帰路
代替:不可(記念配布物・本日現場手渡しのみ)
久世の白い資料は、まだ机に置いたままだった。
今治から大島へ伸びる細い青線は、今日も見せやすく、売りやすい。
けれどその朝、紬の前に来たのは、そこに描かれていない線だった。
「また見とるんか」
浜野が湯のみを置きながら言った。
「数字が出ています」
紬は表紙を閉じずに答える。
「週末だけでも別枠にできれば、窓口の負担はかなり変わります」
「数字はそうやな」
浜野は否定しなかった。否定しないところが、紬にはいつも少しやりづらい。
怒る相手なら反発できる。けれど浜野は、紬の理屈を認めたうえで、それでも違うとだけ言う。正しさだけでは追いつけない場所が、浜野の中にある。
電話が鳴ったのは、九時を少し回ったころだった。
「潮継ぎ当日便です」
相手は男の声だった。
「原田です。大三島の児童交流会で、今日は会場本部を見ています。今日もう一便頼めんか」
その名乗りに、紬の指がペンの上で一拍止まった。
あの日、紬の引けなかった最後の一本を実際に上がってくれた人物。一度も顔を合わせていないのに、声だけが先に業務として戻ってくる。
必要なことだけ先に出し、言い訳はあとへ回す。そういう話し方だった。
「品目をお願いします」
声は平らに保てた。
「名入れのタオル。追加九枚と、名前間違いの差し替えが三枚。青ひさし補修室で急ぎで仕上げてもらって、今朝最終で上がる」
青ひさし補修室。今朝最終。
「児童交流会の規模を伺えますか」
「島々から子どもが集まる。前の保育園の分とは別件や。今日は午後の閉会で配って、解散後はそのまま各島へ帰る」
原田の中では、二つの便が同じ仕事の続きとして扱われていた。前回潮継ぎを使ってよかったから、今回もまた一便。それだけのことだった。
紬は受託票へ書き込んだ。
閉会のあと、そのまま各島へ帰る。
式が終わったあとの時間ではなく、散る前の時間で閉まる荷だ。
「会場は」
「宮浦海辺交流館の受付本部。十三時二十分までに。そこから配布袋へ分ける」
「差出元は青ひさし補修室ですね」
受話器の向こうで原田が一拍置いた。
「そうや。宗方の。川北さんとこで出してもろうた青糸、この前の便で届いとるけん、今朝の差し替えにも使えた」
紬の手が、そこでほんの少しだけ止まった。
あの小さな紙切れを思い出す。
青、これで合っとる。助かった。今夜やる。
「受け取り時刻は」
「十一時十分に上がると連絡あり。うちは会場側から動けん。午前の船で島の子らが入ってくるけん」
紬は頭の中で線を引く。今治港から宗方港。そこから青ひさし補修室。受け取り。宮浦海辺交流館まで島内移動。指定時刻までは間に合う。
数字の上では、問題ない。
問題があるのは、数字の外側だけだ。
「受けます」
自分で言ってから、少しだけ声が硬かった。
通話を切ると、浜野が何も言わずに受託票を見た。
「児童交流会か」
「午後の閉会前配布です」
「佐伯さんとこの布やろな」
「たぶん」
以前運んだ佐伯織布の試作品のことを言っているのだと分かった。あのとき商談の席へ届いた薄青のタオル地が、その後どこへ回るのかまでは知らなかった。だが、あり得る話ではある。
湊が整備台の方から言う。
「追加分ってことは、並びが大事ですね」
「並び」
「名前順か、学校順か」
湊はペンを耳に挟みながら近づいてきた。
「混ざると渡す側が詰まるやつです。今日の荷、たぶん時間より順番の方が大事ですよ」
紬は受託票の余白へ書き足した。
状態条件:折れ・湿気回避/配布順維持
そこへ携帯が短く震えた。久世からだ。
本日午後、今治側で簡単にお時間いただけますか。週末便の枠案をお見せしたいです。
紬は画面を伏せた。
返信しようとして、しなかった。
◇
宗方港行きの船は、春の終わりにしては空いていた。
紬は船内で、今日の配布表を見ていた。原田がメッセージで送ってきたもので、学校名と児童名が並んでいる。
大島北小、伯方東小、上浦小。ほかにも、島の名を冠した学校がいくつか並び、最後に修正欄として三人分の名前が赤で打ってある。
ひとつは漢字の違い。ひとつは濁点。もうひとつは、名字が変わっていた。
配る側にすれば些細に見えるかもしれない。けれど受け取る子どもからすれば、そこがいちばん大きい。自分の名前は、自分のものとして一度しか渡されない。
そういうことを、紬は船の窓に映る自分の顔を見ながら思った。
東京にいたころ、名前は伝票番号の後ろに付いてくるものだった。部屋番号、氏名、電話番号。本人確認のための文字列でしかない。感情の方へ寄せて考えることは、むしろ禁じられていた。
宗方港で船を降りると、売店の向井美智代が「あら」と顔を上げた。
「今日はちゃんと自分で上がるんやな」
挨拶のつもりで言っているのだろう。だが紬には、その言い方が少しだけ刺さった。
「会場まで行きます」
「そらそうやろね。今日のは子どもの名前やもん」
向井は缶コーヒーの段ボールを積みながら続ける。
「青ひさしさん、朝からずっとミシン鳴らしよるよ。追加出た言うて」
紬は一礼して、港から町へ上がる坂を押した。
坂を上りながら、深呼吸を一回だけした。
青いひさしの店は、これまで何度も地図の上では見ていた。売店の女に説明され、川北に宛名として言われ、浜野に当たり前のように指で示された場所だ。だが自分の足で、その青い布の下まで立つのは初めてだった。
通りに面した小さな店だった。
ひさしの青は、海や空の青ではない。もっと手元の色だった。作業着のポケット口や、古いミシンの糸巻きにあるような青。入り口の引き戸の脇に、細い板看板が立っている。
青ひさし補修室
名入れ・修理・縫い直し
その下に、小さな古い表札があった。
相馬補修。
文字は日焼けして、近づかないと読めない。
観光向けの店なら、もっと見栄えのする字を選ぶ。もっと何をしてくれる場所かが瞬時に分かるように作る。けれどこの店は、その逆だった。必要な人だけが分かればいいという顔をしている。
引き戸を開けると、鈴が小さく鳴った。
店の中は、思っていたより明るい。窓際に工業用ミシンが二台。壁沿いの棚には糸巻き、押さえ金、端切れ、紙包み。奥には薄い布の間仕切りがあり、その向こうからミシンの音が続いている。壁際には、畳まれた段ボール箱が二つ置かれていた。ただの納品用にも見えたが、店の中のものが少しずつ片づけられているようにも見えた。
「潮継ぎです」
紬が声をかけると、ミシンの音が一度だけ止まった。
音が止まってから、声が戻るまでに、半拍だけ間があった。普段なら誰も気づかない長さだ。けれど紬の耳には届いた。
返ってきたのは、聞き覚えのありすぎる声だった。
「表の台に、宮浦の分を重ねてあります。追加は青札、差し替えは赤札。順番だけ崩さんで」
低くも高くもない、仕事のときの声。
紬は喉の奥が一瞬だけ乾くのを感じた。けれど自分の名は言わなかった。向こうも訊かなかった。訊かないまま、ミシンの足だけがいつもより少し早く動き出すのが、薄い間仕切りの向こうで聞こえた。
台の上には、白いタオルが束ねてあった。薄青の織り地に、濃い青で名前が刺してある。青札の九枚、赤札の三枚。ひと目で分かるように分けられ、それぞれの上に配布順の紙が載っている。
布地の隅には、小さな織りタグが付いていた。
佐伯織布
以前運んだ試作品の名が、布の端に小さく残っている。
紬は配布順の紙をめくった。学校順、名前順、修正箇所。仕事としてあまりに整っていて、かえって息が詰まる。
台の横の壁には、洗濯ばさみで注文票が何枚も吊るされていた。
大島北中吹奏楽部 楽器ケース肩当て補修
東浜船渠 作業着袖口二枚 名札縫い直し
風待館 客室予備タオル名入れ
常楽寺 座布団房直し
紬はその紙を見たまま、しばらく動けなかった。
学校の吹奏楽部。船渠。風待館。常楽寺。
それぞれ別の依頼として、自分は受けてきた。別々の人が、別々の事情で、別々の島と町から持ち込んできた荷だと思っていた。実際そうなのだろう。けれどその裏で、最後に同じ針先へ寄ってくるものがあったのだ。
島の生活を支える小さな手仕事の場所。
そこへ、これまで自分が運んだものの何本かが、すでにつながっていた。
奥の間仕切りの向こうで、またミシンの音が動き出す。
紬は声をかけなかった。かければ、何かが一気に現実になる気がした。
その代わり、台の端に置いてあった受け取り票へ、必要事項だけを記入する。
受領時刻。荷姿確認。配布順維持。受取人、潮継ぎ当日便。
最後に署名欄へ自分の名字を書こうとして、ペン先が一瞬止まる。
それでも書くしかない。
相馬紬
ペンを置いたのと入れ違うように、奥のミシンが、一度針を落とさないまま止まった。布の向きを直しているのか、糸の張りを見ているのか、間仕切りの外からは判断がつかない。
それから、声が戻った。
「青の順、変えんで運んでください。布は同じでも、糸の見え方が違うけん」
仕事の声だった。
ただ、それだけだった。
紬は「はい」とだけ答えた。声が自分のものに聞こえないくらい平たかった。
帰ろうとしたとき、台の隅に小さな糸切りばさみが置いてあるのが目に入った。柄の擦れ具合が、ひどく古かった。幼いころ、台所の引き出しにあったものに似ている。似ているだけかもしれない。けれど、そこから先は見ないことにした。
◇
宮浦海辺交流館までは、島の内側を回るバスが一本あった。
だが本数は少ない。次の便を待てば、十三時二十分にぎりぎりになる。紬は停留所の時刻表と、自転車のハンドルと、束ねたタオルの包みを見比べた。
待つか。走るか。
包みは軽い。けれど今日は重さより順番だ。袋の中で並びが崩れれば、会場の受付が詰まる。しかも風が上がれば、薄い布は思ったより簡単に端をめくる。
紬は包みの上からもう一度ゴムを掛け直した。
「走る方が、まだ読める」
誰に聞かせるでもなく言って、自転車を漕ぎ出す。
宗方から宮浦へ抜ける道は、観光の表道ではなかった。海沿いに店が並ぶわけでもなく、柑橘の倉庫と集会所と小さな家が途切れ途切れに続く。途中、干したタオル地が風に揺れている家があり、軽トラックの荷台にミシン油の缶が転がっているのも見えた。
島の内側を走っているだけなのに、さっき見た壁の注文票が頭の中で増えていく。
学校。船渠。宿。寺。どれも一見つながっていないようで、布と糸の側から見れば同じ網の中にあるのかもしれない。
途中で、半日授業らしい小学生の列とぶつかった。子どもたちが二列になって歩き、細い道を半分ふさいでいる。先頭の男の先生が紬に気づき、端へ寄せてくれた。その腰には白いタオルが差してあり、端に濃い青の文字が見える。
またあの青だ、と紬は思う。
一本の線ではなく、小さな名前で、島のあちこちに残っている青。
交流館へ着いたのは十三時九分だった。指定より十一分早い。
玄関前には、すでに子どもたちの靴が乱れて並び、海辺へ出るための帽子やライフジャケットが壁沿いに積んである。受付本部の机では、原田が赤ペンを耳に挟んだまま名簿を見ていた。
「早かったな」
「順番、崩していません」
紬が包みを差し出すと、原田はそれだけで十分という顔をした。
「助かる。午前便で伯方の子らが増えてな」
原田が受領票へ名前を書きながら言った。
十三時十一分 受付本部受領 原田
原田の隣には、あの吹奏楽部の件で世話になった藤岡先生がいた。今日は閉会前の合唱の音出しを見に来ているらしい。
「午後の集合写真に、これで全員分そろいます」
「写真」
「交流会の最後に、全員で撮るんです。午後から合流する子もいるので」
原田が包みを開く。青札の九枚。赤札の三枚。上から順に、学校ごとに配布袋へ入れていく。その動きに迷いがない。補修室で組まれた順番が、そのまま受付の手に移る。
そこで一人の女が、奥からやってきた。佐伯織布の美緒だった。以前、伯方の宿への試作品輸送を頼んできた、あの営業だ。腕に薄青のタオル地を抱えている。
「追加の無地、これで足ります」
美緒は紬に気づき、少しだけ目を見開く。
「相馬さん」
「佐伯さんの布でした」
紬が言うと、美緒は抱えたタオル地を見下ろして頷いた。
「商談で拾ってもらえた分の一部です。子どもの記念品用に、小ロットで回せるようになって。青ひさしさんに名入れしてもらってます」
それを聞いて、紬はやはり何も言えなかった。
あの試作品は、ただ商談へ間に合っただけの荷ではなかった。その先で、こうして島の子どもたちの手へ回る布になっている。
受付の奥で、子どもたちが列を作り始めた。名前を呼ばれた子が前へ出て、自分のタオルを受け取る。白地に青い刺しゅう。たったそれだけなのに、受け取る顔は皆違う。
「わたしの、濁点ついた」
前歯の抜けた女の子が、赤札から差し替えられた一枚を受け取り、ひどく真剣な顔で確認した。
「昨日のは違っとったんよ」
「今日のは合っとる」
原田が答える。
別の子は、名字の変わった一枚を胸に当てて、母親らしい女に見せている。女はただ頷くだけだ。泣きも笑いもしない。けれど、その頷き方だけで、今日ここで渡す意味が十分伝わった。
交流館の壁際では、作業着の男や宿のポロシャツを着たスタッフが、同じ机を囲んで荷を片づけていた。
島の生活は、観光と学校と仕事場と手仕事の店が、見えないところで同じ机の上へ乗る。紬は、そのことを頭では知っていたはずなのに、今日まで本当には見えていなかったのだと思う。
受付が一段落したところで、藤岡先生が小さく笑った。
「低音の子の妹も、今日来てるんです」
「妹さん」
「そう。あの日、マウスピースを届けてもらったでしょう。あの子の妹です」
紬は列の後ろの方を見た。濃い青の名が刺してあるタオルを両手で持ち、まだ列から離れない女の子が一人いる。自分の名前を何度も確かめる顔をしていた。
たかがタオル、と言えばそうなのかもしれない。
だが今日ここで、その言い方だけは違うと紬にも分かる。
◇
閉会前の全体写真は、交流館の裏手の海辺で撮られた。
子どもたちが白いタオルを肩に掛けたり、首に巻いたりして、学校ごとに並ぶ。海は午後の光で明るいのに、紬の目に残ったのは景色ではなく、布の端に刺してある濃い青の名前の方だった。
白地に青。
白地図に引いた青線と、どこか似ていた。
ただ地図の線は場所と場所を結ぶ。今日の青い名入れは、名前と名前のあいだにある見えない時間をつないでいる。織る人がいて、名を刺す人がいて、運ぶ人がいて、受け取る子どもがいる。どこか一つ抜けても、今日ここには残らない。
原田が受付机を片づけながら言う。
「青ひさしさんとこ、こういう細かい直しを黙って拾ってくれるけん助かるんよ。名前の違いなんて、量産の工場じゃ嫌がられるから」
美緒が苦笑する。
「うちで織るだけじゃ終わらんのです。最後に名前が入ると、急にその子のものになるので」
急にその子のものになる。
紬はその言い方を、しばらく覚えていた。
配送でも同じことがあるのかもしれない。荷物としては同じ箱でも、届く相手の今日へ乗った瞬間に、別の重さを持つ。
久世の資料に載っていた青線は、客が荷物を忘れて走るための線だった。それはそれで正しい。今日の試験便の成功も、紬はまだきれいなものとして覚えている。
けれど今日ここで見た青は、忘れるための青ではなかった。むしろ、忘れないための青だった。
◇
窓口へ戻ったのは、夕方近くなってからだった。
浜野は白地図の前に立っていて、紬を見ると何も訊かずに青鉛筆を寄こした。
「引いとけ」
紬は受け取り、白地図の前に立つ。
今治港から宗方港へ。そこから青ひさし補修室へ短く上がる線。さらに宮浦海辺交流館まで、島の内側を横へ抜ける線。宗方から青ひさし補修室、さらに宮浦までが、初めて一本につながった。
浜野がその線を見て言う。
「今日は橋やのうて、島の中やったな」
「はい」
「何運んだ」
紬は少し考えてから答えた。
「名前です」
自分でも、少し変な答えだと思った。けれど今日の荷を一番正確に言うなら、それだった。
「布でも糸でもなく」
「その子の名前を、今日中にその子へ渡す便でした」
浜野は頷きも笑いもしなかった。ただ「ほう」とだけ言う。
湊が整備台の方から声をかける。
「青、合ってました?」
紬は、あの小さな紙切れを思い出す。
「合っていました」
「ならよかったです」
その返事もまた、仕事の声だった。
机の上には、久世の白い資料がまだ置かれていた。
その青線は今日も魅力的だった。
けれど紬は、そこに描かれていない線をもう知っていた。
宗方の青いひさしの下。壁に吊るされた注文票。吹奏楽部、船渠、風待館、寺。別々に見えた依頼が、あの小さな店で静かにつながっていたこと。
白地図に引いたばかりの大三島の内側の線を、紬はしばらく見つめた。
それは観光客に見せるための線ではない。橋の上からだと、たぶん見えない線だ。島の中の、もっと低いところを通っている。
けれど今日の青は、これまででいちばん暮らしに近かった。
白地図の上で、青い線が増えていく。
その一本一本は、道というより、縫い目みたいだった。




