第七話 見せるための配送
――受託票 No.007
品名:プレミアム手荷物転送試験便(宿泊トランク一個・衣装ケース一個・機材ポーチ一個)
届先:大島 海坂オーベルジュ〈風待館〉 海側ヴィラ棟 V-2
指定時刻:本日十六時十分
今日である理由:媒体取材を兼ねた試験運用本番日・宿到着時に室内配置完了が必要
代替:不可(本番評価日・記事撮影あり)
窓口の前を、白いタオルを肩にかけた子どもたちが駆けていった。
端に濃い青の糸で、一文字ずつ名前が縫われている。み、さ、き、た、け。まだ真新しい糸の光り方で、先週の保育園イベント用に縫われたものだと分かる。
紬はガラス越しにそれを見て、すぐに視線をノートへ戻した。
依頼内容、所要時間、状態条件、想定単価、再現性。見開きに引いた罫線の上へ、彼女はこれまでの案件を並べ直している。吹奏楽部のマウスピース。試作品タオル。造船治具。法事の写真。婚礼の髪飾り。補修部品と青い糸。
最後の一件だけ、備考欄に小さく書いた。
最終行程:他者引継
そこへ、ガラス戸が静かに開いた。
「朝から仕事熱心ですね」
紺のジャケット姿の篠原梓が、タブレット端末を抱えて入ってくる。その後ろには、初めて見る男がいた。四十代半ばくらい、細身のスーツに、観光業らしい柔らかさと金融の匂いが同居している。
「瀬戸環ホスピタリティ事業開発室の久世です」
男は名刺を差し出した。
「先日の婚礼案件、拝見していました。今日はその延長で、正式に試験便をお願いしたく」
名刺の紙質まで昨日の篠原と似ていた。厚く、白く、角が正確だ。紬は名刺を受け取りながら、浜野の方を見た。浜野は窓辺に立ったまま、「ほう」とだけ言う。
篠原がタブレットを開く。
「本日、弊社が組んでいる新プランの試験運用を行います。今治のサイクル拠点で荷物を受け、ライダー本人は身軽にしまなみを走る。そのあいだ、荷物は別系統で宿へ入れ、到着時には室内に配置完了している。単なる転送ではなく、体験商品として見せるための便です」
「誰の荷です」
浜野が訊く。
「媒体取材です」
篠原は資料をめくった。
「生活誌『旅と輪』の編集者、尾上理香さん。今日、今治から大島まで走り、夕方に風待館で宿泊レビューと夕景撮影を行います。荷物は宿泊用トランク、夕食用衣装ケース、撮影データ用の機材ポーチ」
「それは、便利になる荷やないんか」
浜野が言った。
紬は篠原の資料を見たまま答えた。
「通常の手荷物転送なら、そうです。でも今日は違います。媒体取材を兼ねた試験運用の本番です。荷物が部屋に置かれているところまで成立しなければ、商品そのものが成立しません」
「今日だけ、荷物やのうて導線を運ぶ便になるいうことか」
「はい」
紬と篠原の声が、ほとんど重なった。篠原はすぐに続ける。
「記事化の前提になる体験導線の確認で、同席するのは弊社と誌面側だけです。今日成立しなければ企画自体が流れます」
浜野はそれ以上訊かず、白地図を一度見た。それから、ゆっくり紬を見る。
「どう思う」
その問いが自分に向けられるのを、紬は少しだけ待っていた気がした。
「受けるべきです」
言葉は驚くほどすぐ出た。
「今日の案件は、時間と状態と受け渡し条件が明確です。再現性もあります。試験便として成立させる価値がある」
篠原の目がわずかに細くなる。久世は何も言わない。ただ、紬の返答を覚えた顔をした。
「料金は」
浜野が言う。
篠原は一枚の紙を差し出した。紬が先に見てしまう。金額の欄に、思わず視線が止まった。今日一便で、これまで受けた三件、いや四件ぶん近い数字になっている。
浜野はそれを見ても顔色を変えなかった。
「ふむ」
それだけだった。
「本日の流れです」
篠原が続ける。
「荷の受け取りはサンライズ糸山で十時四十五分。尾上さんは十一時前に出発し、来島海峡大橋を渡って大島へ。途中、亀老山の取材を入れるので宿到着は十六時二十分前後。荷は十六時十分までにヴィラ棟V-2へ。室内配置まで完了している必要があります」
「室内配置」
紬が繰り返す。
「はい。客が着いたとき、荷物のことを考えなくていい状態まで」
荷物のことを考えなくていい状態。
その言い方は、紬の胸のどこかにまっすぐ入った。配送の側から見れば、曖昧で、余計で、管理項目が増えるだけの言葉だ。けれど商品として見るなら、これほど分かりやすい価値もない。
「受けます」
紬が言うと、浜野は小さく息をついた。
「今日はお前が前で組め」
◇
サンライズ糸山の一角に、篠原が仮設の受付卓を用意していた。
浜野も、今日は試験便の立ち会いとして、受付卓から少し離れた場所に立っていた。
白いクロス、館名入りのスタンド札、確認票、白い荷札。
どれも、荷物を預ける不安を商品らしい手触りに変えるためのものだった。
湊はその横で、小型の二輪トレーラーを自転車へ連結していた。荷台の延長ではなく、独立した低い台車で、タイヤが太く、重心が地面に近い。
「トランク、これに載せます」
湊は留め具を確かめながら言った。
「衣装ケースはフレーム側。機材ポーチは手元に。今日の荷は、壊さないだけじゃなくて、見せ方も商品なんで」
「見せ方」
「ラウンジに着いて、濡れたトランク出てきたら、そこで終わりでしょう」
たしかにそうだった。荷物が生きていればいい案件ではない。客が最初に見る状態が、そのままサービスの顔になる。
紬は受付卓の上に、自分で作った確認票を並べた。
受領時刻
荷姿確認
配置条件
受取人
最終配置完了時刻
開封許可:衣装ケースのみ
未開封:トランク・機材ポーチ
衣装配置:ジャケットをクローゼットへ吊り込み
機材配置:デスク上、直射日光を避ける
篠原がその用紙を見て言う。
「こういうの、弊社の案にはまだなかったです」
「最後の時刻が曖昧だと、成功したことになりません」
紬は答えた。
「宿へ着いた時刻ではなく、客が荷物を忘れられる状態になった時刻が締切です」
自分で口にしてから、少しだけ可笑しかった。数日前なら、そんな言い回しを嫌っていたはずだ。
十時四十三分、尾上理香が現れた。
三十代後半、黒のサイクルジャージの上に薄いシャツを羽織り、目だけが非常に落ち着いている。記事を書く人というより、条件を見て正確に比べる人の目だと紬は思った。右手には小さなキャリー型トランク、左肩に機材ポーチ、スタッフが衣装ケースを一本持っている。
「今日お世話になる尾上です」
声も簡潔だった。挨拶に無駄がない。
「潮継ぎ当日便の相馬です。こちらで確認します」
紬はトランクの外装を見た。擦れ、破損なし。衣装ケースは黒。機材ポーチは防水仕様。タグを三つ並べ、尾上の名前、V-2、配置条件を書き込む。
「衣装ケースは着後すぐ使いますか」
「十六時半過ぎには着替えます。皺は避けたいです」
「機材ポーチは」
「ノートPCと記録メディアです。衝撃と熱を避けてください」
「分かりました。室内配置は、トランクをベッド脇、衣装はハンガー、機材はデスク上でいいですか」
尾上が少しだけ目を上げた。
「そこまで指定できますか」
「指定しないと、今日の試験になりません」
尾上は短く笑った。
「頼もしいですね」
その一言が、紬には妙に効いた。
東京では、頼もしいと評価されるのは、たいてい事故を未然に潰したあとだった。しかもその多くは画面の向こうで、誰にも見えない。いまは違う。目の前で荷札を書き、確認票を差し出し、条件を揃える。その作業そのものが、最初から評価の対象に入っている。
尾上は確認票へ署名しながら言った。
「正直、こういうサービスがあるなら助かります。荷物を気にせず走れるだけで、体験の密度が変わるので」
紬は頷いた。
「分かります」
その返事に、浜野が少しだけこちらを見たのが分かった。
尾上が走り出したあと、湊がトランクをトレーラーへ載せる。留め具を二重に掛け、白い防水カバーをかぶせた。衣装ケースは折れないようフレーム側へ沿わせ、機材ポーチは紬の手元に固定する。
「今日の荷、重さはそうでもないです」
湊が言う。
「でも失敗の顔が分かりやすい。こういうのは客がすぐ覚える」
「成功の顔も分かりやすいです」
紬が返すと、湊はほんの少しだけ笑った。
「紬さん、今日はそっち寄りですね」
受付卓での撮影と荷姿記録が入り、潮継ぎの便が実際に走り出したのは十一時半を少し過ぎてからだった。
◇
大島へ向かう橋の上は、週末らしく自転車が多かった。
春の終わりの光が強く、海は観光ポスターみたいに明るい。観光客は立ち止まり、スマートフォンを掲げ、橋の鉄骨越しに海を撮る。トレーラーを引いた紬は、その脇を一定の速度で抜けていく。
荷は低い位置で安定していた。揺れは少ない。条件がよく揃っている案件だと身体でも分かる。風も弱い。橋も生きている。到着時刻の予測はきれいな線になって頭の中へ伸びる。
こういう案件なら、設計できる。
こういう案件ばかりなら、誰かの泣き声や、説明しきれない事情や、最後の数分の暮らしの都合に、そこまで触れなくて済む。
その考えが胸の内側で形になったとき、紬は自分がそれを好んでいることに気づいた。
風待館へ入ったのは十五時七分だった。
余裕は十分ある。トレーラーを裏手の搬入口へ回すと、篠原がすでに待っていた。
「早いですね」
「橋が順調でした。V-2は入れますか」
篠原の表情が、そこで少しだけ曇った。
「それが、まだです」
「何時ですか」
「現時点で、十五時五十分見込み」
紬は即座に時計を見た。尾上の宿到着予想は十六時二十分前後。時間だけ見れば、まだ吸収できる。
「遅れ理由は」
「前泊のお客様の出発がずれました。加えて、ヴィラ棟のテラス側で雑誌の事前撮影が延びて、清掃が押しています」
「他の部屋は」
「V-4なら先に空きます。ただし今日の取材はV-2の窓から見える海を撮る前提で組まれていて、別棟への振り替えは難しいです」
久世がラウンジの奥から出てきた。
「どうしますか」
訊き方が試すようで、紬は少しだけ苛立った。だが、その苛立ちがかえって頭を冷やした。
荷は宿へ着いている。客はまだ橋の上か、大島のどこかを走っている。問題は部屋ではなく、部屋へ入るまでのあいだにサービスの顔を崩さないことだ。
「館内の動線図をください」
紬が言うと、篠原はすぐに紙の見取り図を広げた。
フロント、ラウンジ、ヴィラ棟、リネン庫、サービス廊下。紬は指で距離を測る。V-2の手前に、小さなバックヤードの空間がある。鍵が掛かり、清掃スタッフだけが使う区画。
「ここ、使えますか」
「備品仮置き室です」
「衣装ケースをここで先に吊るす。トランクと機材はロックして待機。V-2が空いたら、最終入れだけ十六時十分までに間に合わせる」
久世が言う。
「完全な室内配置完了は、十六時十分までが条件です」
「分かっています」
紬は答えた。
「だから最終配置完了時刻を十六時十分に合わせます。前工程を全部、その前に寄せる」
浜野なら、「入れとるんよ、最初から」と言う場面だと、ふと思う。人が詰まることも、部屋が遅れることも、全部最初から線の中へ入れて組み直す。
「それでいきましょう」
篠原がすぐに動いた。
「ハウスキーピング、V-2優先。十六時前にテラス確認だけ済ませて」
だが問題はそれだけではなかった。
搬入口の奥には、同じような白い荷札の付いた箱やケースが並んでいる。婚礼の小物箱、宿泊客の手荷物、クリーニング戻しのガーメント。どれも白い紙に黒字で部屋番号と名前。遠目には全部同じ顔だ。
スタッフの一人が、尾上の衣装ケースを別のラックへ掛けようとした瞬間、紬は声を上げた。
「待ってください。それは試験便です」
スタッフが振り返る。
「はい?」
「通常搬送に混ぜないでください。今日の荷は、受領から最終配置まで記録を切ります」
言いながら、紬は自分のタグの甘さに気づいていた。白札に黒字。それでは他の荷と見分けがつかない。婚礼のときは、古い札が箱を守っていた。今日は、その代わりになる印を、こちらが用意しなければいけなかった。
彼女は鞄から青鉛筆を取り出し、三つの荷札の角へ斜めの青線を一本ずつ引いた。
「これを試験便識別にします」
篠原がすぐに理解する。
「以後、試験便は青線付きで分けましょう」
久世は無言でその様子を見ていた。記録している顔だった。
衣装ケースを備品室のポールへ掛け、機材ポーチは施錠できる事務室のデスク脇へ、トランクはロック付きワゴンへ。
15:21 衣装ケース吊り込み完了
15:24 機材ポーチ施錠待機/直射日光回避
15:26 トランクロック待機
こういう作業が、紬にはひどく性に合った。荷物の意味が、全部項目に置き換わる。誰かの思い出や、家族の気持ちや、昔から使っている青の差ではなく、配置条件、完了時刻、受取人。処理しやすい形へ意味が揃っていく。
それは救いだった。
◇
紬の横で、篠原がインカムを耳に当てた。短い応答のあと、紬の方を向く。
「V-2、入れます」
十五時五十八分、V-2の清掃がようやく上がった。
紬はすぐにトランクをワゴンから出し、衣装ケースと機材ポーチを拾った。サービス廊下は客の目に触れない細い道で、床は静かで、窓もない。見せるための宿の裏側は、見せないためにひどく効率的だった。
V-2のドアを開けると、室内はまだ清掃の匂いが少し残っていた。白いリネン、海へ向いた大きな窓、低いデスク。部屋そのものが記事になるよう整っている。
紬は動きを止めない。
トランクをベッド脇へ。衣装ケースからジャケットだけを出し、クローゼットへ掛ける。裾の揺れを一度だけ手で整える。機材ポーチは、窓光が直接当たらないデスクの奥へ置いた。荷札は見えない側へ倒す。空の輸送ケースは視界から消す。
十六時九分。最後にドアの位置から室内を見渡す。
荷物がある。だが、運ばれてきた感じは残っていない。
それでいいのだと思った。今日の荷は、届けた痕跡を見せないことまでが商品なのだから。
「完了です」
紬は廊下で待つ篠原に告げた。
篠原はインカムで一言伝えた。
「十六時十分、記録します」
篠原は確認票の最後の欄に署名した。
最終配置完了 16:10
宿側確認 篠原梓
その数字を見た瞬間、胸の奥に東京時代とは別の種類の充足が入った。事故を防いだあとの安堵ではない。最初から設計した線が、そのまま現場に現れたときの快さだ。
◇
尾上が風待館へ着いたのは、十六時二十三分だった。
頬に少しだけ日焼けの赤みを乗せ、肩で息をしながらも表情は明るい。フロントで鍵を受け取り、篠原が「荷はすでにお部屋へ」と告げると、尾上は眉を上げただけで大げさには反応しなかった。
だがV-2のドアを開けた瞬間、その目つきが変わった。
ベッド脇のトランク。クローゼットのジャケット。デスクの機材ポーチ。すべて、自分が走ってきたあとに一番手を伸ばす場所へ納まっている。
「……これは、いいですね」
尾上は部屋へ一歩入ってから言った。
「荷物が届いている、じゃなくて、もう今日の後半が始まっている感じがする」
篠原が静かに微笑む。久世は壁際で何も言わない。紬だけが、ドアの外でその言葉を聞いていた。
もう今日の後半が始まっている。
それは配送の評価として、紬が今まで聞いた中でいちばん腑に落ちる表現だった。届けるだけではなく、相手の時間を次へ進める。これまでの生活便も、結局はそういう仕事だったのかもしれない。だが今日の案件は、それが料金表にも記事にも、そのまま載せられる形で見える。
尾上はジャケットを指先で触れた。
「皺、出てないですね」
「配置条件どおりです」
紬が答えると、尾上は振り返った。
「ありがとうございます。こういうの、実際にやってもらうと分かります。走っている間、荷物のことを完全に忘れていられたので」
忘れていられる。
その価値が、紬には分かりすぎるほど分かった。忘れたいもの、考えたくないもの、最後の数分を誰かに任せてしまいたいもの。そういうものから目を離せる仕組みは、たしかに人を救う。
それが暮らしの荷であるかどうかは、別として。
◇
窓口へ戻ったのは、夕方の光がもう海の方へ落ちきったあとだった。
今治港の窓口には浜野が帳面を広げたまま待っていて、湊は整備台で工具を片づけている。紬はトレーラーを軒下に寄せ、輸送用の空ケースを二つ机へ置いた。
篠原と久世は、風待館から軽自動車で今治まで戻ってきていた。久世は名刺をもう一度差し出す形で席に着く。
「今日の一便、見事でした」
声は穏やかだったが、中身は営業に近い。
「試験としても、商品としても成立しています。正直、これなら十分売れます」
篠原が補足する。
「婚礼、宿泊、サイクリスト。どれも顧客が求めているのは、運んでもらうことそのものではなく、荷物を気にしないで済む時間です。今日の便は、それをちゃんと形にできました」
久世は白い資料の表紙を机へ置いた。
SETOUCHI RIDE LIGHT / プレミアム手荷物転送
「本題ですが」
彼はそこで、浜野と紬の両方を順に見た。
「この導線を、潮継ぎ当日便さんの中核候補として一緒に試せませんか。将来的には、運営委託や窓口の再設計も含めて考えたいと思っています」
紬は無意識に、背筋を伸ばしていた。
提携。あるいは、実質的な事業再設計。言葉は柔らかくても、中身は潮継ぎの優先順位を変える話だった。生活の小口を核にしたいまの窓口を、観光導線の高単価サービスへ組み直す。そのかわり収益は安定し、設備も増え、人手も確保しやすくなる。
久世は続ける。
「生活便を全部なくせ、という話ではありません。朝夕の枠で残すこともできる。ただ、経営の柱は見える便に置くべきです。今日のような案件です。景色に金を払う人の動線に入れば、窓口はずっと楽になります」
楽になります。
その言葉に、紬の心がわずかに動くのを止められなかった。
楽になる。事情を全部聞き取らなくてもいい。誰の法事か、どの青か、どこで一針目が落ちるのか、そこまで踏み込まなくていい。白いタグと時間保証で、意味を単純にできる。見える便を、見える形で回せる。
それは、ひどく魅力的だった。
「今日の一便の売上は、これまでの何便分だと思いますか」
久世が数字を言う。紬はその金額を聞いて、顔には出さなかったが、頭の中で即座に比較していた。マウスピース、写真、補修部品。いくつ積めば同じになるか。
久世はさらに静かに言う。
「しかもこの便は、今治と大島のあいだだけで成立します。まず売れる線を太くする。伯方の先や、島の細い暮らしの道まで、最初から全部抱えなくていい」
その一言だけは、紬の胸に別の角度で入った。
伯方の先。
白地図の、まだ引けていない空白が脳裏に浮かぶ。大三島へ入る橋。その先の町。そのさらに先の、青いひさし。
久世はもちろん、そんなことを知って言っているわけではない。ただ事業の話として、売れる導線を先に固定しようと言っているだけだ。
なのに紬には、その提案が自分の逃げ道の輪郭をなぞっているように聞こえた。
「運営を引き受ける、というのは」
紬は自分でも驚くほど自然に、話の先を尋ねていた。
久世は答える。
「名称の扱いも含めて相談ですが、窓口機能は残せます。スタッフも可能なら継続雇用したい。潮継ぎさんが持っている現場知と、こちらの販売導線を組み合わせれば、かなり強い商品になる。もちろん生活便は必要枠として残す。ただ優先順位を変えるんです。見えにくい便を軸にするのではなく、見せられる便を軸にする」
「理屈は通っています」
紬が言うと、久世は小さく頷いた。
「ええ。感情論ではありません」
その言い方が、紬には好ましかった。
感情論ではない。そう言い切ってくれる相手は、東京を離れてからむしろ少なかった。島ではたいてい、人の都合の方が先に立つ。風も、待ち時間も、法事も、学校も、みんな理由になる。そのたびに荷物の意味は広がって、数字だけでは扱えなくなる。
だが久世の話は違う。意味を狭くして、見せやすい価値だけを太くする。紬は、それができる仕事を知っていたし、その中で生きてきた。
浜野がそこで初めて口を開いた。
「見せやすい便は、そら金になるやろな」
久世は否定しない。
「なります」
「ただ、見えにくい便が消えたら、困る人は出る」
「その枠は残します」
篠原が静かに言う。
「全部を観光に振るつもりではありません。ただ、全部を同じ窓口で同じ基準で抱えるのは、もう厳しいと思うんです」
紬は、その言葉にも頷きかけていた。
厳しい。たしかにそうだ。収益の立ちにくい小口だけで回し続けるには、現場の体力が要る。誰かが擦り減る。東京でそれを見てきたからこそ、紬には分かる。
浜野は湯のみを持ち上げるような仕草だけして、結局手を止めた。
「考えとくわ」
久世はそれ以上押さなかった。
「それで十分です。今日はまず、成功の確認だけで」
差し出された資料を、紬が受け取る。白い表紙の中央に、細い青線が一本だけ引かれている。今治から大島へ向かう、きれいな線だ。
景色のための線。見せるための線。誰かが荷物を忘れて走るための線。
その単純さが、紬にはまぶしかった。
◇
久世たちが帰ったころには、空が少しだけやわらかくなっていた。
トレーラーを外している湊へ、紬はハードケースと確認票を渡す。湊は紙の時刻をざっと見て、口笛も吹かずに言った。
「きれいですね」
「何がですか」
「全部、予定どおりなんで」
紬は答えなかった。
きれいだった。だからこそ心地よかった。途中で誰かの葬儀が入り、渡し船が昼飯へ行き、用務員が港へ下りてくるようなことはなかった。部屋は遅れたが、それもホテルの裏導線の中で処理できた。見えない側も含めて、全部が商品に組み込まれていた。
「尾上さん、喜んでました?」
湊が訊く。
「はい。荷物のことを忘れて走れたって」
湊は留め具を外す手を少しだけ止めた。
「それは、いいことなんでしょうね」
その言い方に含みはなかった。ただ事実を受け取る声だった。だから紬も、すぐには何も返せない。
浜野は白地図の前に立っていた。青鉛筆を一本、机の上へ転がして寄こす。
「引いとけ」
紬は受け取って、地図の前に立つ。
今治から来島の橋へ。大島へ。そこから風待館まで。
その線はもう一度目だった。婚礼の髪飾りを運んだとき、一度引いた線と同じ道筋だ。紬は青鉛筆を置いたまま、少しだけ迷う。新しく一本引くのではない。同じ場所を、もう一度なぞることになる。
「どうした」
浜野が訊く。
「同じ線です」
「濃なるな、それ」
紬は前の線の上を、もう一度なぞった。
一度目より濃くなる。紙の上で、今治から大島への青が少し太る。景色のいい宿へ向かう線は、ほかの線より説明しやすく、見た目にも分かりやすい。人に見せるなら、たぶんこういう線だ。
「今日の荷、何やった」
浜野の声が背中に来る。
紬は少しだけ考えてから答えた。
「忘れて走れる時間です」
「ほう」
「荷物そのものより、そっちを売る便でした」
「せやな」
浜野は否定しなかった。
「悪いもんでもない」
その言葉に、紬は少しだけ安心した。浜野が頭から否定するのなら、まだ反発できる。だが彼は、正しさのあるものを正しいと認める。その上で、別の正しさも捨てない。
「数字としては、かなりいいです」
紬は言った。
「今日の一便で、今までの何件分かになる。再現もできます。導線も組みやすい」
「お前はそういうの、好きやろ」
「はい」
躊躇なく答えられた。
好きだ。誰が見ても同じ価値だと分かるもの。説明しやすいもの。条件を揃えれば同じ品質で繰り返せるもの。そういう仕事の方が、自分には向いている。少なくとも、向いていると思ってしまう。
「伯方の先へ、毎回行かんでもええしな」
浜野が、何気ない声で言った。
紬の手が、青鉛筆の先で一度だけ止まる。
久世と同じことを、今度はまったく別の意味で言われたのだと分かった。事業の話ではない。紬自身の足の話だ。
「……売れる線から太くするのは、間違ってないです」
紬は地図を見たまま言った。
「間違ってないやろな」
浜野はそれ以上、踏み込まなかった。
窓口の外で、観光客の自転車が数台通り過ぎる。ベルが軽く鳴り、笑い声が海風に混じる。大島までの線は今日も生きていて、景色の客をきれいに運んでいる。
白地図の下の机には、久世から受け取った白い資料が置いてある。その表紙の青線もまた、今治から大島までで止まっていた。伯方の先は描かれていない。大三島も、宗方も、青いひさしの店もない。
紬はそのことに、奇妙なくらい心を引かれた。
そこまでで足りる線。そこまでで回る商売。そこまでで続く仕事。
もし本当にそうなら、自分はずっと、あの先を白いままにしておけるのではないか。
白地図の今治と大島のあいだの線は、二度目になぞられて濃くなっていた。ほかの線は細いままなのに、そこだけが目立つ。
その濃さが、その日の紬には少しだけ救いに見えた。




