第六話 一針目の締切
――受託票 No.006
品名:工業用三つ巻き押さえ金・針板ネジ・補修用青糸(三巻)・色見本片(名入れ端切れ)
届先:大三島 宗方 青ひさし補修室
指定時刻:本日十七時四十五分
今日である理由:翌朝納品分の地元保育園イベント用タオルを今夜中に縫い上げるため
代替:困難(旧型ミシン規格・色番指定)
翌週の土曜の朝も、窓口の前に”分かりやすい荷”が寄ってきた。
今日も、開けて一時間のうちに、宿泊客のキャリーケースが三本、サイクリストの防水バッグが二つ、婚礼会場宛てのドレスカバーの問い合わせが一件あった。どれも説明しやすい。届け先も、締切も、料金も、きれいな列に並ぶ。
紬は受託票を並べ、依頼内容、所要時間、状態条件、想定単価を書き出していた。
婚礼、宿泊、サイクリスト向けだけを別枠にできれば、窓口は楽になる。
その考えは、彼女にはまだ正しく見えていた。
「また何か増えとるな」
浜野が湯のみを置きながら、ノートを覗き込んだ。
「試算です」
紬は隠しもせずに答える。
「受託の傾向を見ています。婚礼、宿泊、サイクリスト向けは単価が立ちやすいので、別枠で回せるかもしれません」
「別枠」
「いまのままだと、全部同じ窓口に流れ込んでいます。状態条件も、利益率も、客の期待値も違うのに」
浜野はノートを指で軽く叩いた。
「そら違うやろな」
「なら分けた方がいいです」
「分けたあと、何残るん」
紬は返事をしなかった。
残るものはある。学校の急ぎ。造船所の部材。法事の写真。そういう、単価も見映えも立ちにくい荷だ。だが残るからといって、それが経営を支えるとは限らない。
浜野はそれ以上言わず、白地図の前へ戻った。青い線は五本になっている。今治から大島、伯方、大三島。行った場所は増えているのに、伯方から先の橋筋だけがまだ白い。
紬はノートの隅に挟んでいた前日の受領票の控えを揃え直した。署名欄に、いつもの癖で一文字ずつ線を整えた自分の字が並んでいる。相馬紬。配車表に名前を書いていた東京時代から残った癖だ。書き終えた自分の名字を、こんなふうに何度も整えるようになるとは、上京した日には思っていなかった。
電話が鳴ったのは、その少しあとだった。
「潮継ぎ当日便です」
相手は男で、声に年季の入った金属音があった。
「川北ミシン部材店です。今日中に、大三島の補修屋へ部品と糸を持っていってほしいんですが」
紬は受託票を引き寄せた。だがペンを構える指が、ほんの一瞬、止まった。
すぐに動かす。
今は仕事だ。
「品目を、詳しくお願いします」
「工業用の三つ巻き押さえ金と、針板ネジ。それと青糸が三巻。あと色見本の切れ端。古い機械の規格なんで、そこらの店じゃ合うのがないんよ」
「届け先は」
「宗方の、青いひさしの補修屋。分かる人は分かる」
「正式な宛名をお願いします」
受話器の向こうで、紙を探る音がした。
「青ひさし補修室。相馬さんとこや」
その姓を聞いた瞬間、紬の手が一度だけ止まった。
ほんの一拍だ。受託票の紙にペン先が触れたまま、インクだけが少し濃くなる。前に大三島の寺の近くで、同じ呼び方を聞いたことがあった。あのときは島の親切として聞き流せた。同じ名字くらい、このあたりにいくらでもある。そう自分に言い聞かせた言葉が、今度は宛名の方角から戻ってきている。
浜野が窓のところで何かに気づいた気配がしたが、紬は顔を上げなかった。
「指定時刻は」
「十七時四十五分までに。できればそれより前」
「なぜ今日ですか」
少し間があった。男は、そこを説明する言葉を選び慣れていないらしかった。
「明日の朝、子ども向けのイベントで配るタオルを仕上げるんよ。名入れと端の補修が残っとる。品物は明日の朝やけど、縫うのは今夜やから」
紬は受話器を持ったまま言った。
「明日の納品であれば、当窓口の基準には――」
「受ける」
浜野の声が、横から重なった。
紬は受話器を少し離し、眉をひそめる。
「まだ判断材料が」
「十分や」
浜野は受話器に向かって続けた。
「川北さん、受けます。受け取りは何時からいけます」
「十一時二十分には揃う。見本も一緒に渡すけん」
「分かりました」
通話を切ったあと、紬はすぐに言った。
「基準に合っていません。納品は明日です」
「縫い始めが今日や」
「それは内工程です」
「内でも外でも、止まるもんは止まる」
浜野は受託票の欄を指した。
「お前、自分で増やしたやろ。使用開始時刻。今日の荷の締切は、受け取る時刻やのうて、縫い始める時刻や」
理屈としては分かる。分かるが、まだ納得はしきれない。
明日のイベントのためのタオルなら、今日の荷と呼ぶには遠い気がする。そういう”遠さ”が、紬の頭の中では優先順位を下げる。東京ではその感覚で間違わなかった。
「売上は小さいですよ」
紬が言うと、浜野はしばらく受託票を見てから机へ戻した。
「それで窓口が回るなら、考える価値はある」
浜野は窓の外へ目をやった。
「ただ、止まるもんは金額の大きさで止まるわけやない」
湊が整備台から顔を上げた。
「青糸、どの青ですか」
「まだ聞いていません」
「指定があるはずです。同じ青糸でも、メーカーや太さで別もんですから」
湊は真顔で言う。
「先方が出している色見本、現物で合わせるんでしょう」
紬は小さく息をついた。
「分かっています」
そう答えながら、少しだけ面倒だと思っている自分を隠せなかった。
◇
川北ミシン部材店は、今治の古い商店街の外れにあった。
店の正面には新品の家庭用ミシンが並んでいるが、奥へ入るほど様子が変わる。木箱、歯車、針板、ベルト、油差し。棚の引き出しには、数字ではなく店主の癖でしか見分けられないような手書きの札が差し込まれていた。
「潮継ぎさんか」
川北は七十近い男だった。細い指に黒い油がしみつき、目だけが妙に若い。
「これや」
作業台に並べられたのは、驚くほど地味な品ばかりだった。小さな押さえ金、ネジ二本、青い糸巻き三つ。どれも、箱に入れると拍子抜けするくらい小さい。
その横に、タオルの端切れが一片置いてある。白地に、濃い青で「み」と一文字だけ刺してあった。
「見本ですか」
「そう」
川北はその糸色を指した。
「この青やないと困る。前に縫った分と色がずれるけん」
紬は端切れを見た。その青は、空でも海でもなく、もっと手元の色だった。子どものころ、家の台所の窓辺に転がっていた糸巻きに、似ている気がした。記憶だけが一瞬先に立ち上がり、紬はすぐにそれを押し戻す。
「同系色ではだめですか」
「だめやろ」
川北は即答した。
「前に納めた二十枚と並ぶんやけん。子どもはそういうとこ、よう見る」
それは本当か、と紬は思う。子どもが見るのではなく、大人が気にするのではないか。そういう”誰がどこまで気にするか”の話は、たいてい膨らみやすい。荷の意味が、いつの間にか感情の方へ寄っていくからだ。
だが川北は、その感情ごと説明しようとはしなかった。ただ事実だけを並べる。
「相馬さんとこの機械、古い規格が残っとるんよ。押さえはこれでないと入らん。ネジも同じ。今夜から明け方にかけて回す言うてたから、夕方までに入らんと困る」
相馬さん。
またその姓が出た。
川北は紬の反応に気づかないまま、茶封筒へ部品袋を入れ、糸巻きを一本ずつ紙で包む。見本の端切れは別の透明袋へ入れた。
「これ、必ず一緒に渡して。口で青言うても、人によって違うけん」
「受け取りは相馬さん本人ですか」
川北はそこで少し考えた。
「できたら本人がええけど、夕方はいったん学校へ行く言うとったな。明日のイベントの最終枚数が増えたらしい。戻りは五時過ぎやろか」
「不在の可能性があるんですか」
「あるやろな。でも、戻ったらすぐ縫い始めるはずや」
紬は受託票の余白へ書いた。
受取人夕刻一時不在可能性あり
そこへ、携帯が鳴った。篠原だった。
「今日、十五時に大島へ出られますか」
紬は一瞬、言葉を切り替えるのに時間が要った。
「案件中です。要件は」
「以前お話しした、婚礼・宿泊動線の件です。風待館で、サイクリスト向け手荷物転送の試験導線を見ていただきたいんです。実際に館内でどう混線が起きるか、逆にどう分ければ商品になるか、一度見た方が早いので」
紬は時計を見た。
十一時二十六分。青ひさし補修室への指定は十七時四十五分。部品は小さく、状態条件も軽い。川北の店から港へ回し、宗方港で売店預かりにして、島内の最終便へつなげれば、数字の上では十分間に合う。
「三十分なら」
「一時間ください。話が早い方ですから」
篠原の言い方は、いつも数字に似ている。
紬は短く答えた。
「分かりました」
通話を切ると、川北が封筒を差し出した。
「預けっぱなしにせんでよ。小さい荷ほど、どこにでも入って見えんようになるけん」
「手渡し想定です」
紬は言った。
まだその時点では、本当にそのつもりだった。
◇
窓口へ戻る道で、紬は篠原の十五時を頭の中の白地図に置いてみた。今治から大島の風待館までの距離。一時間の打ち合わせ。戻りの橋。それから青ひさし補修室への配達。すべてを橋で結んでも、数字の上では間に合う。間に合うが、余裕はない。
もう一本、別の線もあった。今治港から宗方港への船便。手前で荷だけを島へ渡しておけば、午後の自分の身は別の用事に使える。
いまは、それでいい。
そう思ったとき、頭の片隅で、川北の言葉が小さく動いた。預けっぱなしにせんでよ。だが紬は、その声を聞こえなかったことにした。
窓口へ戻ると、湊がすぐに封筒を開けて中を確認した。
「軽いですね」
「部品と糸ですから」
「軽い荷ほど、固定より見つけやすさです」
湊は透明窓のついた細いケースを出した。中身が一目で分かる硬質のポーチで、外からでも糸巻きの色が見える。
「これにまとめます。見本片は別ポケット。押さえ金とネジはチャック二重。途中で一回開けても、何が欠けたか分かるように」
手つきに無駄がない。湊は中身の順番まで決めて入れた。見本片、糸巻き、部品袋。その並びを見ただけで、どれがいちばん重要かが分かる。
「糸が先なんですね」
紬が言うと、湊は頷いた。
「今日の荷の顔は、たぶん青なんで」
「部品がないと縫えません」
「でも、違う青なら、縫えてもだめでしょう」
その物言いに、少しだけ反論したくなる。だが川北の店の端切れを思い出すと、言い切れない。
浜野が受託票を見ながら言った。
「橋で持って行け。最後まで」
「間に合いますが、宗方港経由でも十分です」
紬は白地図の前へ立った。頭の中で線を引く。今治港発、宗方港着。売店預かり。そこから島内のバスか、近所の人の受け取りで補修室まで。十五時から風待館へ寄っても、運行上は吸収できる。
「港売店に預けて、相馬さんの戻りに合わせて引き取りにしてもらいます。夕方不在の可能性があるので、その方が合理的です」
浜野は白地図を見たまま言った。
「相馬さん本人に渡せる時刻が読めんのに、よう言うわ」
「宗方は売店もバス停も近いです。引き取りの選択肢が複数あります」
「お前が会いたないだけやろ」
その一言はあまりにまっすぐで、紬は一瞬、受託票から目を上げた。
浜野は地図を見たままだった。責める顔も、探る顔もしていない。ただ事実みたいに置いたのだと分かる。それがいちばん腹立たしい。
「仕事です」
紬は言った。
「だから効率で組んでいます」
「せやな」
浜野はそこで止めた。
湊は何も言わず、透明ケースへ白いラベルを貼った。そこに太い字で書く。
青見本同封/本人確認優先
その一行を見て、紬は少しだけ眉を寄せた。
「本人確認優先?」
「小さい荷ほど、経由する手が増えますから」
湊は平然としている。
「誰に渡したかが一番大事です」
紬は返事をしなかった。
◇
宗方港の売店で、向井美智代は電話越しに明るい声で請けてくれた。
「ええよ。潮継ぎさんの荷なら預かる。青いひさしのとこやろ」
「十七時前後に本人が取りに来る想定です」
「相馬さんなら、たぶん学校から戻るの五時すぎやね。ほんなら、うち置いとくわ」
「もし本人が来られない場合は、近隣の方へ引き継いでください。ラベルがあります」
美智代は少し笑った。
「近隣って、島はみんな近隣よ」
責任区分としては広すぎる、と紬は思った。島の人はときどき、地理を感情で説明する。
「責任を持って渡せる方に、という意味です」
「分かっとるよ」
その声の明るさに、紬はかえって不安を覚えた。島では”分かっている”の中身が広すぎる。東京ならそこをもっと細く詰める。
だが時間は十分だった。
今治港の小荷物扱いで宗方便の船員に封筒を預け、受け札の控えを受託票へ挟んだ。そこから紬は自転車で糸山へ戻り、大島へ入る。風待館着は十四時五十七分。数字の上では、どこにも無理はなかった。
風待館のラウンジは、前回来た婚礼棟よりさらに”商品”に近かった。
海へ開いた窓。木製の大きなテーブル。サイクルヘルメットを置くための専用棚。濡れたジャケットを干すフック。チェックインカウンターの奥には、白いタグの付いた荷物が整然と並んでいる。
「いま構想しているのは、単なる手荷物預かりではありません」
篠原は資料を広げながら言った。
「客が橋を渡っているあいだ、荷物は別系統で宿へ入る。到着したときには、もう部屋に置いてある。荷物の重さを見せない商品です」
紬には、その仕組みがよく分かった。
見せるものと、見せないものを分け、運ぶものの意味を同じ品質へ均す。東京でやっていたのも、結局はその仕事だった。
「料金帯は」
紬が訊くと、篠原はすぐに表を差し出した。
「宿泊客向けは片道。婚礼は時間保証込みで別枠。サイクリスト向けはブランドタグと補償を付けて上げます。安く見せる必要はありません。荷物を手放して走れる価値に払ってもらうので」
紬は表を見た。
悪くない。むしろいい。件数が読めれば十分柱になる。窓口の収益は確実に変わる。生活の小口だけでは組めない安定が、ここにはある。
「生活便を残すにしても、柱がいります」
篠原は静かに言った。
「理想だけでは続かないので」
紬は、頷きかけた。
そのとき、携帯が鳴った。宗方港売店の向井だった。
「相馬さん、まだ戻ってこんのよ」
ラウンジの窓から見える海が、一瞬だけ遠くなる。
「戻り予定は」
「学校で人数の増減が出たらしくて、まだ話しよるみたい。包み、どうする? うちで預かるのはええけど、相馬さん戻ったらすぐ縫う言うとったけん」
「そのまま売店で」
「でも閉店あるよ。六時で閉めるけん」
紬は時計を見た。十五時四十一分。
いま風待館を出て、橋を戻り、伯方を越え、大三島へ入れば、十七時台前半には宗方へ着ける。計算上は十分だ。十分だが、そのルートは橋筋になる。
伯方から先の橋筋。
白地図の上でまだ引いていない線が、頭の中でだけ鮮明に立ち上がる。
「隣の店へ引き継げますか」
紬は言った。
向井が少し黙った。
「隣、今日は法事で閉めとる」
「では、バスの運転手へ」
「今日は土曜で本数少ないけん、夕方の便すぐやないよ。待っとる間に相馬さん戻るかもしれんけど」
篠原は何も言わず、資料を閉じていた。こちらの電話が仕事の場面だと分かっている沈黙だ。紬にはその沈黙が、むしろ急かしに見えた。
「いったん預かってください。こちらで再指示します」
通話を切ると、篠原が静かに言う。
「こういうとき、受け取りポイントが設計されていれば楽なんですが」
紬はすぐに答えた。
「今のところは人の頭数で埋めるしかありません」
「それを商品にしたいんです」
篠原はそう言って、資料の別ページを開いた。
「有人受け取り、鍵付き預かり、館内ルートの固定。観光客向けは、意味を単純にした方がうまくいきます。誰が何を背負っているかを、客に見せなくて済むので」
意味を単純にする。
その言葉は、紬には甘かった。荷の事情を全部聞き切らなくてもよくなる世界。泣き声も、言いよどみも、昔から使っている青の違いも、処理の外へ出せる世界。
携帯がまた鳴った。今度は浜野だった。
「まだ相馬さん戻っとらん。どうする」
「売店預かりで」
「湊が貼ったラベル、お前も見たやろ」
紬は答えなかった。
「本人確認優先。そう書いてある荷を、売店預かりにしたんやろ」
紬は唇を結んだ。
「学校帰りに誰かが取りに寄れるなら」
「誰か、な」
浜野の声は低かった。
「誰かがどこの誰かか、お前いま分かっとるか」
分かっていない。分かっていないことを、紬は認めたくなかった。
「私はいま大島です」
「知っとる」
「今から戻れば、間に合う計算です」
そこまで言って、言葉が止まる。
戻ればいい。橋を使えばいい。大三島まで入ればいい。ただそれだけだ。計算ではそう出ている。
それなのに、自分の身体がその線をまだ引いていないことを、紬は誰より知っていた。
浜野は続けた。
「行けるなら行け。行かんのなら、別の線をこっちで探す」
通話が切れたあと、ラウンジの木の匂いだけがやけに強く残った。
篠原は紬の顔を見て、それ以上営業の言葉を重ねなかった。ただ一枚の資料だけを、机の上に静かに置く。
「急ぎなら、今日はここまでにします」
紬は資料の表紙を見た。
SETOUCHI RIDE LIGHT / プレミアム手荷物転送構想
白い紙に、細い青線が一本だけ引いてある。橋を渡る客のための、きれいな線だった。
透明ケースに貼られた白いラベルが、頭の中で一瞬だけ浮かんだ。
本人確認優先。
紬はそれを、資料の青線の下へ押し込めた。
「……いえ、もう少しだけ」
自分でも、何を言っているのか分かった。
仕事としては、いま席を立つべきだ。けれど立ちたくなかった。立てば、橋の方角を選ばなければならないからだ。
篠原は何も言わなかった。ただ、その沈黙だけが正しかった。
◇
結局、最後の線を引いたのは紬ではなかった。
十六時十二分、宗方港売店の向井から再び電話が入る。
「相馬さんから売店に電話があったよ。原田さんに渡してくれって。明日のイベントの段取りしよる人」
「相馬幸子さん本人の指示ですね」
「そう。学校の電話から」
受託票の余白へ、紬はその名前を書いた。
十六時十二分 原田氏代理受領予定。相馬幸子本人より電話承認。
数字としては、それで成立する。記録としても残る。なのに、胸の奥のどこかがそれを仕事の完了として受け入れない。
「引き継いでください」
そう答えたのは、自分だった。
通話を切ると、資料の上に置いた指先が少し冷えていた。
篠原が言う。
「間に合いそうですか」
「……はい」
それは事実だった。たぶん、間に合う。
篠原は窓の外を見た。
「生活の荷は、最後の五分がいちばん読みにくいですね」
紬は返事をしなかった。
篠原の言うことは正しい。だが今日の自分は、その”最後の五分”を読もうとしていない。最初から、自分で読まない形へ逃がしただけだ。
◇
窓口へ戻ったのは、夕方の光が白地図の下半分だけを照らすころだった。
浜野は帳面を閉じずに待っていた。湊は整備台で小さなネジを磨いていたが、紬が入ると手を止めた。
「届いた」
浜野が先に言った。
「十六時四十三分、原田さんが青ひさし補修室で相馬幸子さんへ手渡し。学校からそのまま上がったらしい」
紬は鞄を置き、受託票を見た。自分の字で書いた名前の下に、浜野の字で追記がある。
受領確認済/今夜から縫製開始
それだけだった。
「間に合いましたね」
紬が言うと、浜野は頷きもしなかった。
「間に合ったな」
その言い方には、何も足されていない。慰めも、責めもない。ただ事実だけだ。
受託票の下に、もう一枚、紙が挟んであった。端の切れたメモ用紙で、鉛筆で一行だけ書いてある。
『青、これで合っとる。助かった。今夜やる』
署名はない。けれど、その字は浜野のものだった。受話器を耳に当てながら、相手の声を一行ずつ書き写したのだろう。所どころに鉛筆の押し直した跡が残っている。
紬はその紙を見たまま、何も言えなくなる。
「相馬さんから電話があった」
浜野が言う。
窓口の中で、時計だけが小さく鳴る。
今夜やる。
その短い言葉の中に、紬は自分が最初に切り捨てかけた”今日”の本体を見た気がした。明日のイベントではない。港の売店でもない。十七時四十五分という指定時刻ですらない。今日の荷の締切は、その人がミシンの前に座り、一針目を落とせる時刻だったのだ。
「白地図、引いとけ」
浜野が青鉛筆を差し出す。
紬は受け取って、白地図の前に立った。今治から港へ。宗方港までの船の線。そこまでは迷わず引ける。
けれど、その先で鉛筆が止まった。
宗方港から青ひさし補修室へ上がる、ほんの短い線。港の売店から青いひさしの店まで、地図の上ではほんの爪先ほどの距離しかない。その線だけが、どうしても引けない。
「どうした」
浜野が訊く。
紬は答えなかった。
答えなくても分かっているはずだった。今日その最後の線を運んだのは、自分ではない。港までは自分の段取りだ。そこから先は、向井の声でつなぎ、原田の足で上がり、署名のない字で受け取られた。
浜野は紬の手から青鉛筆を取らなかった。ただ、白地図の宗方のあたりを指した。
「今日はそこまででええ」
「でも、届いています」
「たしかに届いた」
浜野は言った。
「ただし、最後はお前の線やない」
紬は青鉛筆を持ったまま、宗方港で止まった線を見つめた。
そこから先を埋めれば、見た目にはきれいになる。客観的な記録としても、一便は完了している。だがそれは、自分が渡っていない橋を渡ったことにしてしまうのと同じだった。
湊が整備台の方から静かに言う。
「小さい荷ほど、最後に誰が持ったかが残りますね」
紬はやっと鉛筆を置いた。
白地図には、今治から宗方港までの青い線だけが増えた。その先は白いままだ。港から上へ続くはずの短い道が、途中で切れている。
今までの五本は、全部、自分の足で最後まで引いた線だった。今日だけが違う。今日だけ、最後の数分を他人に渡した。渡したというより、避けた。
窓口の外では、夕方の風が旗を小さく鳴らしている。橋の方角はここから見えない。見えないのに、伯方から先の白い空白だけが、目の奥で妙にはっきりしていた。
「その荷、たいした額にはならんやろ」
浜野が帳面を閉じながら言う。
「はい」
「でも、あの人の今夜は、あれで動いた」
紬はメモ用紙を見た。
今夜やる。
その字の細さに、なぜかミシンの針の音が重なる。まだ聞いてもいないはずの音だった。
窓口を閉めるころ、篠原から短いメッセージが届いた。
『本日の資料、お送りします。生活便と観光便の両立案として整理できます』
紬はしばらく画面を見たあと、返信しなかった。
両立という言葉はきれいだ。きれいで、正しい。今日ラウンジで見た資料の青線も、たしかに魅力的だった。けれどその線は、最後の五分を誰かの生活の側へ押し戻すとき、途端に地図から消える。
白地図の前に立つと、宗方港で止まった青線が一本だけ短い。欠けているのは距離ではなかった。自分がまだ、自分の手で渡せていないものの方だった。
浜野が戸締まりをしながら、背中越しに言う。
「明日の朝、たぶん仕上がるやろな」
紬は返事をしなかった。
何度目かに白地図を見返したとき、気になったのは仕上がりではなく、引けなかった短い一本の方だった。港から上へ、青いひさしの店までの、ほんの少しの道。
海より近いはずなのに、まだ自分の足では届いていない道だった。




