第二話 濡らせない試作品
――受託票 No.002
品名:今治タオル試作品(二柄三枚・色見本付)
届先:伯方島 汐待ち荘 二階書庫・商談卓
指定時刻:本日十三時十分
今日である理由:県外生活雑貨店バイヤーとの商談
代替:不可(現品のみ・未公開仕様)
白地図には、一本目の青い線が残っていた。
それを見るたび、紬は到着時刻よりも、途中で借りた二分のことを思い出した。
窓口の外は朝から妙にぬるかった。海の方から湿気が上がってきて、紙の端が少しだけ柔らかくなるような天気だ。浜野は開け放した窓のところで空を見ている。湊は整備台の上で前輪を回し、スポークの鳴る音を聞いていた。
午前九時四十七分、ガラス戸が勢いよく開いた。
「今日、伯方島までお願いできますか」
入ってきたのは、三十前後の女性だった。紺のジャケットの袖口が少し糸くずで白くなっている。胸の前には、書類封筒より少し大きいだけの薄い箱を抱えていた。
「料金は、急ぎで大丈夫です。高くても構いません」
その言い方に紬は目を上げた。
金額を先に言う客は、たいてい事情が明快だ。明快な事情の荷は扱いやすい。泣き言より、条件の方がよほど信用できる。
「品目は」
「タオルの試作品です。商談は伯方島の汐待ち荘で、父は前日から向こうでバイヤー対応に入っています。私はこのあと今治側で、量産見積と糸番の確認に戻らないといけません。島へ渡ると、午後の打ち合わせに間に合いません。現物だけ、先に商談席へ入れたいんです。十三時十分までに机へ出しておきたくて」
「差出人は」
「佐伯織布の佐伯美緒です」
美緒は名刺を差し出した。織元の営業らしい。名刺の角が少し湿っている。走ってきたのだろうと分かった。
「なぜ今日ですか」
紬が訊くより早く、浜野が口を挟んだ。
美緒は息を整えてから答えた。
「先方が今日だけ、しまなみ側の宿を回っています。今ここで現物を出せなければ、秋冬の棚には乗りません。父は向こうで商談に入っていますが、私は今治側で量産見積を詰めないといけないんです」
浜野はそれ以上訊かなかった。今日でなければ意味がない理由としては十分だと判断したのだろう。
紬はすでに頭の中で時刻を並べていた。今治港まで。島側の港から宿まで。橋で行くか、船で渡るか。指定時刻までの残り。余裕は薄いが、ないわけではない。
「梱包はそれだけですか」
美緒が抱えてきた箱を見て、紬が言った。
「防水袋には入れています。サンプルなので、そんなに大きくありません」
整備台の方から、工具の鳴る音が止んだ。
「それ、このままはだめです」
湊だった。軍手を外しながら、箱に目を落としている。
紬は眉を寄せた。
「防水なら十分では」
「防水と、防湿は違います」
湊は近づいてきて、箱の角を指先で軽く押した。
「それと、折れ跡。背負って橋を越えるなら、縁が擦れます」
「タオルですよ」
紬は言った。
「そうです」
湊は顔を上げた。
「でも今日はまだ、拭くためのタオルじゃないでしょう」
美緒が小さく、はい、と答える。
「最初に触ってもらうための、試作品です」
「だったら、濡らせません。折れもつけられません」
紬はまだ納得していなかった。
「広げれば戻るのでは」
「商談の最初の一分では戻りません」
その言い方だけは、少し強かった。
湊は箱を受け取り、中身を確認してもいいかと美緒に目で訊いた。美緒が頷く。薄い箱の蓋を開けると、中には白と薄青のタオルが三枚、重ならないように薄紙を挟んで入っていた。どれも新品の匂いがする。糊気を落としきらない、展示前の布の匂いだ。端の織り耳はまっすぐで、タグの位置もそろっている。見るからに、今朝ぎりぎりまで誰かが触っていた品だった。
「この薄青、まだ毛足が起ききってないですね」
湊が言うと、美緒は驚いたように顔を上げた。
薄青、という言葉で、紬は台所の窓辺に転がっていた糸巻きを一瞬だけ思い出した。
けれどすぐに、到着時刻の方へ意識を戻した。
「仕上げ直したのが朝で……」
「だから余計に、押せません」
湊は試作品を箱から出さず、そのまま工房の奥へ持っていった。紬もついていく。彼は透明な平ケースを棚から引き出した。地図や設計図を運ぶのに使う、薄くて硬いケースだ。
「これに入れ替えます。間に晒しを挟んで、外は撥水の布で巻く。荷台じゃなくて背中側に固定した方が振動が少ないです」
「時間、かかります」
「四分ください」
紬は時計を見た。四分なら、計算上はまだ吸収できる。
浜野が窓の外を見たまま言った。
「今日は橋より船がましやな」
「橋の方が早いです」
紬が即座に答えると、浜野は振り返りもしなかった。
「お前が早いだけや」
「荷も同じです」
「違う」
浜野は短く言った。
「お前は濡れても走れる。荷は走れん」
紬は口を閉じた。
四分後、試作品は平ケースに収まっていた。間に入れられた晒し布が、タオルの毛足を押さえずに受けている。外側は青い撥水布で巻かれ、肩の後ろに沿うように固定された。湊は最後に留め具を二度引いてから、紬の背を軽く叩いた。
「段差、避けてください。速く走るより、揺らさない方が大事です」
「時間が厳しいんです」
「だからです」
その言い方は、やはり少しだけ強かった。
◇
今治港へ向かうあいだ、空はさらに低くなった。
海の上に、灰色の膜が一枚ずつ重なっていく。橋の塔は見えているが、その向こうがもう曖昧だった。紬は走りながら時計を見る。頭の中では、橋ルートと船ルートの両方が平行して動いている。
橋なら、理論上は八分早い。
港から船なら、待ち時間が入る。その代わり、雨に当たる時間は短い。
どちらが正しいか。紬の中ではまだ、正しさは分単位で決まるものだった。
港に着いたところで、携帯が鳴った。汐待ち荘で先方を迎えている佐伯織布の佐伯弘志からだった。
「すみません、先方の予定が少し前倒しになって、十三時ちょうどには席に着くって――」
紬は一瞬で時刻を引き直した。
「受け取りは十三時十分でなく、十三時ちょうどということですか」
「いえ、始まるのが十三時で、その前には机に出しておきたくて……」
机に出しておきたい。
その表現が、紬の頭の中で小さく引っかかった。届先は宿ではなく、机なのだ。しかも、ただの机ではない。商談が始まる前、誰の手にも触れていない乾いた机。
「分かりました」
通話を切ったあと、紬は港から北へ伸びる道路を見た。橋へ向かう道だ。船を待つより、走った方が帳尻は合う。今から切り替えても、まだ間に合う。
そのとき、港に着こうとしていた船の向こうで、雨が来た。
海の上だけが、白くなった。霧ではない。水の壁だった。橋の塔の脚から順に、向こう側が一本ずつ消えていく。いま自分が橋に上がっていたら、あの中に入っていたのだと分かる。しかも肩には、濡らせない荷がある。
紬は舌打ちしそうになるのをこらえて、そのまま乗船口へ自転車を押した。
船内の窓に雨が斜めに打ちつける。乗客は十人もいなかった。買い物袋を足もとに置いた女が一人、島へ戻るらしい作業着の男が二人、学校帰りにはまだ早い時間だからか、制服姿はない。紬は立ったまま窓の外を見ていた。
橋は半分ほど見えなくなっていた。
数字の上では八分。それでも、いま橋にいたら、その八分はたぶん存在しなかった。
浜野が言ったことを、紬は認めたくないまま認める。
お前が早いだけや。
船が島側の港へ着くころには、雨脚は少し落ちていた。ただ、路面はまだ乾く前だった。平ケースの留め具を確かめてから、紬は自転車を降ろした。
港前の停留所に、小さな路線バスが止まっていた。行先表示の文字はかすれていて見づらい。
「汐待ち荘の下まで行きますか」
紬が運転席に訊くと、運転手は平ケースを一瞥して頷いた。
「行くけど、宿の前までは上がらんよ。坂の下で降りて」
「何分ですか」
「九分くらいやな」
紬は時計を見た。九分。そこから坂。着いても、受付で渡して終わりにはできない。バイヤーの机までが、紬の責任範囲だ。
「自転車も載せられますか」
「後ろの折り畳み席を上げたら入る。斜めにして」
運転手が後部の席を跳ね上げ、紬は前輪を少し斜めに入れて自転車を押し込んだ。
バスに乗り込んでから、紬は初めて、頭の中の項目を一つ増やした。
到着時刻の横に、状態。
それまでは、そんな欄はなかった。
バスは島の生活そのものみたいな速度で進んだ。急がないわけではない。ただ、急ぐことだけが運行の意味になっていない速度だ。濡れたみかん箱が軒下に積まれ、漁具を干す縄が道の脇で揺れている。港から少し入ると、海の匂いに洗剤の匂いが混じった。
坂の下で降りた紬は、そのまま宿まで上がった。急げば急ぐほど荷が揺れる。段差を避け、マンホールの蓋や継ぎ目をかわし、肩の後ろの平ケースが背中とずれない角度を探しながら漕ぐ。初めて彼女は、速さではなく揺れを計算していた。
汐待ち荘のロビーは、予想どおり雨後の濡れに沈んでいた。
サイクルラックの近くに、泥のついたタイヤが何台も立てかけられている。レインジャケットを脱いだ客が、床に細い水跡を残して歩いていく。カウンターの足元には、たたんだ濡れタオルが小山になっていた。
「佐伯織布さんの商談の荷です」
紬が言うと、フロント係は「ああ」と顔を上げた。
「でしたらお預かりしま――」
「どこで広げますか」
言ってから、紬は自分の声が少し急いていることに気づいた。フロント係は目を丸くしている。
「すみません、試作品なので、机に出すところまでが約束なんです」
「ああ、なるほど。二階の書庫です。雨でテラスが使えなくなって、部屋を変えたんです」
紬は礼を言って、階段へ向かった。
書庫は、窓の大きい小部屋だった。壁際に本棚があり、真ん中に長い木のテーブルが置いてある。窓の外の雨が少し明るくなっていて、雲越しの光が机の表面を白くしていた。
書庫の扉の前で時計を見る。十二時五十七分。
商談開始まで、三分あった。けれど机に出すまでを考えれば、余裕と呼べる時間ではなかった。
書庫の奥で、佐伯弘志が立ち上がった。
「間に合った……」
平ケースを置いたとき、十二時五十八分だった。
佐伯弘志は時計を見ず、試作品の方だけを見ていた。
机の上には商談用の資料と宿の図面が広げられていた。
その向かいには、四十代くらいのバイヤーが座っていた。簡素な黒いジャケットに、濡れた前髪だけが少し乱れている。県外のバイヤーなのだろう。隣には宿の主人らしい男もいた。
紬は平ケースをテーブルに置き、留め具を外した。青い撥水布を外し、晒し布をめくる。白と薄青の試作品が、朝の箱に入っていたときのままの平らさで現れる。
弘志が息を止める音が聞こえた。
バイヤーは、すぐには触らなかった。まず目で見た。端の織り耳、タグの位置、色の沈み具合。それから指先で、薄青の方の毛足を一度だけ撫でた。
「……これなら分かりますね」
バイヤーは言った。
「雨の中で受け取ることになるかと思っていました」
弘志の肩が、そこでようやく落ちた。
「娘が、乾いた状態で最初に触ってもらいたいと言ってまして」
「ええ。タオルは、最初に触ったときの印象が大きいので」
宿の主人が試作品を覗き込みながら言う。
「これ、うちの客室に合いそうですね。軽いけど、安っぽくない」
弘志はすぐに説明へ入った。糸の撚り、洗い後の立ち上がり、名入れの位置、客室用と物販用でタグの付け替えができること。紬には半分も分からなかったが、その声の調子だけで、今日ここまで持ってこなければいけなかった理由は十分伝わった。
受領票を出そうとしたとき、バイヤーが窓の外を見て言った。
「島の宿にこういう荷がちゃんと届くなら、客の荷物ももっと軽くできるんでしょうね」
宿の主人が笑う。
「そりゃ便利でしょうけど、便利だけで回したら、肝心なものが後ろに行くんですよ」
軽い冗談のような口調だった。だが紬は、その言葉だけを少し長く覚えた。
弘志が受領票にサインをした。
十二時五十九分 商談卓設置・佐伯弘志受領
「本当に助かりました。乱れたり濡れていたら、もう説明の入口から違っていたと思います」
紬は礼だけ返して部屋を出た。
ロビーへ下りる途中で、自分の袖がじっとり濡れていることに気づいた。だが肩の後ろだけは乾いている。荷を守るために、自分の方が雨を受けた形だった。
◇
窓口へ戻ると、湊が整備台のネジ皿を片づけているところだった。紬は平ケースを外して彼に渡す。
「橋、途中で消えました」
湊はケースの留め具に指をかけて、水気が入っていないのを確かめた。
「だから船だって言ったんです」
「……正しかったです」
口にすると、思ったより抵抗がなかった。
湊はそれ以上追及しなかった。ただ、撥水布を広げながら言う。
「タオルでも、今日は濡らせない荷だったでしょう」
「はい」
少しだけ間を置いて、紬は続けた。
「それと、折れも」
湊が初めて笑った。
「折れ跡って、戻るのに一分以上かかると、商談で間延びしちゃうんですよ」
浜野が窓のところから振り返る。
「なんや、ええこと言うた顔しとるな」
「事実です」
湊は平然として答えた。
紬は白地図の前に立った。青鉛筆を取り、今治港から島の港へ短い線を引く。そこから坂の下の停留所へ、さらに汐待ち荘までの細い線を足す。
橋より遠回りに見える線だった。
けれど今日、正しかったのはそっちだ。
地図を見ながら、紬はさっきのバイヤーの言葉を思い出す。客の荷物ももっと軽くできるんでしょうね。
それは、たぶん数字になる荷だ。分かりやすく、単価も取りやすい。今日の試作品みたいに、意味も値段も見えやすい。こういう荷だけを集めれば、この窓口はもっと楽になるのではないか。そう思った自分がいた。
だが同時に、宿の主人の返事も残っていた。
便利だけで回したら、肝心なものが後ろに行く。
紬は青鉛筆を置く。
まだその意味を、彼女は十分には理解していない。
ただ、今日の荷の締切が、時刻だけではないことは分かった。
窓口の外では、雨が少しだけ細くなっていた。白地図の上に、二本目の青い線が増えている。
橋の線ではない。海を渡る、短い船の線だった。




