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潮継ぎ当日便  作者: 1185
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第一話 受理基準

――受託票 No.001

品名:ユーフォニアム用マウスピース

届先:大島北中学校吹奏楽部

指定時刻:本日十一時三十五分

今日である理由:午後の合同演奏会に使用

代替:不可


「駅前の宅配なら、今日の夕方には十分間に合うと思います。うちは、今日でないと価値が消える荷を残しておきたいんです」

 浜野亘(はまのわたる)の声だった。窓口の向こうで、蛍光色のサイクルジャージを着た男が、開きかけた口をそのままにしている。

 男は一拍遅れて眉を上げた。隣の女も、キャリーケースの持ち手を握ったまま戸惑ったように紬を見る。

「ホテルへ先に送ってもらえるんですよね。尾道側の宿です。今日の夕方までに着けばいいんですが」

 簡単な案件だ、と相馬紬(そうまつむぎ)は思った。駅前の宅配より少し高く取っても、島を渡る観光客なら払う。朝一番の売上としては悪くない。むしろ、こういう荷を断る理由が分からなかった。

 けれど浜野は、窓口の内側に肘をついたまま首を振った。

「それは便利になる荷です。困りごとではあるけど、今日でないと価値が消える荷やない。うちは、そういうのは受けんのです」

 男の顔が、分かりやすく曇った。女は「変わったサービスですね」とだけ言って、キャリーケースの向きを変えた。車輪の音が床を擦り、ガラス戸が閉まる。

 小さな窓口に、海の湿り気を含んだ静けさが戻った。

 カウンターの奥、白いボードに黒い文字で書かれている。


 【今日でなければ意味がないものしか受けない】


 紬はその文句が嫌いだった。曖昧で、感傷的だった。

 東京で紬がやっていたのは、即配サービス会社の配車オペレーターだった。

 アプリの上では、都市は点と線だけでできていた。

 遅延は分単位で処理され、例外はクレームコードに置き換えられる。

 受けるか、切るかを判断するには、基準は明確でなければならない。

 今治(いまばり)に来て、まだ二週間だった。なぜここへ来たのか、浜野は一度も聞かなかった。ただ、履歴書の姓を見たときだけ、浜野はほんの少し間を置いた。紬はその間の意味を聞かなかった。白地図の右端、大三島のあたりも、まだ見ないようにしていた。

 東京での経験から、紬は知っている。受けた仕事を落とすくらいなら、最初に断る方がましだ。

「今の、受ければよかったのに」

 紬が言うと、浜野は時刻表の束を揃えながら答えた。

「あれ受けたら、あとでほんまに困るもんを断ることになる」

「でも、売上にはなります」

「せやろな」

 浜野はそこでようやく顔を上げた。六十を過ぎた、背の高い男だった。元郵便配達員で今はこの窓口の看板みたいに立っている。島の住所と風向きと坂の具合が地図じゃなく頭に入っているらしい。記憶力の使いどころが、少し独特だと紬は思った。

「売上になるもんばっかり運んどったら、そのうち一番要るもんを受けられんようになる」

 紬が何か言い返す前に黒電話が鳴った。

 浜野は受話器を取らず、顎だけで紬を示した。

「出てみ」

 紬は小さく息を吸って受話器を上げた。

「潮継ぎ当日便です」

 電話の向こうは、切羽詰まった女の声だった。

「大島北中学校の藤岡と申します。吹奏楽部の件で――あの、今日、今治側の修理工房に預けたマウスピースを届けていただけませんか」

 紬はすぐにメモを取る体勢になった。

「品目は」

「ユーフォニアムのマウスピースです。昨夜の練習で落としてしまって、今朝、保護者が始発で今治の白石さんに預けてくれたんです。さっき修理が上がったんですが、こちらは学校を離れられなくて。午後の合同演奏会に間に合わせたいんです」

「代替はありませんか」

「学校備品はあるんですが、その子の口に合わなくて、音程が下がるんです。低音はその子一人しかいません」

 紬は白地図に目をやった。今治から最初の橋を渡り、大島。そこからさらに島内の道。時間は午前九時十二分。工房は駅前商店街。学校着の希望は十一時三十五分。

 脳内で、数字が並ぶ。受け取り。移動。橋の上り。島内の接続。余裕はほとんどない。

「申し訳ありません。現時点では――」

「その子、何年生ですか」

 いつの間にか浜野が横に立っていた。紬の手から受話器を取るでもなく、その耳元へ少し身を寄せて、受話器越しに声を落とす。

「三年生です」

「今日、何時に学校を出ます」

「十二時前です。体育館で最後の合わせをしてから、バスで会場へ向かいます」

「その子は今、どこにおるんです」

「体育館です」

 浜野は紬を見た。

「受ける」

 紬は眉をひそめた。

「無理です。学校までなら橋を越えてからも距離があります。時刻表どおりでもぎりぎりです」

「学校まで届ける必要あるか」

「届先は学校です」

「違う」

 浜野は白地図の上に、人差し指で小さく円を描いた。

「届け先は、その子の口や」

 紬は答えなかった。

 浜野は受話器へ向かって言う。

「藤岡先生、体育館のどこにおるか、分かるようにしといてください。こっちは橋越えて、島内バスにつなぎます。受けます」

 受話器を置いたあと、紬はすぐに言った。

「受ける判断が早すぎます。橋の上の風次第で平均速度は落ちますし、島側のバス接続は保証できません」

「保証せんよ」

「なら余計に」

「保証するために、人に電話するんや」

 浜野はすでに携帯を耳に当てていた。どこかへ短く言葉を投げる。

(みなと)、一件頼む。橋筋や。前の荷台の固定ゴム、替えといて。小さい金物やけん、跳ねると困る」

 それから別の番号へかける。

「島内のバス、定刻前に潮継ぎが見えたら拾ってもらえんか。学校案件や。無理に遅らせんでええ、見えたらでええ」

 紬は一瞬、言葉を失った。

 東京では予定外の電話は事故の始まりだった。誰かの善意を工程に組み込むなんて最悪の設計だ。遅れたときの責任が曖昧になる。人の都合はノイズでしかない。

 けれど、この窓口では、それを最初から前提にしているらしい。

「相馬さん」

 浜野が受託票の複写紙を差し出した。

「不受理の理由を書く前に、一回運んでみ」


               ◇


 白石修理工房は、商店街の外れにあった。ガラス戸の向こうに金管楽器の鈍い光が並び、朝の店内はまだ金属を削った匂いが濃い。

「潮継ぎさんとこ、受けてくれたんやね」

 店主の白石が、小さな透明ケースを布で包んで差し出した。

「縁のへこみは直したけど、もう落とさんよう言うといて。これ、本人の口に合わせて選んだものでね。縁の当たりが変わると、低い音がすぐ落ちるんよ」

 紬はケースを受け取り、その軽さに拍子抜けした。こんなものか、と思う。指先二本で足りる程度の重さしかない。

 それでも電話の向こうの教師の声は切実だった。

 店を出て紬は自転車を走らせた。駅と港のあいだを抜け、潮の匂いが強くなる道を北へ向かう。背中のメッセンジャーバッグの中で、透明ケースがやけに存在感を持っていた。

 糸山のターミナルに着くと倉田湊(くらたみなと)がすでに工具箱を広げていた。二十四、五。指が細く、油に慣れた手つきだけが妙に落ち着いている。

「浜野さんから聞きました。前ブレーキ、少し見ときました。橋の下りで鳴くと面倒なんで」

 湊はしゃがんだまま、前輪を軽く回した。

「荷台のゴム、替えてます。金属は跳ねると嫌なんで、これ、こっちに入れてください」

 差し出されたのは、厚手の青い小袋だった。元は工具用なのだろう、擦り切れているのに内側だけ柔らかい。

「過保護では」

「口に入るものでしょう」

 湊は顔も上げずに言う。

「海風、意外とべたつきますよ」

 紬は何も返せず、小袋に透明ケースを入れた。

 橋へ上がるループ道は見た目より長かった。螺旋を描いて高度を取るたび、海が少しずつ開いていく。下では潮が白くほどけ、船がゆっくり身を返し、その向こうに島影が重なって見えた。

 紬は景色を見なかった。

 自転車のギアを一枚ずつ落とし、呼吸だけを数えた。坂の勾配、脚に残る乳酸、橋の上で想定される向かい風。東京でやっていたのと同じように、身体さえも数値に置き換える。

 けれど橋に上がった瞬間、その計算は少しずれた。

 風が思っていたよりまっすぐ背中を押した。浜野が「今日は橋筋、まだましや」と言った意味が、ようやく体で分かる。完全な追い風ではない。だが、拒まれてはいない。そう思った。

 島側に下り切ったところで、紬は時計を見た。予定より二分早い。だが、停留所の時刻表では、島内バスの発車までもう一分もなかった。

 道の駅の手前の停留所には、白い小型バスがアイドリングしたまま停まっていた。紬がまだ数十メートル離れているのに、運転席の窓が開く。

「潮継ぎさん?」

 日に焼けた運転手が手を上げた。

「藤岡先生から聞いとる。乗るなら急いで」

 紬は自転車を押して駆けた。

「まだ間に合いますか」

「まだ定刻を一分越えとらん。乗るなら急いで」

 運転手は笑いもせずに言う。

「今日は学校の荷やけん」

 運転手は後部の補助席を跳ね上げ、細い荷物スペースを空けた。紬は前輪を少し斜めに入れ、自転車を押し込む。

 島内バスの車内には買い物袋を膝に置いた老婆と、部活帰りらしい中学生が二人、それに漁具の匂いをさせた男が一人いた。誰も急かさない。誰も二分三分のことを問題にしない。

 東京なら、遅延として記録される二分だった。

 ここでは、その二分も最初から運行の中に入っていた。

 学校前で降ろしてもらうと、校舎より先に音が聞こえた。金管の、少し頼りない和音。体育館の方だ。

 職員室へ行こうとした紬に、用務員の男が雑巾を持ったまま言った。

「届けるんやったら、あっちやろ。吹いとるの、体育館や」

 ――届け先は、その子の口や。

 浜野の声が、今さらのように耳の奥で鳴った。

 体育館の扉は半分開いていた。中では十人足らずの吹奏楽部が、譜面台を並べて最後の合わせをしている。顧問らしい女が紬に気づき、駆け寄った。

「相馬さんですか」

「潮継ぎ当日便です。マウスピースを」

 言い終わる前に、壁際のユーフォニアムの前にいた女子生徒が顔を上げた。細い肩。制服の上に練習着を羽織り、唇の下が少し赤い。合わない備品を無理に使っていたのだろう。

 紬は青い小袋から透明ケースを出し、生徒に渡した。

 女子生徒は礼を言うより先に、両手でそれを受け取って、すぐに自分の楽器へ差し込んだ。その動きに迷いがない。自分のものが身体に戻るときの速さだ、と紬は思った。

 次の瞬間、低い音が一本、体育館の床をなめるように伸びた。

 さっきまで頼りなかった合奏の下に、はっきりした芯が通る。紬はその違いを音楽としてではなく、胸骨に当たる振動で理解した。

 顧問が息をついた。

「これで行けます」

 女子生徒は楽器を構えたまま、紬を見る。

「これじゃないと、低い音が落ちるんです。ありがとうございます」

 事実だけを言う声だった。感動も、大げさな礼もない。ただ、今日の必要を確かめる声。

 紬は受領票を差し出した。

「サインをお願いします」

 顧問が苦笑した。

「そうですよね。そこまでが仕事ですよね」

「はい」

 そう答えながら、紬は少しだけ違うことを考えていた。

 そこまでが仕事ではないのかもしれない。

 少なくとも、この窓口では。


               ◇


 今治に戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。

 窓口へ入ると、浜野が何も聞かずに湯のみを寄せてきた。紬は受領票の控えを置き、ようやく椅子に腰を下ろす。

「待ってくれたんですね、バス」

「待つやろ」

 浜野は新聞をたたんだ。

「先生が先に電話しとるし、こっちも頼んどる。学校の荷を運ぶんに、二分三分で目くじら立てんよ」

「それは、運行として正しくないです」

「東京ではそうかもしれんな」

 その言い方が腹立たしくて、紬は言った。

「不確定要素に頼る設計は、事故のもとです」

「頼っとるんやない」

 浜野は白地図を指した。

「入れとるんよ。最初から」

 地図には今治から島々へ向かう線が、青鉛筆で何本も引かれていた。橋の線、船の線、バスの線。まっすぐなものも、途中で折れているものもある。どれも綺麗な最短ではない。

「通せた便だけ、青で残しとる」

 浜野は青鉛筆を一本、紬の方へ転がした。

「一本、引いといて」

 紬は青鉛筆を取った。

 今治から最初の橋へ。橋の上のゆるい弧。島側の停留所。そこから学校までの短い線。

 地図の上では、たったそれだけだった。

 けれど実際にはその途中に修理工房の削り跡があり、湊の替えた荷ゴムがあり、バス運転手の二分があり、体育館で赤くなっていた下唇があり、低音の一本があった。

 線を引き終えたあとも、紬はしばらく鉛筆を置けなかった。

 白地図の右端、伯方の先――大三島へ渡る橋だけが、まだ白いままだった。

 そこへ伸びる線だけは、まだ一度も自分の手で引いたことがない。

 浜野は何も言わない。

 窓口の外で、さっき断った観光客とは別の誰かが、自転車のスタンドを鳴らした。

 紬は青鉛筆を机に戻し、顔を上げた。


 【今日でなければ意味がないものしか受けない】


 その文句を、彼女はまだ好きにはなれなかった。だが少なくとも、朝よりは少しだけ、意味の輪郭が見えていた。


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