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汝、自身を知れ

猛威を振るっていた嵐がようやく遠ざかっていく。闇夜の切れ間から差す光の存在に気づいた人々はそう実感し、安堵の表情で外を見た。が、ふと時計を見れば夜の十時。

いくら嵐が止んだとはいえ、こんな時間に真昼並の明るい光が差すわけがない。しかもその光は空ではなく、街で最も高い建物、エレア本社ビルの最上階から直接放たれている……


 同じ頃。普良ふらじゅんは倒れていた床が地響きを立てて揺れるのを感じ、はっと意識を取り戻した。全身を襲う激痛に耐えながら身を起こし、暗闇に包まれたフロアを見渡す。しかし、周囲には彼を除いて誰一人いなかった。二体の巨人はもちろん、気絶したアンディや春目の姿さえも見当たらない。二人とも自分が意識を失っている間に逃走したのだろうか。

粉々に破壊された展望ラウンジでたった一人、取り残されたように呆然と立ち尽くすじゅん。自分の置かれた状況を整理しようと呼吸を整えた矢先、背後に青白い光が差した。咄嗟に振り向いた彼の眼前には、白い翼を羽ばたかせ舞い降りる乙女の姿が映っていた。

乙女は割れたガラス窓の間から、音もなく静かにラウンジへと入ってきた。その姿は初めてじゅんとソクラテスの前に現れた時よりもずっと小柄。憑代と思われるテレスと同程度まで縮んでいた。

彼女の腕には、静かに目を閉じた哲夫が抱かれている。身体はこれまでの戦いで負った傷が痛々しく残り、ボロボロだったが、顔だけは憑き物が取れたように安らかだった。ダイモーン・ソクラテスが彼の肉体から去り、元の人間、祖倉哲夫に戻っているのだ。

「先生!」

 ゆっくりと床に降ろされた哲夫の元に、足を引きずりながら必死で近づいていくじゅん。そんな彼の焦りを鎮めるかのように前に立った乙女は、彼の傷だらけになった肉体を優しく擦った。すると全身を襲っていた傷や痛みが一瞬で消えていく。驚くじゅんに、彼女は穏やかな声で語りかけた。


「心配いりません。彼は、祖倉哲夫は生きています。気を失っているだけですよ」


 乙女の言葉を聞いたじゅんは足を止め、視線を哲夫から彼女の顔へと移し替えた。まじまじと見つめられて恥ずかしそうに顔を赤らめる仕草はどう考えても女性。髪は青く染まり、背中には白い翼まで生えている。それでもやはりじゅんはどうしても彼女に、テレス・ニコマコスの面影を感じずにはいられなかった。

「君がオルギャノンに封じられていたというダイモーン・アリストテレスか。テレスに憑依しているのか?」


「はい。あなたの師匠がソクラテスと同化したように、私もテレスを憑代にして今この世界に存在しています。ただ一つ、祖倉哲夫や多くの賢人たちのダイモーンと違うのは、弁闘術バトリケーによって強制的に召喚されたのではなく、オルギャノンを通して自らの意思でテレスと一体化したということです」


 アリストテレスの手には再び小型拳銃サイズに戻ったオルギャノンが握られていた。優しく撫でられ、まるで懐くように持ち主の髪色と同じ、青い光を放っている。


「この銃は私とテレスの結びつきを強くする大切な鍵です。彼が命の危機に陥った時に限り、私は封印から解放され、力を使うことを許される。テレスが初めて銃に触れた日――ゴルギアスと戦った時――はまだ結びつきが弱く、力の一部しか使うことが出来ませんでしたが、この一ヶ月、彼が肌身離さず持っていたことで結びつきが強まり、再び訪れた危機を前に巨人の姿でこの世界に降り立つことができた。

 修行を積んだ賢人でもない普通の少年が、ダイモーンの召喚という究極の技を使えたのは、彼がオルギャノンの所有者だったからに他なりません」


「なるほど。テレスがオルギャノンを大切に持っていたことで、一命をとりとめたというわけだな。ところでもう一つ聞きたいんだが、君さっきここに現れた時よりも縮んでないか?」


「この世界で私を実体化せしめているのはイデアという、本来私たちの世界、イデア界にしか存在しない物質です。この世界では弁闘術バトリケー、もしくはオルギャノンを使うことでのみ、イデアをイデア界から持ち込むことができるのですが、その量には限りがあります。

私たちは体内からイデアを放出するほど、この世界で自分の肉体を維持できなくなる。最初にあなたの前に現れた姿を100%とすると、ソクラテスを倒すため、イデアの90%をオルギャノンに注いでしまった。今の私には、テレスの肉体分のイデアしか残されていません。だから彼と同じ身長にまで縮んだのです」


「じゃあ君は、残り10%の姿でテレスの中にとどまっているということか」


「そうです。だからもうあまり長い時間この世界にはいられません。その前にせめて、あなたに会っておこうと思って」


「私に?」


「ええ。王の生き写しである、あなたにね」


 乙女の言葉を聞き、じゅんは一瞬ポカンと口を開けた。が、すぐ我に返ると、心底うんざりしたように頭を振った。

「よしてくれ。君までそんなことを言うのは。私は王家の血を引いているかも知れないが、普良ふらじゅんという一庶民として生きていくつもりなんだ」


「何か勘違いしているようですね。私が言っているのはこの世界の王族のことではありません。私たちの世界を治めていた偉大な王のことです」


「……なんだって?」


「テレスから聞いていないのですか? 私たちが元々イデア界で、偉大な王の下に暮らしていた普通の人間だったと」


「いや君たちが元人間ということは聞いているよ。その事実が衝撃的すぎて忘れていたが、そういえばそんなことを言っていたような気がするな。その王とやらは何者なんだ?」


「彼の名は、哲人王プラトン。元々は優れた学者で、イデアの存在に初めて気づき、イデア界の仕組みを理解した最初の人間でした。イデアが言葉や思想を具現化する力を持っていることも研究の末に発見し、その力を使って私たちの世界で起こった争いや諍いの多くを鎮めたのです。

自分たちを導く王の存在を渇望していた民は彼の功績を高く評価し、その座に就かせることにしました。民によって選ばれた王プラトンは明晰な頭脳でイデア界の問題を次々と解決し、平和な世界を築くため尽力しました。

また彼は『より善く生きよ』と説いて、自分が開発したイデアを用いての具現化という力を民に教えました。プラトンは人々にとって王であると同時に偉大な師、先生でもあったのです。彼が広めた力によってイデア界の争いは激減し、悠久の平和を得た民は自分たちの王に敬意を込めて二つ名を付けました。それが……」


「哲人王。さとい人の王、ということか」


「私もイデア界ではプラトンに仕える民の一人であり、彼の教え子でした。ダイモーンという、人間を超えた存在となった今でも、神に次いで尊敬に値する偉大な人物という思いは変わっていません」


「で、その偉大な哲人王プラトンの生き写しが私とは、どういう意味だ?」


「プラトンはダイモーンにはなりませんでした。あくまでも人間としてイデア界で生き、死んでいくことにこだわったからです。80歳を迎えたある日、民に見守られながら静かに息を引き取りました。しかし彼には生前、もう一つ唱えていた考えがあったのです」


「もう一つの考え?」


「輪廻転生。死んだ人間の魂が必ずどこかで別の生き物に生まれ変わるという考え方です。プラトンは世界が一つではない――私たちの生きるイデア界以外にも別の世界があると理解していました。

同時に魂の存在を誰よりも信じていました。人間が死に、骨となり、やがて完全に肉体が消滅してもその魂は不滅。巡り巡ってどこかの世界の何かに変わる。そして生まれ変わった先の何かは、イデアと密に関わった時、転生前の自分の姿を想起させる。彼が生前に唱えていた、もう一つの教え。私はダイモーンとなりこの世界に降り立った時、使命とは別にプラトンの転生したものがいないか探していました。そんな中、イデアそのものを使って自在に戦うあなたの姿に、かつての偉大な王の面影を見たのです」


「イデアそのもの……虹色の三角形のことか?」


「あれはエイドスと呼ばれるイデアの欠片。弁闘術バトリケーにおいては別の物質に再構成する前の、原子状態なのです。本来弁闘術バトリケーとは無数の細かいエイドスが集合して形を作ることで光の鞭、水の刃、炎の拳、緑の矢、その他様々な物質に変化する仕組みになっている。エイドスをそのままの形で維持し、武器として使う者などそう多くはいません。

 しかもあなたはエイドスを武器としてだけでなく、防具として身にまとうこともできる。あんな装甲を纏って戦っている賢人など、他に見たことがありますか?」


「確かに見たことないな。先生や炎堂から様々な術を教わったが、言われてみればこの術だけは物心ついた時から覚えていたような気がする」


「もう一つ、あるでしょう?」


「え?」


「三角形の刃。虹色の強化装甲。あなたが使える技はそれだけではない。極めつけの切り札があるじゃないですか」


「……天上イデア転移ウォーピングのことか?」


「そうです。あの技こそ、私があなたをプラトンの生まれ変わりだと確信した決定的な証拠なんです」


 アリストテレスが興奮した面持ちで鼻息を荒くする。じゅんは突然の勢いに若干気圧されながらも、自分が普段使っているワープのことを思い浮かべた。

「た、確かにあの技こそ、他の誰も使っているところを見たことがない。ロゴスの子にいた時も、ソクラテス教団に入団した時も、周りからどうやっているのかと散々聞かれたよ。でもプラトン王とそんなに関係あるのか?」


「関係大有りですよ。あの技を単なる高速移動の類だと思っていたらとんでもない。場所から場所へ移る時、あなたは次元の狭間を通っているのですよ。そんなことは本来人間には不可能なはずです。私が人間だった頃、それができたのは、イデアを発見したあの人しかいませんでした」


「なるほど。だから私をプラトンの生まれ変わりだと」


「そういうことです。納得していただけましたか?」


 じゅんは口に手を当て、アリストテレスの話を改めて頭の中で反芻した。自分が何者なのか。物心ついた時から悩んでいた青年にとって、乙女の話したことは何か、一筋の光明に見えたような気がしたのだ。

しかし再び顔を上げた時、粒子となってオルギャノンに吸い込まれていく白い翼が目に留まった。

「おい君、翼が……」


「どうやら時間が来てしまったみたいですね。普良ふらじゅん。最後に一つだけ、お願いがあるのですが、聞いてくれますか?」


「な、何だよ」


「この世界に召喚され、オルギャノンに封じ込められた時。私はパルメニデス教団がオルフェウス教の人々を利用し、虐殺するのを目にしました。私たちに導かれ、平和な世界を築くはずだった賢人の集団が人々を欺き、利用し、挙句殺すのです。私は深く絶望し、もうこの世界に二度と平和は訪れないだろうと思いました。

でも哲夫に助け出され、テレスと出会い、あなたたちのことを知り気づきました。まだ希望はある。殺し合いとは無関係に世界の真理を探究し続け、人々を導こうとあがく者たちが、この世界にも確かに残っている。

あなたたちはまだまだ未熟かも知れない。敵わない強敵だって大勢いる。ですが私欲のために人々を利用し、自分と異なる主張を唱える者は殺そうとする、そんな賢人としての誇りすら失ってしまった者たちに比べれば、平和な世界を築くための無限の可能性を秘めています。

私はあなたたちのそんな可能性を信じます。窮地に陥ったら力を貸しましょう。だから……だからお願いです。私欲のために私を狙う全てのものから、私を守ってくれませんか?」


包み込むような微笑か凛々しい眼差しのどちらかしか見せてこなかった乙女の顔に、初めて別の表情が浮かんでいた。か弱い少女の懇願する顔だ。対するじゅんの顔にも、先程までの困惑が嘘のような凛とした決意の色が浮かんでいる。

ここまで驚くようなことばかり聞かされ、正直なところまだ混乱していたが、最後に託されたこの願いの意味だけははっきりと理解できる。青年は胸を張って、彼女の問いに答えた。

「ああ! 守ってやるよ。君の所有者であるテレスともども。私たちが命懸けでな」


「ありがとう。哲人王」


 心の底から安心したような笑みを浮かべ、青白い髪と白い翼の乙女、アリストテレスは少年の肉体から去った。憑代の少年テレス・ニコマコスは本来の黒髪に戻り、祖倉哲夫と同様、意識を失った状態でその場に倒れ込む。その身体を咄嗟に支えつつ、じゅんは静かに呟いた。

「哲人王か……」

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