哲学者
薄明りに照らされた廊下の中を、二つの人影がエレベーターホールに向かってゆっくりと歩いて行く。そのうちの一方は意識を失い、もう一方に支えられていた。
支えられている人影には左腕が無かった。言わずもがな、ソクラテスに敗れた春目仁である。エレベーターの前に辿り着いた時、春目はようやく意識を取り戻した。
「……メリ……ッサ?」
「申し訳ありません社長。スミス専務ではないです」
その声で我に返り、自分を支える影の正体に気づく春目。本来なら捨て駒になるはずだった
「アンディ・ステイン……!」
「良かった。あの夜みたいに逃げなくて。こうやってあなたを助けたことで、少しだけ自信が持てた。そんな気がしています。今度こそあいつと、テレス・ニコマコスと正面から戦える」
そう呟くアンディの顔には惇に蹴られた痣が痛々しく残っていた。しかしその表情はどこか誇らしげだ。そんな彼を見て安堵したのか呆れたのか。春目はため息交じりの苦笑を浮かべた。
「横領した社員が社長の命を救ったなんて。役員会は君の処遇について頭を痛めるでしょうね」
「会長が亡くなった今、それどころではありませんよ。社長」
彼らの背後から、微かに震えている女性の声が聞こえて来た。その言葉の意味を二人が理解するよりも先に、ポーカーフェイスをかなぐり捨てて涙を滲ませたメリッサが春目に抱き着く。
「お帰りなさい。仁さん」
♦♦♦
最上階から火の手が上がるエレア社のビルをバックミラー越しに眺めながら、九里敦は携帯で捜査本部と連絡を取っていた。ダミーではない、本来の仕事に戻るために。
「九里です。私用で抜けてしまい申し訳ありません。今から炎堂力の捜索班と合流します」
♦♦♦
散乱する生ゴミと砂利に豪雨が降り注ぎ、汚らしい泥濘と化した路地裏。狭く暗い道の隙間をぐちゃぐちゃと足音を立て、ずぶ濡れになった一人の男が苦しそうに歩いている。
「ぜぇ……ぜぇ……くそっ、この身体もそろそろ限界か……かはァ!」
男はダクトに寄りかかりながら、地面におびただしい血を吐いた。同時に少量の炎が漏れる。だがその威力はかつて楠川邸を焼き払った時とは比べ物にならないほど弱々しかった。炎の巨人と分離し、警察の目を欺いた炎堂力だったが、その逃走劇にもとうとう終わりが近づいていた。
「いたぞ! あそこだ!」
泥の中にうずくまる炎堂の正面から、三人の捜査官が銃を構えて突撃してきた。ゴミをかき分けて包囲する彼らの前に降参したのか、左腕と手首から先を失った右腕を上げる炎堂。
「大人しくしろ。もう貴様はここまでだ。おい諸井、錠をかけろ」
「解りました。二十二時三十分。炎堂力、確保!」
三人のうち最も小柄な捜査官が炎堂の両腕を強引に突き出させ、手錠をかけようとした。
「貴様ら……どういうつもりだ。警察はペロポネソスに介入出来ないルールだろうが」
「ああそうだ。賢人殺しに関しては、今の我々にお前を逮捕する権限はない。だが楠川優の殺人未遂については別だ。賢人ではないごく普通の一般市民を殺そうとし、家一軒放火したことについては、お前に裁きを下すことができる」
諸井捜査官が勝ち誇った笑みを浮かべ、炎堂の顔を覗き込んだ、その時。
「グォオオオアアア」
それまで大人しくしていた炎堂が突然諸井の顔を掴み、最後の力を振り絞るように彼の顔に炎の息を吹きかけた。慌てて引き放そうとする二人の捜査官。しかしボロ雑巾のようになった肉体のどこにそんな力が残っていたのか、炎堂はどれだけ殴りつけられようと、諸井の顔から離れようとはしなかった。ようやく同僚たちがその身体を引き離した時、既に炎堂力は……
「お、おいコイツ……死んでるぞ」
「大丈夫か諸井…………諸井?」
心配そうに顔を覗き込んだ先輩刑事に、諸井は炎を吹きかけ、一瞬で焼き殺した。予想外の出来事に動揺し、炎堂の遺体から離れ銃を向けるもう一人の刑事。しかし彼も、諸井の腕から放たれる炎によって灰と化した。二つの焼死体から拳銃を奪い取り、立ち上がった諸井刑事は侮蔑のこもった目で己の肉体をじっくりと観察している。
「フン。これが現在、この国を守る警察官の肉体だというのか。なんと脆弱な……まぁいい。所詮は時間稼ぎだ。待っていろよ、クレス」
諸井、いや炎堂は燃えるような眼差しを浮かべ、現場を後にした。
♦♦♦
ビジネス街から川を挟んで向こう岸にある緑豊かな敷地の中には古城を思わせる五つの尖塔が建っていた。かつてマシュマー・ピタゴラスが孤児院として開設し、やがてピタゴラス教団の本拠地となった学園である。上空から見ると五角形になるよう配置された尖塔のうち、最も高い塔の地下には巨大な墓所が広がっていた。ペロポネソスで命を落とした信者たちの眠る慰霊の場であり、同時にオルフェウス教の儀式が行われる祭壇でもあった。
しかし今、この場にいるのはただ一人。漆黒のローブを見に纏い、歴代教祖の名が彫られた慰霊碑の前で祈るように手を組んで膝を着いているソフィア・ピタゴラスだけだった。
「お爺様、お婆様、そしてお母様。どうかこの私に、冥界から力をお貸しください……」
♦♦♦
「やれやれ、ようやく雨が上がりそうだ」
亜帝内の繫華街から外れた所にある古いアパート。その二階の一室に引っ越した楠川親子は狭い四畳半の天井に吊るされた洗濯物の下で寝仕度を整えていた。二人分の布団を敷き、灯りを消す優。先に布団に入っていた志保の顔は、惇に救出された直後に比べると少しだけ本来の丸顔に戻りつつあった。
「ごめんね。こんなボロアパートしか借りられなくて」
暗がりの中、布団に潜り込んだ優は申し訳なさそうに母親の方を見た。
「ふふ、良いのよ。ここだけの話、お父さんがいない今、あんな御屋敷は私達には広すぎて扱いきれなかったの。こっちの方が気楽で良いわ。それにこうして優の顔を毎日見れるだけで。一つ屋根の下、一緒に暮らせるってだけで、母さん幸せだもの」
嬉しそうに微笑む母親と、赤く染まった頬を隠そうと慌ててそっぽを向く息子。
「も、もう寝ないと。明日も早いから!」
「晴れると良いね。おやすみなさい」
♦♦♦
「我々ゴルギアス教団は、貴様らタレス教団の圧力には屈しない! 亡きカールマン先生の意思を継ぎ、ここに宣戦布告する! 金は水より強し! 金は水より強し!」
嵐の過ぎ去っていく亜帝内にあって、未だ豪雨が収まらない地域が一ヶ所だけあった。水の広場と呼ばれる、タレス教団の所有地である公園だ。そこで今まさに、美しい彫刻が立ち並ぶ噴水を挟んで二つの教団がぶつかり合っていた。一方は言うまでもなく、土地の所有者であるタレス教団。そしてもう一方はタレス教団への鞍替えを拒否したゴルギアス教団の残党だった。
彼らを率いているのはなんと講演の劇に登場していたビジネスマン、狩暮だった。テレスの読み通り、彼はカールマンとグルどころか教団の幹部の一人だったのだ。カールマンが死に、幌巣が姿を消した今でも彼が率いる一部の残党は果敢にもタレス教団に反旗を翻していた。
教祖を喪ってなお掌を返さない彼らの忠誠心は見上げたものだ。しかし悲しいかな、折角の勇猛果敢さも豪雨の中タレス教団を相手取るという、考え得る限り最悪のコンディションでの反乱だったせいか、単なる無謀な愚か者にしか映らない。
そんな愚か者に鉄槌を下すべく、穴櫛万太郎は大剣を振り回し、残党狩りに勤しんでいた。切っ先に雷をまとわせ、雨に濡れた地面を滑るように移動する彼は、惇と戦った時より遥かに生き生きとしていた。まるで水を得た魚のように。
「そこまで言うなら命捨てる覚悟ぐらいはできてんだろうなぁ? ええ? 狩暮さんよォ!」
♦♦♦
水の広場から少し離れた所にある、楠川邸の二倍はあろうかという大豪邸。その一室で穴櫛芽音はフィロ・タレスのカップにミルクティーを注いでいた。ありがとうと会釈しつつもどこか不機嫌そうな顔で窓の外を見つめるフィロ。
「せっかくの雨が、もうすぐ上がってしまいますね」
「ええ。残念だわ。とってもいい天気だったのに……」
「雨が上がったら、どうされますか?」
「そうね。雨が上がったら……」
毅然とした表情で外を睨むフィロ。その瞳には既に、次なる戦いへの決意が秘められていた。
♦♦♦
「……遅いね」
「あぁ、遅いな」
「……遅すぎない?」
「……そうだな。ちょっと遅すぎるな」
ガランと静まり返った店内で、頬杖をついて窓の外を眺める翻子。新聞に顔をうずめる本貴。二人は時折、壁に掛かった時計とテーブルに残された置手紙を交互にちらちらと見つめては、三人の帰りを待っていた。口にこそ出さないが、その様子から彼らの焦燥感が相当なものだと解る。玄関扉が僅かに開いた時、尋常ならざるスピードで飛んで行ったのもおかしくなかった。
しかし残念ながら、帰って来たのは哲夫でも惇でもテレスでもなく、ずぶ濡れになった黒猫だった。舌打ちをして椅子に戻る本貴。それとは対照的に、タオルを持ってティッペの身体を拭く翻子。しかし彼女の方にもいつもの快活さは感じられなかった。
彼女を慰めるように頬擦りするティッペ。本来の飼い主である哲夫にはとことん不躾な態度をとるが、今の翻子のように不安がっている人間に対しては意外と優しく甘えて来るのだ。
「よし! やっぱ迎えに行って来る。本貴、後のことはよろしく」
ティッペの癒しが効いたのか、翻子は生来の明るさを取り戻すと玄関に向かってずんずんと歩き出した。引き止めようとする本貴を無視し、傘を手に彼女は小雨の中を駆け出して行った。
♦♦♦
「ぶぇっくしょい!」
夜の闇にくしゃみの音を反響させながら、哲夫は意識を取り戻した。同時に彼は、自分が惇の筋肉質な背に負ぶさっていることに気がついた。ふと横を見れば、同じく意識を取り戻したテレスが二人に着いて歩いている。
「ここはどこだ? 春目は? 俺たちどうなっちまったんだ?」
「話せば長くなりますが、とりあえず無事に逃げおおせての帰り道、といったところですかね」
「僕もついさっき目を覚ましたばっかりで、詳しい事情を知っているのは惇さんだけなんです。ただ一つ覚えてるのは、先生が召喚したダイモーンに春目もろとも殺されかけたってことです」
「え? ……あ、あぁ。そうか。俺はあの時……すまなかったな」
思わず目を伏せる哲夫。惇は背中を伝う涙の感触を覚えたが、あえて気づかないふりをした。彼の師匠は今、自分たちを救うどころか殺しかけた己の未熟さを大いに恥じ、悔やんでいる。
「あの状況で他に手はなかった。結果的に春目を退け、三人とも無事だったからいいんですよ」
「ありがとう…………惇、下ろしてくれ。自分で歩ける」
「解りました」
哲夫は二人に背を向け、鼻を擦るふりをして涙を拭った。泣き顔を見られたくなかったのだ。幸いにも闇夜のおかげで、赤くはれた目元と鼻頭はそこまで目立たなかった。
「そういえば、誰か俺に『汝、自身を知れ』って言わなかったか?」
元気を取り戻し、振り向いた哲夫の唐突な問いかけに顔を見合わせ、覚えがないという風に首を横に振る惇とテレス。彼らの反応を見て哲夫もまた、困ったように首を傾げた。
「そっか。一体誰が、どういう意味で言ったんだろう。汝、自身を知れ…………」
「あの、先生。僕の推論でも良ければ……」
「おうテレス。言ってごらん」
「その言葉通りに受け取るのなら……先生はご自身――祖倉哲夫という人間について、改めて学ばなければならないって意味だと思うのですが、どうでしょうか?」
「へぇ~? 俺が俺自身について学べってか? あっはっは」
「す、すいません。やっぱりおかしいですよね」
「いや、悪くない考えだ」
「え?」
テレスが意外そうに哲夫を見る。同時に前方から、聞きなれた声が足音と共に近づいて来た。
「おーい! みんな~」
嬉しそうに出迎える翻子に手を振る二人。一方、惇は残された言葉の謎について考えていた。
(哲人王……彼女の言ったことが本当なら…………)
彼の様子を横目で見た哲夫がふと手を振るのを止め、二人にだけ聞こえる声でそっと呟く。
「…………俺たちって結局、何なんだろうな」
その言葉を聞いた途端、惇とテレスが硬直する。今までならその質問に対して、賢人または探求者と答えていただろう。しかし今、三人はそれぞれ新たな謎と課題を背負わされている。
――祖倉哲夫は、自分自身、祖倉哲夫について改めて学ぶ者だ。
――普良啍は、哲人王という言葉が意味するものを学ぶ者だ。
――そしてテレス・ニコマコスは、哲夫からこの国で生きていく術を学ぶ者だ。
「……先生。僕、思いついちゃったかも知れません。賢人でも探究者でもない、新しい名前」
「奇遇だな、テレス。私もだよ」
「おやおや、俺もだ。なんなら今ここで、せーので言ってみようか」
哲夫の提案に同意した二人が頷き、息を揃えて頭に浮かんだ言葉を口に出そうとする。
「せーの!」
「「哲学者!!」」
〈第一部 完〉




