天使と悪魔
亜帝内の上空で吹きすさぶ嵐は治まるところを知らず、豪雨と強風、幾度となくとどろき続ける雷鳴が市民の心をざわつかせていた。とりわけ心中穏やかでいられなかったのはビジネス街に残っていた人々だ。
謎の窓ガラス全壊に加えて停電まで起こした建物の中には、デスクの下に身を潜める者、非常階段を駆け下りる者が続出していた。いずれも必死の形相を浮かべ、この恐怖から早く解放されたいと願っている。しかし彼らが恐れているのは嵐などではない。
当人たちは知る由も無かったが、エレア社のビルに突如降臨したダイモーン、ソクラテス。彼が放つ圧倒的なオーラが、周辺の人々に本能的な恐怖を抱かせていたのだ。
姿の見えない恐怖に人々は怯え、窓の外から目を背けた。そんな彼らの存在などつゆ知らず、稲光に照らされながら街で最も高いビルの屋上に向かって飛んでいく二つの巨大な影。後方から迫りくる悪魔の魔手を華麗な空中旋回でかわしながら、乙女はエレア本社ビルの周りをぐるぐるとらせん状に飛んでいった。もし嵐の中、恐れることなく空を見上げていた者がいたとすれば、その息をのむほど美しい姿に言葉を失っていただろう。
一方、そんな彼女を死に物狂いで追いかけるソクラテスの姿には美しさの欠片もなかった。大きく広げた薄くグロテスクな飛膜の先端から大量の触手を伸ばし続け、前方を優雅に舞う白い翼を赤く染めてやろうと躍起になっている。
しかし恐るべきダイモーンと言えど、無限に触手を伸ばせるわけではないようだ。その証拠に、幾度となく繰り出される彼の追撃はあと一歩というところで届かない。
彼をあざむくように神々しい姿には似つかないアクロバット飛行で夜空を飛ぶ乙女の姿が、ソクラテスの怒りの火に油を注いでいく。標的の美しさも相まってか、その姿はかつて、楠川邸でフィロ・タレスの分身に散々手こずっていた炎の巨人ヘラクレイトスを彷彿とさせた。
そんな応酬を繰り広げた末、二体の巨人はビルの屋上、巨大なHマークが描かれたヘリポートまで到達した。どこかのビルに落ちる稲妻を挟んで向かい合う乙女と悪魔。片方は髪色と同じ青白い光を放つ銃を握りしめ、片方はその銃で撃ちぬかれた胸を押さえている。その傷口から滴る血が、真下のヘリポートを赤く染めていた。
二体はこれまた対照的な白と黒の翼を広げ、睨み合っていたが、やがてお互い相手から目を離さずにゆっくりとヘリポートに降り立った。
「ぜぇ……はァ……グウオオオオオオオ!」
血だらけの胸元を押さえながらも猛り狂った野獣のように雄たけびを上げ、相手を威嚇するソクラテス。しかし対する乙女はそんな咆哮など意にも介さず、かつて憑代の少年テレス・ニコマコスが友人アンディを見限った時のような冷たい眼差しと銃口を向けていた。
「これ以上無駄にあがくのはやめなさい。この世界で暴れるのはもう終わりです。ソクラテス」
天使のように輝く乙女は、悪魔のように冷酷な声で言った。彼女が引き金に指をかけ、相手の眉間を撃ちぬこうとした、その時
「な……!」
突然、身体が鉛のように重くなった。そのまま見えない鎖で拘束されたように、乙女と悪魔は地面に膝を着く。
「体が……動かない!」
「その銃をこちらに渡してもらおうかの」
まばゆい光が四方八方から二つの巨体を照らし出し、屋上に飄々とした声が響き渡る。
「久世野……羽蔵!」
乙女に名を呼ばれた声の主は、彼らが立つ屋上の真下、テレスたちが去った会長室に残って二体の巨人をモニターで観察していた。
「ダイモーンに名を呼ばれるとは、わしも立派になったもんじゃのう。よく聞くがいいソクラテス、そしてアリストテレスよ。ヘリポートにはわしらの切り札、不動の術を込めたリングが埋め込まれておる。永遠に封じ込めることはできんが、そこに居座り続ける限り、お主ら二人きりで決着はつけさせぬぞ」
羽蔵の言葉と共に、アサルトライフルを携えた軍服の男たちがぞろぞろと屋上に姿を現した。彼らを率いているのは、レインコートを羽織ったメリッサだ。
「無駄な抵抗は止めて、オルギャノンをこちらに渡しなさい」
スピーカーを構えたメリッサが雨風に負けない声で言い放った。軍服たちが規律のとれた動きで悪魔と乙女を取り囲む。
「あなたたち……この期に及んでまだこんなことを? 馬鹿な真似は止めて早く逃げなさい。傷を負っているとはいえ、ソクラテスは……」
乙女の言葉が言い終わらないうちに、ソクラテスが再び咆哮を上げ、翼を広げた。すかさず彼を取り囲んでいた男たちが引き金を引き、銃弾の雨が赤黒い肉体に降り注ぐ。
「ソクラテスよ。お主が受けた弾丸には一発一発、弁闘術が仕込んである。ただの豆鉄砲と思ったら大きな間違いじゃ」
羽蔵の勝ち誇った声が響く。悪魔は苦しそうにもがき、血飛沫がヘリポートにばらまかれた。
「ソクラテスがどうしたって? アリストテレス」
メリッサがうずくまっているソクラテスを尻目につかつかと乙女の方に歩み寄る。自信に満ちた表情にはダイモーンに対する恐怖など微塵も浮かんでいない。
「我々があなたたちに対する策を怠るわけがないでしょう。オルギャノンという、究極の鍵を開発したパルメニデス教団が。人間は既にダイモーンを超えたのよ。何を逃げる必要があるというの?」
「分かっていない。あなたたちは何も分かっていない。追い詰められたダイモーンが何をしでかすか……」
「杞憂ね。さあ、ソクラテスと同じ目に遭いたくなければ大人しくオルギャノンに戻り、持ち主の少年ごと身柄を拘束されなさい」
メリッサが合図を下し、男たちが乙女に銃口を向けた。が、次の瞬間
「この………………人間風情がアアア!!!」
うずくまっていたソクラテスが地獄の底から響くような唸り声を上げ、天を仰ぎ見た。同時にその叫びに呼応するかのように、ヘリポートに散らばる血痕の中から、血の鞭と同じような細く赤い触手がずるりとはい出てきた。
「逃げてっ!」
乙女の叫びが屋上に響く。しかしその声に耳を傾ける者はいなかった。男たちは手持ちのアサルトライフルでうねうねと襲い来る触手を迎え撃とうとしたが、尋常ならざる速さの前には太刀打ちできず、一瞬で巻きつかれて苦しそうにもがいた。
「メ、メリッサ様! 助けてください!」
男たちの助けを求める声がそこかしこで上がる。しかし当のメリッサも、彼らを助けるどころではない。赤い触手を前にして踵を返すと、一瞬で姿を消した。
「畜生! 俺たちを置いてテレポーテーションで逃げやがった!」
触手に捕まった男が悔しそうに拳を握りしめ、彼女が消えた辺りを睨みつける。やがて男の身体に絡みついていた触手が、恐ろしい力で食い込み始めた。
「あ……が……ぎゃ……」
男たちが断末魔と共に次々骨をへし折られていく。阿鼻叫喚の地獄絵図を前に、思わず乙女も目を伏せた。
「だから……だから言ったのに……!」
悔しそうなつぶやきを漏らす乙女。一方、ソクラテスは拳を握りしめると、全身の力を込めて立ち上がり、天に向かって再び吠えた。
「ゴアアアアアアアアアアアアアア!!!」
次の瞬間、悪魔の体から放出された圧倒的なオーラがその場の空気を破壊した。ヘリポートの床が地響きをたてて割れ、埋め込まれていた巨大な金のリングがその全容を露わにする。触手に巻きつかれていた男たちは風に煽られる落ち葉のように吹き飛ばされ、地面に転がった。
立ち込める土煙の中、仁王立ちになったソクラテスは、握りしめた拳を剥き出しのリングに叩きつけた。重々しい金属音とともに、黄金の輪が木端微塵に砕け散る。
「なんと……」
会長室のモニターで事の成り行きを見守っていた羽蔵は、崩れてくる天井を見上げて息を呑んだ。
「その力、侮っていたのはわしの方じゃったか……」
老人がぼそりと呟いた瞬間、天井を砕いて落ちてきたリングの破片が、部屋をまるごと押しつぶした。
「ウゥゥゥォォォオオオオオオオオ!」
ひび割れた屋上から翼を広げて飛び立つソクラテス。不動の術から完全に解放された悪魔は、ギラギラとした赤い目で
「どォォォこォォォだァアア! アリストテレスウウウ!!」
「ここです」
ふと悪魔の耳に、冷たくも美しい声が聞こえてきた。振り向いた先には曇り空の中で白い翼を広げ、オルギャノンの銃口をこちらに向ける乙女の姿。
「祖倉哲夫。激情に流され、知性も友情も全て捨て、自ら破滅の道を歩もうとする前に……」
彼女の言葉に呼応するように、オルギャノンが闇も雨風もかき消さんばかりの輝きを放つ。光の中では質量保存の法則を完全に無視した変形が始まっていた。廃屋の地下神殿で生まれ、数多の教団が争奪戦を繰り広げた小さな銃、オルギャノン。
その輝きがようやく治まったとき、乙女が構えていたのは長く重量感のある砲身と巨大な銃口を携えた大砲だった。自分の身体がすっぽり収まるほどの超巨大な銃口を屋上に向け、乙女は迷いなくその引き金を引き――そして叫んだ。
「汝、自身を知れ!」




