ソクラテス
ソクラテス教団は完敗した。春目仁というたった一人の男に。文字通り、完膚なきまでに。割れた窓から入り込んでくる大量の雨風。亜帝内を覆う雷雲の下で、戦いの決着を見届ける者は誰もいない。九里敦はとっくにエレベーターを降り、アンディ・ステインは気絶したままだ。
崩壊した壁の瓦礫に埋もれる祖倉哲夫。会長室に横たわる普良惇。呼吸困難に陥り、苦しむテレス・ニコマコス。その手元で輝きを失っていくオルギャノン。
彼らを救う者も、誰もいない。彼らを倒した勝者が一人いるだけだ。しかし春目仁の顔には喜びなど微塵も浮かんでいない。心の底から失望したような、悲しげな表情が浮かんでいた。
その眼差しは自分を倒せなかった哲夫たちに向いているのか。それとも彼らとの話し合いを放棄し、結局暴力で全てを終わらせた自分自身に向いているのか。
「ごめんよ」
ずぶ濡れになりながら静かに呟いた春目は、うずくまっているテレスの胸を押さえつけると少年の小さな身体を襲う苦しみを解き放った。安定した呼吸を取り戻したテレスを抱き抱え、戦場を後にしようとした、その時。
「……ま……て……よ…………」
彼の視界に瓦礫の中からよろよろと這い出る、一本の腕が留まった。人差し指を突き出し、天高く伸ばすその仕草。追い詰められた賢人が命と引き換えに召喚する――最後の手段。
「わが身に……宿れ! ダイモーン・ソ ク ラ テ ス !」
その叫びを聞いて意識を取り戻したテレスの目の前で、うねうねと広がっていた赤い血界が尋常ならざる速度で瓦礫の中へと収束していった。直後、凄まじい風圧と共に瓦礫の山が吹き飛ばされ、瀬野がハンマーを取り出した時と同じくフロアの床にえぐられたような大穴が空く。しかし、そのクレーターの規模は瀬野の作り出したそれをはるかに上回っていた。
「哲夫君……死ぬつもりですか」
春目が唾をごくりと飲む音と同時に、何もかも吹き飛んだくぼみの中心から、一つの巨大な影がゆっくりと起き上がった。
「……グウゥゥゥォォォオオオオオオオオ!」
殺意と狂気に満ちた荒々しい咆哮が、外の雷鳴をかき消した。その気迫は彼らがいるビルを不気味な音と共に揺さぶり、隣接している建物の窓ガラスさえも粉々に破壊する。
中に残って残業していたビジネスマンたちは突如発生した怪奇現象にパニックを起こしていたが、彼らの叫びは眼前の光景に目を奪われているテレスたちの耳に届かない。
祖倉哲夫に憑依したダイモーン、ソクラテス。その姿は黄金の巨人ゴルギアスや紅蓮の巨人ヘラクレイトスとは異なっていた。いや、彼らよりもはるかに禍々しいものと言っても過言ではなかった。
頭部から突き出た二本の角。太く鋭い爪を伸ばした巨大な四肢。筋骨隆々の赤黒い胴体。その背後でうねうねと動く赤い触手の群れ。
「そんな……」
その恐ろしい姿に、少年が思わず息をのんだ瞬間、巨人の後ろでうごめいていた触手の群れがその巨体をすっぽりと覆い尽くした。
「先生!」
赤い触手にくるまっていく巨人を見て、春目の腕の中でもがくテレス。そんな少年を抱いたまま、更なる危機を察知した春目は後方へ飛び下がった。
「放してください! 先生を助けないと」
「無理だ。もう彼は君の知っている祖倉哲夫じゃない」
真剣な眼差しで語る春目の額から一筋の汗が垂れる。その雫が床に落ちた時、再び凄まじい爆風が発生し、巨人を包んでいた赤い繭が真二つに裂けた。
「ボアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
裂けた繭を体色と同じ赤黒い翼へと変え、フロアいっぱいに広げるソクラテス。彼に纏わりついていた触手は、薄く広がる飛膜となって背中でなびいていた。
巨人は白目を剥き、地獄の底から響くような唸り声を上げた。元の小柄な好青年からは想像できないような、そのおぞましい姿はまるで……
「悪魔……!」
テレスの呟きと同時に、翼の先端から大量の触手が二人に向かって伸びてきた。
「アポリア!」
思わず目をふせるテレスの前で、春目が結界を張り攻撃を防ぐ。このような状況でなければ、彼が惇と同じ技を使えたことに驚くところだが、今のテレスにそんな余裕はない。
そして余裕がないのは彼だけではなかった。先程まで比較的余裕を持って戦っていた春目の顔に汗が滲んでいる。ソクラテスが伸ばす触手の勢いは留まるところを知らず、ついに結界にヒビが入り始めた。亜帝内最強の男が、全身全霊をかけて張った結界が……
「下がれ!」
結界が完全に破られる寸前。春目はこれ以上の防御は不可能と判断したのか、テレスを左に突き飛ばした。彼の機転で救われた少年が身を起こした時、回避が遅れ触手に容赦なく左腕をもぎ取られていく紳士の姿が目に留まった。
「は、春目さん!」
「やれやれ…………本当に困った人だ。左腕まるまる……持って……いく……とは…………」
春目仁は自分の傍で暴れ狂う触手を一瞥し、諦観したように再び穏やかな笑みを浮かべた。その口元から一滴の血が垂れると同時に、男は静かに床へ倒れ込んだ。
「アッハッハッハッハッハッハッハハハハ!」
春目を倒してよほどたかぶったのか、狂ったような大声で笑い出すソクラテス。聞いた者の神経を一人残らず逆立てるような狂笑の末、一段落ついた彼は向かって右側、オルギャノンを握りしめて腰を抜かしている少年を次なる標的と見定めた。凶悪な笑みを浮かべ、じりじりと近づいて来る悪魔……
「うわあああぁぁぁ!」
少年は叫び声を上げ、銃を構えた。しかし指が震え、引き金を引くこともままならない。恐ろしい眼光が正面から突き刺さり、全身の力を奪っていく。
「だ、誰か――」
助けて。言い終わるよりも早く、救援は来た。装甲を纏えないほど満身創痍だったが……
「悪魔め! 先生から出ていけっ!」
触手がテレスを捕える寸前、天井の穴から帰還した惇が割って入り、最後の力を振り絞って刃を突き立てた。思わぬ奇襲を受けた触手の動きがほんの一瞬静止する。が、それも束の間。攻撃を遮られて逆上したソクラテスは雄叫びを上げ、更に大量の触手を生み放った。
「邪魔だァア!」
荒れ狂う触手の群れが赤い津波となって惇の頭上から降り注ぐ。屈強な肉体はグロテスクな波に飲みこまれ、その煽りを受けたテレスもラウンジの外まで吹き飛ばされた。
粉々になった窓枠を飛び越え、気づけば体は地上五十階建てのビルの外。数秒間静止した後、真っ逆さまに転落していく少年の叫びが嵐吹き荒れるビジネス街にこだまする。
「うぐぅムぅう……て、テレス…………!」
精気を吸い取られていく感覚をじわじわと味わいながら、惇はテレスのことを考えていた。もう自分は助からないだろう。しかしせめて彼だけでもこの怪物から逃げ延びてくれれば……
頭の上から足のつま先までどっぷりと触手に浸かっていた彼は、無事を祈る仲間がたった今、窓から落下していったことなど知る由もなかった。
「……何だ?」
惇はふと、自分を握りつぶそうとする触手の勢いが弱まっていくのを感じた。彼は一瞬、とうとう自分が圧殺され、昇天したのではないかと錯覚したが、そうではなかった。
窓の外で再び光が瞬いている。しかしその光は落雷でも、周囲のビルの灯りでもなかった。テレスが転落し、姿を消したビル街の谷間から、青白い光が静かに上へ、上へと昇ってくる。その光にただならぬ気配を感じたソクラテスが、惇からあっさりと身を引いたのだ。
身体を覆っていた触手から解放され、間一髪のところで一命をとりとめた惇。つい先程まで自分を殺そうとしていた触手が不気味に揺らめきながらソクラテスの元へ戻っていく。一方、窓の外で輝く謎の光はとうとう彼らのいる展望ラウンジの前へと姿を現した。
あれだけ残虐に暴れ狂っていたソクラテスが水を打ったように静まり返り、警戒心に満ちた目で光の中に佇む“何か”を見つめている。
(……やつは何を見ているんだ?)
ソクラテスが謎の光に見とれている隙に、啍は最後の力を振り絞って身を起こした。怪物の視線の先で輝いているものは一体何なのか。目をしばたたかせながらその正体を見極めようとした青年の口が、“それ”に気づいた瞬間あんぐりと開く。
神秘的な光の中にたたずんで、いや浮かんでいたのはそれに輪をかけて神々しい、白い翼と青白い髪を生やした美しく巨大な乙女だった。屋外には相変わらず凄まじい嵐が吹き荒れていたが、彼女はその渦中にいながら全く濡れていなかった。
彼女がかもし出すオーラは雨風をまるで寄せ付けていなかった。ソクラテスと同じ、人知を超えた気迫。しかしそこに、殺意に満ちた禍々しさはない。むしろ全てを包み込むような温かみが宿っている。
「……何者だ」
先程までの狂気は何処へ行ってしまったのか。冷静沈着な声でソクラテスは乙女に尋ねた。対する乙女は静かに微笑みながら、右手に握っていたものの先を向けた。それが巨大化したオルギャノンだと惇が気づくより早く、銃口から放たれた一筋の光が悪魔の胸を貫いた。
「あなたを止めに来ました」
その微笑が一転して真剣な眼差しに変わった瞬間、彼女の姿に抱いていた既視感の正体に、惇はようやく気がついた。翼が生え、髪は青く染まっているがその顔は紛れもなく…………
「テレス……?」
惇の呟きに気づいた乙女が彼の方を振り向いた。その一瞬の隙を狙い逆上したソクラテスが襲いかかって来る。乙女は再び凛とした表情を取り戻すと悪魔の攻撃を紙一重でかわし、ビルの上へと飛び去った。対するソクラテスも赤黒い翼を広げ、全速力で後を追う。




