暗躍
大勢の人が行き交うビジネス街。その中心には一際巨大なガラス張りのビルがそびえていた。亜帝内における生活必需品のシェアの九割を占める世界的大企業、エレア社の本社ビルである。
その最上階にあるエレベーターホールで、スケジュールや株価を記録したタブレットを携え一人の女性が佇んでいた。彼女の目には一階から猛スピードで昇って来るランプが映っている。
やがて彼女が立つ階へ到達したのを知らせる合図と共に銀色の扉が開き、中からたった一人の乗客が足を踏み出して来た。同時にそれまで蝋人形のように突っ立っていた女性が出迎えの言葉と共に恭しく頭を下げる。彼女の様子を見て、男の顔に穏やかな笑みが広がった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。メリッサ。今日、この後の予定は?」
「久世野会長直々のお呼び出し。その一件のみです」
「それは助かった。会長とマンツーマンで話す時は全神経を集中しておかないと身が持たないからね。最初の弟子として何十年も付き合いがあるとはいえ、未だにあの人のことは苦手だ」
メリッサは少し困ったような表情を浮かべる男の前に立つと、彼の緊張を和らげるかのようにそっと口づけをした。一瞬だけ、彼女の顔に赤みが差す。しかし男から唇を離した時、既にその顔は最初のポーカーフェイスに戻っていた。
「ありがとう」
「あなたならきっと大丈夫です。あれだけ強情だったピュトドロス社の吸収合併を成功させたのですもの。会長もきっとお喜びになっているでしょう」
「あの人はその程度のことで満足しないよ。それに僕が呼ばれたのは別件だ。エレア社の社長としてではなく、パルメニデス教団の教祖としてね」
「オルギャノン……」
メリッサがそう呟いたきり、二人は口を閉ざしてしまった。やがてエレベーターホールから向かって最奥部にある重厚な木の扉の前に到達すると、男は取手に手をかけながら振り向いた。
「ここから二、三時間ほどは、何が起きても全て君の判断に一任するよ。専務殿」
「どうかお気をつけて」
男の言葉を受け、再び一瞬だけ心配そうな顔を浮かべるメリッサだったが、やはりすぐ元の冷静さを取り戻し、軽いノックと共に足を踏み入れる社長の姿をお辞儀しながら見送った。
「失礼いたします」
一礼しながら扉を開けた男の眼前に、黒く巨大なソファーに腰をかけ、彼に背を向けたまま巨大な二つのモニターを見つめている久世野羽蔵の後ろ姿が飛び込んできた。画面には心臓を撃ちぬかれる黄金の巨人と、燃え盛る部屋を飛び交う水の分身の映像が繰り返し流れている。
老人はしばらくの間、二つの映像を食い入るように見つめていたが、やがて思い出したかのようにソファーを回転させ、自分の背後にたたずむ男と向き直った。
「ピュトドロス社の吸収合併、誠に見事な手腕であった。かけたまえ」
「お褒めに預かり光栄です。しかし会長。本日お呼びになったのはそちらの件ではないのでしょう?」
「左様。お主の読み通り、オルギャノンはハルマゲドニアからの小さなお客様を所有者として選んだようじゃ。ソクラテス教団の、テレス・ニコマコス君をのう」
「やはりそうでしたか……正直ほっとしています。タレス、ピタゴラス、そのほか有象無象の手に渡るよりずっと良い」
「それはオルギャノンのことか? それともこの少年のことか?」
「どちらもです」
「ふぉっふぉっふぉ。お人好しのお主らしい答えじゃな。仁」
「ですがその反面、テレスとオルギャノンをこちらに取り入れるのは至難の業とも言えます。国家元首様は全く評価していないようですが、ソクラテス教団はあらゆる意味で強敵ですから」
「やれやれ。お主のデマゴッド・クレオ嫌いは筋金入りじゃのう……じゃが確かに祖倉哲夫も普良惇も、世間の評価以上の実力を持っておるのは事実じゃ」
「どうなさるおつもりですか? あまり手荒な真似はしたくないのですが……」
「仁、お主の気持ちはわかる。しかし、オルギャノンは我々の手に無くてはならん」
終始穏やかに話を続けていた羽蔵が、最後の一言だけとても厳しい声で言い放つ。その声を聞いた春目仁は顔にこそ出さなかったが、老人の恐るべき執着心に思わず心をざわつかせた。
「安心せい。テレスだけを手中に収める、とっておきの“駒”を用意しておる」
「“駒”ですか……?」
仁はかけていた黒縁メガネを外し、穏やかな微笑みから一転して真剣な眼差しで羽蔵の顔を見た。その胸元には、黄色のラインと木槌の紋章が入った銀色のバッジが光っている……
♦♦♦
「現在ベロポネソスの優勝候補に挙げられているのはタレス、ピタゴラス、パルメニデスの三大教団だ。そこへ楠川邸の一件以来、炎堂の株が上がって実質四強の状態になっている。ここ一ヶ月の間に俺達はこの四勢力のうち三つとやりあってきたわけだが一度としてまともに勝ってはいない。毎回ギリギリのところを逃げおおせて来ただけだ。それこそゲーム的な解釈をすれば、俺一人のステータスにしたって四人の教祖の前では足元にも及ばない」
「ステータス?」
「仮に今、再び真正面から奴らとぶつかった場合、どいつに対しても敗北するのは確定だろう。スピードではフィロ、パワーでは炎堂、知略ではソフィアが俺をはるかに上回っている」
「じゃあパルメニデス教団の、春目仁の場合は?」
「全部だ」
「全部!?」
客のいない店内にテレスの声が響く。楠川邸での戦いから早いもので一ヶ月が経過していた。そして今、テレスは改めて哲夫からベロポネソスについてのレクチャーを受けている。哲夫が春目仁の脅威について熱弁しようとしたその時、店の扉が開いて一人の男が入って来た。
「いらっしゃいま……トンちゃん!」
男の姿を見た途端、哲夫は講義を中断し、彼の方へ嬉しそうに歩み寄った。
「いやぁ久しぶりだねぇ! 捜査の合間を縫ってわざわざ退院祝いに来てくれたの?」
「おいテツ。まず俺をその豚みたいなあだ名で呼ぶな。あと目上の人には敬語で話せ。いつか痛い目を見るぞ。それから俺は、別にお前の退院を祝いに来たわけじゃない」
見るからに不機嫌そうな顔で哲夫を睨みつける男。年は四十代後半といったところだろうか。彼に襟首を掴まれた哲夫は態度を改め、わざとらしく厳粛に頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。九里敦警部どの。本日はどのようなご用件で?」
「いや、そこまで極端にならんでも……ちょっとした事情聴取だ。ゴルギアス教団について、そこにいる少年の口から聞かせてもらいたいことがある」
敦は哲夫を強引にどかすと、テレスの方まで歩み寄り、彼の眼前に手帳を取り出して見せた。
「ご紹介が遅れて申し訳ありません。私、亜帝内国家警察機構の九里敦と申します」
「要するに町のおまわりさんです。しかも超優秀な」
「おい」
「何で怒るのよ! 別に間違ったこと言ってないじゃん。普良一家焼死事件を『ロゴスの子』の犯行だと見抜いたのは紛れもなく大手柄でしょうが」
「何年前の話をしてるんだ……確かにあの一件で昇進はできたが、ペロポネソスが開催されて以降はコソ泥や詐欺師を捕まえる以上の仕事はしてないぞ」
「いやいや、警察がペロポネソスに関与できない現状でそんだけ捕まえられたら充分でしょ」
「あのなテツ。刑事の成果ってのは逮捕した犯罪者の数だけで決まるもんじゃないの。毎日のように賢人や信者殺しが起きてるのに、指を咥えて見ていることしかできないんだぞ。警察はバトルロイヤルで発生した殺人や傷害に対して介入する権限を持たない、なんて法律のせいで」
悔しそうに机を叩く敦の姿を見て気の毒に思う反面、テレスはどうやら自分がカールマンを殺害した容疑者として連行されるわけでは無さそうだと解って内心ほっとした。
「じゃあ、今更ゴルギアス教団の件でテレスに何の用だよ」
「白草カールマンの死についてはペロポネソス実行委員会が処理した。俺の出る幕じゃあない。テレス・ニコマコスさん。貴方のご友人にしてカールマンの信者だったアンディ・ステイン氏についてお聞きしたいことがいくつかあります。お手数ですが、署までご同行頂けませんか?」
「アンディについて?」
「ええ。彼にはエレア社での横領及び貴方に対する偽証、恐喝といった容疑がかかっています。私がここを訪れたのは、被害者の一人でもある貴方からお話しを伺いに来たためです」




