冥界の使者
「思ってたよりあっさりと片付いたな」
意識を失い、床に崩れ落ちる老人を見降ろしながら哲夫は言った。
「この男は老獪だが、肉体は全盛期をとうに過ぎている。貴様の攻撃を真正面から受けて無事で済むほどの耐久力が無かった。それだけだ」
青年も同様に炎堂を見降ろしていた。その青い瞳には蔑みと悲しみが入り混じった複雑な色が浮かんでいる。
「……どうすればいい?」
「え?」
「俺はこれからどうすればいいんだ。組織も仲間も、名前さえも捨てて、どう生きていけばいいんだ。教えてくれ賢人。俺はもう死ぬしかないのか?」
「ばーか。自分を騙していた奴を倒したぐらいで死ぬ奴があるかよ」
哲夫は真剣な顔で青年に詰め寄った。
「お前はなんで今この爺を裏切った? こいつが家族を殺したと知ったからだろ。要するに敵討ちだ。家族のためを思ってやったことだ。ならこれからもそうして生きていけばいいじゃねえか。自分を愛してくれた、死んだ家族の分まで生きる。それで充分じゃねえか」
「…………」
「それにお前にはまだ生きてやらなきゃいけないことがある。自分がやった罪を自白して研ちゃんや今まで殺した人に償うことだ。死んでお詫び、なんてバカなこと考えるんじゃねえぞ。たとえ炎堂の指示であったとしても、お前の犯した罪は一生消えない。今死んだらその背負うべき罪から逃げることになる。そんなことは俺が許さん。お前が普良惇を名乗ろうが、クレス・アリストを名乗ろうがどっちでもいい。だが生きる義務と責任だけは忘れるな」
♦♦♦
「……というわけで、あいつは父上様の呪縛から解放され、普良惇を名乗るようになったのさ。めでたしめでたし」
「な、なんか話の展開が唐突すぎないか?」
それまで黙って話を聞いていた優が、首を傾げながら割り込んできた。
「どの辺が?」
「その惇って人、急に豹変しすぎだろ。家族を殺されたって知ったとはいえ、七年間も組織に忠誠を誓ってきたんだろ? 僕は教団のこととか全く知らないけど、普通もうちょっと葛藤とかさ……」
「そこがある意味この話の肝だよ。あいつは炎堂に恩義を感じていたが、同じくらい亡くなった普良一家のことも愛していた。自分が本当の子じゃないと解ってからも、自分を育ててくれた義理の両親に対する愛は変わらなかった。
そこを理解できなかったのが炎堂力最大の誤算。そんなに愛していた家族を殺したと暴露され、挙句愚民と侮辱されたからにはそりゃ見限るさ。あいつが殺戮マシーンじゃなく人間として復活し、前を向くことが出来たのは組織への忠誠心を家族愛が上回ったからに他ならない」
哲夫は当時のことを思い出すように上を見つめながら淡々と語った。テレス、そして優は何も返す言葉がなかった。
「自分を愛してくれる家族がいるってのは、幸せなもんだぜ」
哲夫はパソコンの隣に前倒しになっていた、一枚の写真立てを拾い上げた。写っているのは、まだ健在だったころの楠川一家だろう。埃まみれの額縁の中には三人の人物が写り込んでいた。作家としての威厳など感じさせず、一児の父親として満面の笑みを浮かべる氷久郎。彼の腕に抱かれているのは、当時まだ五歳ぐらいだろうか。世間の荒波も人生の挫折も知らない優だ。
そんな二人のすぐ隣に、夫の肩に寄りかかり息子の頭を優しく撫でている一人の女性の姿があった。ふくよかな丸顔と、それを際立たせるように後ろで団子状にまとめられた黒髪。幸せそうな表情を浮かべているが、その顔はよく言えば庶民的で親しみやすく、悪く言えば地味だ。とても主人を失った後、今の豪邸の主として高貴な振る舞いが出来るようには思えない……
「優」
哲夫が写真から目を離さずに尋ねた。
「この女性は誰だ?」
「誰って……何言ってんだよ、僕の母さんじゃないか。ここに来るまでに会ったんだろ?」
「え!?」
驚きの声を上げたのはテレスだ。しかし哲夫も、声にこそ出さなかったが優の返答を聞いて驚愕と困惑を隠せなかった。優の言ったことが真実で、この写真に写っている丸顔の女性こそ志保夫人だとしたら…………だとしたら?
「……俺たちをここに連れて来た、あの貴婦人は誰なんだ」
狐につままれたような表情で自分たちの置かれた状況を整理していた哲夫とテレスの耳に、ふと聞きなれないノイズが飛び込んで来た。不審に思い振り返った視線の先、優を貶す記事が表示されていたはずの画面に乱れが生じ、やがて白黒入り交じった砂嵐へと変わっていく。
「まさか……今すぐパソコンから離れろっ!」
哲夫の鋭い声に気圧され後退する優とテレス。その間も砂嵐とノイズの激しさは増していき、ついには部屋中に響き渡る不協和音と画面を完全に覆い尽くす灰色の砂塵へと姿を変えた。
「うわあ! 何だよこの音は」
あまりの煩さに一同が耳をふさいだ瞬間、ノイズと砂嵐がピタリと止んだ。ディスプレイは何の前触れもなく消灯し、黒く冷たい画面が動揺する三人の顔を写し出していた。
「……壊れた?」
「駄目だ優! 近寄るなっ!」
恐る恐るパソコンに近づく優を哲夫が引き止めようとした時。真っ黒な画面の中から突如、同じく漆黒の衣を見に纏った人影が飛び出して来た。その手にはあらゆる命を刈り取るように鋭く冷たい光を放つ鎌が握られている。だがそれ以上に恐ろしいのは、黒ずくめの中で異彩を放つ、白い髑髏の仮面だった。どう見ても死神としか思えない謎の怪物の出現。優とテレスは恐怖のあまり言葉を失い、哲夫は知の鞭を取り出しながら険しい顔つきで呟いた。
「オルフェウス教……とうとう取り返しにやって来たか」
オルフェウス教。戦前からキラシュア世界の影でひっそりと活動し続けて来た謎の宗教団体。表の世界では邪神とされている存在を崇め、副業として暗殺も請け負っているらしい。彼らについて判明しているのはその程度で、詳しい実態については今日に至るまで何も解っていない。
そんな彼らが亜帝内で本格的に活動し始めたきっかけがパルメニデス教団とのオルギャノンの共同開発であった。しかしその露出が仇となり信者たちの一部は射殺され、オルギャノンも今や哲夫を通してテレスの手中に収まっていた。
片や鞭を、片や鎌を握りしめて睨みあう両者。オルギャノンを強奪した時から哲夫は彼らに追われることを覚悟していた。しかしまさかパソコンの画面から飛び出してくるとは……
その時、暗殺者が微かな足音を立て暗闇の中に姿を消した。優とテレスを背後に庇い周囲を見渡す哲夫。全神経を集中させて暗闇に紛れ込んだ殺し屋の気配を探知しようとするが、敵はそんな彼をあざ笑うかの如く部屋の中を縦横無尽に飛び回り、背後から哲夫の肩を切り裂いた。部屋に飛び散る血飛沫。絶叫するテレスと優。更なる一撃が彼らを襲うが、紙一重で知の鞭に阻まれた。敵に立ち向かうだけなら哲夫にとってそこまで難しいことではない。問題は暗闇の中、二人の非戦闘員を庇いながら暗殺のプロを相手にしなければならないということだ。
敵の狙いが自分なら、注意を引きつけている隙に二人を外へ逃がすこともできる。テレスの場合でも、所有者の身を守るためオルギャノンが力を貸してくれる可能性もゼロではないはず。しかし残念ながら標的はそのどちらでもなく、よりによって一番弱い優のようだ。それは相手の仕掛けて来る奇襲の矛先が、圧倒的な割合で彼に向いていることからも明らかだった。
「参ったな。どういうわけかこの敵さんは俺が奪ったオルギャノンの奪還より、全く無関係な引きこもりを冥界に連れて行くことの方が重要らしい」
扉に背を向け迫り来る敵と対峙していた哲夫が、突如彼の背後にいたテレスを突き飛ばした。それを見た暗殺者は厄介な鞭の使い手よりも先に仕留めようと思ったのか少年に狙いを定める。
「させるかっ!」
長く伸びた知の鞭がテレスに突撃する暗殺者の足元をすくい、転倒した相手の眼前に立った哲夫は、鞭で空気を切り裂きながら堂々と言い放った。
「俺の立っている場所から外へ出ていいと誰が言った? 出たけりゃまずは俺を倒して行け」
容赦の欠片も感じられない哲夫の言葉。それを聞いたテレスは初めて、彼がただ闇雲に攻撃を防いでいたのではなく、逃げ道を確保しつつ敵を部屋の奥へ誘導していたのだと気がついた。扉と敵の間に仁王立ちし、知の鞭を左右にぶんぶん振る哲夫。その場所は彼らが初めて部屋に足を踏み入れた時、優がそれ以上入るなと主張していた境界線の真上だった。
「先に行け!」
哲夫は振り向くことなくテレスに指示を出した。彼の足元には一緒に逃げようとする優の姿があったが、哲夫はその裾を踏みつけている。どうやらテレスだけを逃がすつもりらしい。
「標的はあくまで優だ。敵をこの場に留まらせておくには少なくともこいつはここに残らないと駄目だ! だが流石の俺でも二人分のお守りはちとキツい。せめてお前だけでも先に出ろ。だがそのままトンズラこくんじゃねえぞ。お前には外に出たらあいつを呼んで来るという大事な仕事が残っている。背後で守るべき戦力外が二人いるよりも、背中を預けられる戦力が一人いる方がずっと良い。俺の言いたいこと、解るよな?」
「……はい!」
師匠の意図を理解した少年は、全速力で扉に向かって駆け出した。




