血の鞭
「う……うぅ……」
意識を取り戻した炎堂は、血の染みついた赤い絨毯からゆっくりと身を起こそうとした。しかしそれよりも先に、何者かに胸ぐらを荒々しくつかまれる。ずっと彼を見張っていた惇だ。
「何故貴様がここにいる。目的は何だ」
惇は炎堂の鼻先に鋭い刃を突きつけ、冷たく問いただした。対する炎堂は動じることなく目をしばたたかせるとうるさい蠅でも追い払うかのような口調で言った。
「この屋敷の主に依頼を受けた。他に理由があるか? 偉大な父親の後を継ぐのに失敗し、引きこもっている馬鹿息子。そんな恥さらしをこの世から骨一つ残さず消し去って欲しい。そう電話越しに頼まれて来てやったんだ。
依頼を聞いた時、真っ先に誰かさんの顔を思い出したよ。俺を拒絶し、組織を壊滅に追い込んだ裏切り者のことをな。
で、いざ屋敷を訪れてみれば、その誰かさんが目の前に立ちはだかっているじゃないか。こんな偶然が起こりうるもんか、ねぇ!」
炎堂が再び火を吹いた。咄嗟に避けようと顔をそらす惇。その隙を突き、すかさず繰り出されるナックルダスターの一撃。
「ぐうぅ!」
惇は腹部に強烈な痛みを感じ、思わず炎堂から手を引いた。次なる一撃が襲い来るが、すんでのところで飛び退る。
「まだまだ詰めが甘いな。クレス」
体勢を立て直した炎堂がナックルダスターに炎をまとわせる。惇も再び三角形の刃を突き出すと、パンクラチオンの構えをとった。
「何度も同じことを言わせるな。私は……普良惇だっ!」
♦♦♦
「そんなか細い鞭一本でどうしようってんだよぅ!」
閉ざされた部屋の中。残された優が涙と鼻水を擦りつけ、オルフェウス教の刺客と対峙する哲夫を責め続けている。しかし当の哲夫は意に介すこともなく正面の相手を睨みつけていた。
対する暗殺者もテレスを追うことを諦めたのか、やけにあっさりと境界線の内側で立ち尽くしている。どうやら向こうも、速やかに暗殺を遂行するには下手な小細工や回り道よりもまず眼前で奇妙な鞭を振るう護衛を倒すのが最善の方法だと考えたらしい。
両者はその場から一歩も動かず、お互い相手がどう出るかじっと伺っていた。緊迫した部屋の中に響く音は、空気を読まずに哲夫を責め立てる優の声だけだった。
「おい聞いてるのか? おい! そりゃあの子がいなくなって護衛対象が僕一人になったのはやりやすいだろうよ。でもあんたのその白い鞭は敵の攻撃を防ぐばかりで、まともに反撃すら出来てないじゃないか! そんなもんでどうやってあの化物を倒すって言うんだよ」
「切り札が知の鞭一本だけなんて、誰が言ったよ」
哲夫はそう言うと、瞳を閉じ右のこめかみに指先を押し当てた。そこから先の動作は知の鞭を取り出した時と全く同じだ。指先を頭から放すと同時に紐のようなものが伸びていき、一メートル程の鞭となって床に垂れ下がる。ただしこの第二の鞭には一本目と明らかに異なる部分がいくつか見受けられた。
一つ目は、その色だ。最初の数センチこそ知の鞭と同じく白い輝きを放っていたが、哲夫が最後まで引き抜く頃には、血管を思わせる禍々しい紅色が鞭の表面を包みこんでいた。
二つ目は、その形。知の鞭がブルウィップと呼ばれる、一直線に伸びるポピュラーな形状であったのに対し、この鞭は先端部が九つの細い紐に枝分かれしていた。罪人への拷問や過激な大人の遊びに使われる、キャットオブナインテイルという種類の鞭である。拷問用に作られたというだけあって、一振りで複数の部位を同時に攻撃できるのが特徴だ。
そして三つ目にして最大の違いは、この鞭を引き抜いた哲夫の様子だった。先程まで血色の良い顔で元気そうに笑っていた彼の肌からは文字通り血の気が引き、足取りもおぼつかない。
「ど、どうしたんだよ。おい! しっかり!」
「へへへ……これが俺の第二の切り札、血の鞭さ。一本目と違ってちょいと厄介な代物でね。中身こそ知の鞭と同じだが、その外表や先端部は俺の体内から五分の一ほど抜き取った血液でコーティングしてあるんだ。だからこいつを取り出したら速攻で貧血になる。
そんなリスクを伴う割に威力、スピード、命中率、リーチの長さ。どれをとっても知の鞭に劣る無用の長物。普段の戦闘でこいつを使うことは滅多にない」
「じゃあ何で今そんなもん出したんだよ!」
「確かにただの鞭として振るのなら、こいつを出す必要なんてこれっぽっちもない。だが、血の鞭には一つだけ、知の鞭では補えない一世一代の大技があるんだ……」
「大技だって……?」
血の鞭を引っ張り出した途端、倒れかかった哲夫の身体を受け止める優。彼の視線は哲夫の青い顔から真っ赤に染まる鞭へと移っていた。その先端部がまるで生き物のようにうねうねと動いているのを見てしまった瞬間、部屋に再び彼の絶叫がこだまする。
「うわああああああ!」
「怖がることはない……久しぶりの出番で張り切っているだけだ。それより警戒すべきは」
怯える優と同じくらい震える右手で、哲夫は自分が倒れたのを好機と見て突撃して来る敵に血の鞭を振るった。案の定、その短く鈍重な動きは敵に届かず、床に勢いよく叩きつけられただけだった。
しかしその直後、叩きつけられた九つの先端部がゴム毬のように床の上を跳ね、天井や壁まで伸びては同じ動きを繰り返す。何かを悟った相手が退避しようとするがもう遅い。哲夫が放った渾身の一撃は部屋中に拡散し、蜘蛛の巣のような赤い結界を張り巡らせていた。
「俺が見出した、こいつの最強にして唯一の大技、血の結界。略して血界だ。恐れ入ったか」
青白い顔に勝ち誇ったような笑みを浮かべ、身動きの取れなくなった相手を見つめる哲夫。視線の先には天井付近で静止している暗殺者の姿が浮かんでいた。もちろん敵が自力で浮いているわけではない。血の鞭を回避しようと咄嗟に跳躍したのが仇となり、空中で四方八方から伸びる血界に絡めとられてしまったのだ。漆黒の衣にべったりとこびりつく赤い鮮血を見て、突然もがき始める暗殺者。ここまで一切の感情を表に出してこなかったオルフェウス教の刺客も、流石に得体の知れない触手相手では平静を保っていられなかったようだ。彼が着けている髑髏の仮面。その下にはきっと、恐怖と焦燥感に満ちた表情が浮かんでいるに違いない。
「ははは……もがけ苦しめ。お前が動けば動くほど、血界はその肉体に絡みついて離れない。痛いか? 熱いか? 苦しいか? その肌にまとわりついて這いずり回る赤い鞭にはここまで散々痛めつけてくれたことへの憤りの炎が宿っているのだ……そんな俺の熱血を送り込みィ! 連鎖になってリフレクトぉ!」
「いやいや混ざってる! 色々ギリギリな台詞が混ざって意味不明なこと言ってるよアンタ!」
優のツッコミを無視し、相手を煽る哲夫。暗殺者はしばらく抵抗を続けていたが、やがて観念したのかピクリとも動かなくなった。
「おや……?」
とうとう仕留めたか……? と訝しむ哲夫。だが失神する寸前のぼやけた視界の片隅には、血界の絡まった身体の関節をボキボキ外し、強引に抜け出そうとする暗殺者の姿が映っていた。どうやら敵はまだこの戦いを諦めていないらしい。
「おいおい……そちらさんまで俺の戦闘の潮流に寄せなくてもいいんだぜ」
「いい加減にしろぉ!」
色々な意味でこれ以上はマズいと感じた優が哲夫の頭を引っ叩くのと、血界から抜け出した暗殺者が彼らの眼前まで迫って来るのはほぼ同時だった。
「もう駄目だ。お終いだぁぁぁ!」
再び死の恐怖に駆られ悲鳴を上げる優。彼に支えられている哲夫もこの戦いに決着がついたことを認めるかのように目を閉じた。
「あぁ……そうだな、もうお終いだ…………あいつは」
「へっ?」
暗殺者の鎌が二人の目と鼻の先まで到達する直前、最後の力を振り絞ったかのようにかっと目を見開いた哲夫は、血の鞭の柄を真横に持ち、その端を左手の腹でぽんと叩いた。
「暴れろ。ヘモグロビン」
次の瞬間。張り巡らされていた血界の表面が、茨のように鋭い棘となって突き出した。そのあまりにも残酷で凶暴な一撃は、任務遂行まであと一歩というところまで近づいていた暗殺者の身体を、二人の眼前で容赦なく串刺しにした。
♦♦♦
「惇さん! 大変です。部屋の中に暗殺者が――」
「下がっていろテレス、こっちも今取り込み中だ」
惇に制されて戸口に引き留まったテレスの眼が、彼と戦っている相手を見た瞬間凍りつく。
「炎堂……力」
「ん? おやおや、そこにいるのは昨日出会った小僧じゃないか。なんでまたここに……ほう! そういうことか」
殺意に満ちた眼差しで啍と組みあっていた炎堂が、再び腹を抱えて笑い出した。しかしその笑い方は惇に対する挑発とは違う。純粋に面白がっているかのような明るい笑いだ。
「昨日会った時はどこに入るか決めていないと言っていたが、よりによってここに入ったか! 可哀そうに。あんなろくでなしを教祖様と呼ばなければならんとはねぇ」
「貴様!」
今度は怒り狂った啍をテレスが必死で引き止める番だった。かつての仇敵に師匠を侮辱され、昨晩万太郎と対峙した時以上の激昂を隠そうともしない。そんな彼の様子を見て炎堂も匙を投げたのか、自分の右腕に向かって大きな溜息を吐く。
「もっとお前達と遊んでいたいところだが、そろそろタイムリミットが来ちまったようだな」
炎堂の吐く息はやがて炎となり、右腕を包み込んだ。そのまま腰を落とすと紅蓮の拳をかっと開き、二人に向かって指を突き出す。そして何やらぶつぶつと、呪文めいた台詞を喋り出した。
「俺のこの手が真っ赤に染まる……真理を掴めと呻き叫ぶ……」
「まずい! 早く中に入れ!」
彼の行動の意図を察知した惇がテレスを避難させようとした瞬間、炎堂の叫びが響き渡った。
「爆殺! バニシングフィンガー!」




