過去
普良さんの家から、火の手が上がっている。近隣住民から通報を受けた消防隊員が現場に駆けつけた時、既に家は全焼し、焼け跡には三つの亡骸が横たわっていた。
検死の結果、遺体はそれぞれ父親、母親、長女であることが判った。身元確認のため連れてこられた、たった一人の遺族もそう証言した。
遺された者の名は、普良惇。当時十三歳だった彼は、所属していたレスリング部の合宿で家を離れており、からくも一命をとりとめたのだ。
出火の原因は解らなかった。直前に不審な人物を見たという証言もあり、警察は殺人事件の線も視野に入れて捜査を続けたが、有力な証拠は何一つ手に入らなかった。
惇については、身寄りもなかったことから児童養護施設で保護される手筈となり、本人もそれを承諾した。
数日後、彼は姿を消した。
事件から七年の歳月が経った、凍えるような冬の夜。かつて普良一家が住んでいた土地の隣の家で、誕生パーティーが開かれていた。団欒の中心で祝われているのは今夜十三歳の誕生日を迎える少年、襟裳研。彼は目を輝かせながら、眼前のケーキに灯った蝋燭の火を吹き消した。
少年が蝋燭の火を消し、周囲が暗闇に包まれた瞬間、待ってましたとばかりに拍手が上がる……予定だった。しかし歓喜に包まれた家族の声は研の耳に入ってこなかった。彼が代わりに聞いたのは、何かが叩き割られるような音。たった今消した筈の炎が再び灯る音。そして人々の恐怖に満ちた叫び声……
暗闇を照らし出す赤い炎。そこに映し出された光景は、つい先ほどまでの団欒が嘘のような地獄絵図だった。床一面に広がる血の海。その中に横たわっている家族。無残に破壊された机と、床にぐちゃりと潰れ落ちたケーキ。何もない筈の空間にぽっかりと空いた大穴。
そして食卓の一番上座には、見た事もない大男に片手で首を締め上げられている父親の姿があった。男はフードを被り、顔を隠している。
「と、父さん!」
慌てて駆け寄ろうとした研の首筋に冷たい刃の感触が押し当てられた。恐る恐る振り返った青年の目が、同じくフードを被った別の男と重なった。サファイアを思わせる青い瞳……
「……亜帝内国会議員、襟裳加里矢。民主主義派政党の幹部。そうだな?」
大男が父親の首を掴んだまま問い詰める。加里矢が窒息寸前の青い顔をしながら必死で男の問いに頷いた途端、男はあっさり彼を手放した。どすんという重々しい音が床に響く。
「ぜぇ……ぜぇ……き、貴様らは一体……?」
「我らは『ロゴスの子』。お前たち愚民どもにより、国を統べる権利と資格を剥奪された一族だ」
「はぁ、はぁ……『ロゴスの子』だと……? そうか。お前達がここ数年、賢人どもが起こした争乱の影で、民主主義を支持する層を虐殺しているというテロリストだな?」
床に叩きつけられ、苦しそうに息を吐きだす加里矢。徐々に呼吸を整えていくその顔には、愛する妻や子供達を殺した相手に対する憎しみがはっきりと浮かんでいる。
「テロリスト。世間は我らのことをそう呼ぶ。だがその世間とは所詮、あの悪しき民主主義者クレイトス・ラ・ペリを、尻尾を振る犬のように崇める衆愚の民に過ぎぬ。我らはそれ以前、亜帝という国に馬鹿げた混乱など招くことなく支えて来た高貴な一族の子孫なのだ」
「馬鹿馬鹿しい。何が高貴な一族だ。お前達は国民が家族を守るため戦地に赴き、命を賭して戦っていた時に何をしていた? ろくに資金も提供せず、屋敷に籠っていた臆病者のくせに!」
大男が再び加里矢を締め上げる。しかし彼の目にはもう、恐怖は浮かんでいない。
「殺してみろ。今まで手にかけた多くの罪のない国民たちと同様にな。民主主義よりご立派と謳う貴族の子孫様とやらが、ただ暴力に訴えて殺戮を繰り返す。なんと滑稽な――」
加里矢の挑発は、男のもう片方の手――首を締め上げていない左手――から発せられる炎の音でかき消された。燃え盛る拳で顔を握りつぶされ、襟裳家の当主は一瞬で灰になった。
「父さん!」
大粒の涙をこぼしながら父親の亡骸に駆け寄る研。彼を押さえつけていたもう一人の男は、何故か刃を収めている。大男は自分の許可もなく少年を解放した部下に非難の目を向けた。
「クレス。何をしている。早くその小童も始末せぬか。一族郎党皆殺しとの命令だぞ」
「……申し訳ございません。テュロス様。手が滑りました」
頭を下げる男。その声を聞いた研の足が止まり、自分を捕らえていた相手の方を振り返る。
「惇兄……?」
少年に名前を呼ばれた青年は、何も答えない。代わりに頭を覆っていたフードをゆっくりと脱いで素顔を晒す。その顔は紛れもなく、七年前に姿を消した幼馴染だった。
「やっぱり……惇兄、惇兄じゃないか! 生きてたんだね!」
研の表情が家族を喪った悲しみから一瞬にして驚きに変わる。しかし彼を見つめ返す瞳には、如何なる感情も浮かんではいなかった。深海のような暗く冷たい、殺戮者としての鉄面皮。
「ねぇ、何とか言ってくれよ。今までどこ行ってたんだ……どうしてこんなことを」
青年は研の問いかけにまるで応じない。代わりに口を開いたのは加里矢を殺した大男だ。
「冥土の土産に教えてやる。惇などという名の人間は存在しない。彼の名はクレス・アリスト。遥か昔、まだ亜帝が王政だった時代。その最後の王であるコドロス・アリストの末裔なのだ」
「違う! この人はそんな名前じゃない。僕の幼馴染で、いつも一緒に遊んでいた惇兄さんだ。僕が十人の虐めっ子にいたぶられていた時も、たった一人で助け出してくれたんだ」
「ほう! 幼少期から“子”としての完璧な素養を身に着けていたというわけか、クレス。父上の意思を継ぐのはお前で決まりだな。その前に最後の一仕事だ。こいつを始末しろ」
それまで人形のように黙ってたたずんでいた青年が、上官の指示を受けてゆっくりと歩きだした。
「惇兄……!? 嘘……だ……ろ……」
振り向いた研の胸元に容赦なく突き刺さるナイフ。サファイアの瞳はくず折れる少年の体を何の感情もなく淡々と見つめている。
「それでこそロゴスの子だ」
満足そうに頷くと、証拠隠滅のため、加里矢を焼き殺した炎を部屋中に向け始めるテュロス。だがその時、玄関に繋がる部屋の扉が勢いよく開かれた。
「何だ?」
「畜生! 一足遅かったか」
彼らの眼前には、白い鞭をしならせた哲夫が鬼のような形相を浮かべて立っていた。
「…………何者だ」
予期せぬ乱入者に一瞬だけ困惑するテュロス。しかし青年がすぐにナイフを構え、哲夫の前に立ち塞がったのを見て安心したのか、炎に包まれた両手を襟裳一家の遺体に向けた。
「やめろ!」
哲夫が怒りの叫びを上げて突撃する。彼の前に立ちはだかった青年がナイフを振りかざすが、鞭の一振りによってあっさり弾かれた。
「そんなもん効くか……うぐぅ!」
突如、哲夫の腹部に硬く重い一撃が響く。ナイフを弾き飛ばされた青年が一瞬で間合いを詰め、空になった手でボディーブローをお見舞いしたのだ。たまらず腹を押さえ倒れ込む哲夫。
「その男の拳を甘く見てもらっては困る。下手なナイフよりよほど確実にお前を仕留めるぞ」
何も言わず拳を構える青年の背後で、テュロスが勝ち誇ったように叫んだ。
「はぁ……はぁ……面白え。なら俺は」
相手の動きを見た哲夫はゆっくり立ち上がると鞭を収めた。代わりに左手をだらりと下げ、右腕を後ろにぐぐっと引く。
「ホプリテスだ」
「何?」
「知らないのか。重装歩兵だよ。右手を槍に、左手を盾に見立てた兵士の構えさ」
「……我流か」
「まぁそんなとこだな」
「ごちゃごちゃ敵と喋るなクレス。さっさと片づけろ」
テュロスの苛ついた叫びを耳にし、青年が動いた。その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さで距離を詰めると、顔やみぞおちを狙って矢継ぎ早にパンチ、時折回し蹴りを繰り出す。
対する哲夫の動きは独特だった。左腕で盾のように相手の攻撃を受け流し、力を込めた右腕の拳を槍で突くように急所へ打ち込む。その姿は自分で言っていた通り、盾と槍で武装した兵士の動きを彷彿とさせた。
「どうしたボクサーくん、お仲間から高く評価されてる割に、クリーンヒットは最初の一発だけか?」
相手の連撃を腕一本で退け、何度目かのカウンターパンチを食らわせながら哲夫はわざとらしく挑発した。青年は何も言わなかったが、予想外の反撃に苦しんでいるのは明らかだ。
「……何者なんだ?」
想像を上回る奮闘ぶりに目を見張りながら、テュロスが呟く。それを耳にしたのか、哲夫が一旦青年から距離を取ると彼の方に向き直った。
「俺の名は祖倉哲夫。お前達が殺した襟裳一家とは仕事柄馴染みがあってな。研ちゃんの誕生パーティーに遅ればせながら馳せ参じるつもりだったが、こんなことならお告げに背いてでももっと早く来るべきだったな……」
テュロスと青年へ交互に視線を送りながら律儀に名乗りを上げる哲夫。その表情には襟裳家を救えなかった悔しさが滲み出ている。そのことに気づいたのか、テュロスは突然笑い出した。
「はっはっは! 敵に情けをかけるつもりはないが、我が偉大なる父上の言葉を借りるなら、如何なるものであっても常に同一の状態であるとは限らない。祖倉哲夫よ。貴様は今この瞬間、その事実を目に焼きつけたということだ。そこに転がっているのはもはや愛するお友達などではない。ただの焦げた肉塊だよ」
「てめえええ!」
哲夫が拳を握りしめ、テュロスに殴りかかろうとする。すかさず青年が割って入った。
「どけ、ボクシング野郎!」
「ボクシングではない」
青年が突然構えを解いた。そのまま哲夫に向かってまっすぐ突進すると、身体に組みつき、押し倒す。
「パンクラチオンだ」
恐ろしい力で哲夫を押さえつけながら、青年が淡々と言った。どうにか抜け出そうともがく哲夫だったが、青年の全体重がのしかかり、身を起こすことさえままならない。
「クレスがただ殴る蹴るだけの動きをしていると油断したのが貴様の運の尽きだ。祖倉哲夫」
テュロスが嘲笑を浮かべながら冷たく言い放つ。
「始末しろ」




