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冤罪  作者: 新宮義騎
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四 事件 ②

 だがその心配の必要はなかった。なんと高井がすぐさま要請に応えてくれたのだ。そして今日、仮病でオフィスを抜けだしてきた俺の目の前にこうして座っている。連絡を取ったのはたったの四日前。あまりにすんなり事が進みすぎて、話を切りだす俺の方が面食らっていた。

「さっそくだけど高井くん、あの噂は本当?」

 対して高井は一見、落ち着いているようではある。あらかじめ用件をズバリ伝えておき、なおかつ真相がはっきりしない段階で立場が悪くなる内容の記事は書かないと条件をつけていたため、さして狼狽していないのだろうと一度は思った。しかし口を開くとそうではないのが分かる。

「違います」

 ここは土浦駅前の喫茶店。人目につきにくい最奥部の席とはいえ夕方で周りにそこそこ客がいる中、思いのほか大きな声を出してしまったのに驚いたようで慌ててトーンを抑える。白く端正な顔も強ばっていた。過去の取材でこのような反応を示した記憶はない。俺は質問がてらに様子を窺う。

「それを証明できるものは?」

「ありません」

「八百長自体は証明できないかも知れないけど、お祖父さんに関しても同じ?」

「はい。だから困っているんです」

 高井はそこまではスムーズに短く答えていた。だがこう訊きかえすや、口を噤んでしまう。

「どういう事?」

 代わりにカバンから一枚の茶封筒を出して中身をテーブルに広げる。

「これを見てください」

 促されるまま手にとってみると、それらは全て戸籍類だった。高井の祖母は離婚によって転籍しており、従前戸籍の筆頭者名は文田猛志と記されている。高井の父についても同様だ。さらにその人物の原戸籍には新潟県長岡市、昭和十四年十一月八日出生により届出とある。

 出身地、生年月日ともに合致。間違いなく例の事件を起こしたあの文田猛志だ。しかも戸籍は抹消されておらず、法律上は存命ということになっている。高井と姓が異なるのにも完全に説明がつき、噂を否定するどころか補強の材料になってしまっている。

「僕も信じられませんでした。家庭の事情で、祖父の名前は知りませんでしたから」

 高井は俯いていた。結果を直接口にするのを避けているところから、今も事実を受けとめきれていないものと察せられる。

「ここまで調べたのか」

「噂が原因でエフタリテスを降ろされたのが納得いかなくて、オーナーの中林さんに弁明するつもりだったんです」

「そうしたら、困ったことになったと」

「間違いであってほしいと思ってたんですが、市役所の窓口でも直系血族ということであっさり申請が通って」

「赤の他人だと、特別な理由がない限り出してもらえないからね。ちなみにこの白井市の住所は今どうなってるか調べた?」

「はい。これを取りにいった足で直接、確かめたら保育園になってました」

「事件後、住民票を置いたまま行方不明。所在も追えなさそうだな」

 俺も、エフタリテスは菊花賞でかなり面白い存在になるのではと密かに注目していたのだ。謂れのない噂であそこまでの素質馬から降板させられたとなれば、とりわけGⅠ獲得未経験の高井にとって我慢ならない仕打ちだろう。理不尽に出世の芽を摘まれたに等しい。そうした不満が、ついに抑えられなくなったようだ。

「お願いです」

 高井は下からじっと俺の目を覗きこんできた。

「あの噂が嘘だってことを明らかにしてくれませんか。誰があんな根も葉もない話を言いふらしたのか突きとめられたらと思って、できれば菊花賞までに。僕はまたエフタリテスに乗りたいんです。次いつGⅠで勝負になる馬に出会えるか分かりません。今日はそれをお願いするために来ました」

 頼みは理解できる。何者かが悪意をもって吹聴したのは確実だ。おそらく藁をも縋る思いでわざわざ休日の貴重な時間を使い、戸籍を持ってここまで足を伸ばしてきたのだろう。

 もっとも、要望に応えるのは困難を極める。

「でも高井くん。噂の発生源を突きとめられるだろうか? もし張本人に当たったとしても、罪を認めないんじゃないかな」

 俺が率直な意見を伝えると、高井は再び黙りこんでしまった。

 編集長の受け売りではないが、悪意をもって相手を貶めようとする人間はそう容易く自白などしない。警察などの捜査機関や専門のライターならまだしも、俺や高井には普段の仕事がある。時間も能力も足りない。

「じゃあ、大賀さんはどうするつもりですか? 僕の話をそのまま記事にするんですか?」

 そこでにわかに高井の目に不審の色が宿るのを感じ、俺は即座に首を横に振る。同時に決断した。あたためていた考えをいま言おう。風評被害に晒されている本人が現状を打破する術を見出せていないのなら、受け入れられるのではないか。警戒を解くべく、表情と声をつとめて和らげてみせる。

「いいや。噂はまだ一般の競馬ファンに広まっていない。今の段階でそんな真似をしたら高井くんの立場が悪くなるだけだろう。反論を載せるにしても今日、明日とるべき方法ではない気がする。だから提案したい。噂の震源地になってる人物を問いつめるより、過去に起こった〈文田事件〉の方を否定した方がいいんじゃないかな」

「えっ、そっちを。昔の事件ですよ」

「いいかい。中央地方を問わず、似たような噂は時たま出てくる。ただし高井くんの場合、お祖父さんが過去に八百長をしていたっていう補足情報が追加されてるのが厄介なんだ。それでもって噂の信憑性が高められてしまってるわけだよ。だったら高井くんとお祖父さんの血縁関係はいったん置いといて、〈文田事件〉で本当に八百長が行われたのかを検証したらどうだろう。実際にやっていないことが明らかになったら、高井くんに纏わるデマの信憑性も消えてなくなるはずだ。

 もちろんそれがうまくいかなかったときは高井くんのお祖父さんがご存命かどうかを調べて、そうだった場合は居場所を突きとめて直に真偽を訊くとか、あるいは逆に亡くなられていればその事実を確認して高井くんが八百長の指示を受けること自体不可能だって証明する方法があるから、複数の可能性を睨んで同時並行で進めるつもりだけどあまり期待しない方がいいだろうね。もし今どこかで暮らしていているとしても簡単には見つからないだろうし、疑惑の一端を担っている当人が無実を主張したところで高井くんの潔白を世間一般に信用させる材料としては弱い。

 だからそっちはあくまでサブのプランとして、まずは第三者の証言をもとに〈文田事件〉の真偽を優先して確かめるべきだと思う」

「でも、また同じような噂を流されたら」

「人はいったん嘘だと分かった話を二度も三度も信じないよ。むしろあの事件が八百長じゃなかったと判明した時点で、最初に流言を広めたのは誰だとか犯人捜しがはじまる。少なくとも一方的に高井くんが疑われるような事態にはならない。一定数は確実に擁護に回る」

「ただ……そうは言っても、あの事件が八百長じゃなかった可能性なんてあるんですか? 何か根拠みたいなものはあるんですか?」

 高井は戸惑ってはいるものの、訝るような気配は消えている。もう一押しだ。俺はすかさずタブレットを取りだし、電源を入れるや高井も見られるようテーブルの脇に立てかけた。

「いい質問だね。これが俺の目についた、八百長とされたレースの不可解な点だよ。気になって当時の詳細を調べた結果、出てきた追加情報も込みだ」

 それから昨日のうちにまとめておいたメモを表示させ、読みあげる。

「一 勝ったのは七番人気。不正で関係者に利益を提供するならより人気が高く好走の期待できる馬が他におり、いくら下位人気の方がオッズが高いといっても不確定要素が強いこと。

 二 意図的に負けたとされるクロダモノノフも四番人気。人気通りに決まっても馬券には絡まなかった。買収して敗退させるなら一番人気か二番人気の方が妥当であること。

 三 該当のレースは波乱が起きやすい短距離戦であり、そのうえ十六頭立てと波乱の予想される条件が揃っていた。仮に一、二番人気が負けても、下位人気が展開を利して突っ込んでくる恐れがあったこと。

 四 勝ち馬のマイティガーベラは牝馬だが、レースが行われたのは二月。発情期(フケ)で気性面が不安定になりやすく、牡馬と比べて力を発揮しにくい季節だった。昔は今ほど獣医学が進んでおらず、より大きなハンデになっていたこと。

 俺があれを八百長じゃなかったと考える根拠は今のところこの四つだ。もちろん状況証拠でしかないんだけど、こんなにたくさんあるのは怪しくないか?」

 高井はまだテーブルの一点を見つめている。迂遠なやり方だと思っているのだろうか。それとも決定打がないのに頼りなさを感じているのだろうか。

 俺が出方を窺っていると、高井が頷いた。

「分かりました」

 やった。ひとまず協力は取りつけられた。

「僕からもお願いします」

「こちらこそ」

 それから俺と高井──いや、高井くんはほとんど同時に右手を差しだし、どちらが何を言うでもなく握手を交わす。ふだん手綱を握っている掌は皮膚が分厚く、騎手である以上は当たり前だと思いながらも、見た目にそぐわぬ力強さに改めて驚かされた。

 何はともあれ、今日をもって一つの目標のために共闘する仲間となったわけだ。正直なところ〈文田事件〉で実際に八百長が行われていた場合、高井くんが本当に不正に手を染めていて噂をもみ消そうとしている、言ってみれば被害者ポジションを装っている可能性も否定はしきれないのだが、一発逆転の特ダネに賭けているこちらは一時的にでも信じるのみだ。もし疑わしい部分があれば様子を見て判断すればいい。俺は数秒経って手を放したあと、目の前で発せられた問いにも答えてみせる。

「ところで大賀さん、あの事件について調べようとしているのはさっき言ってた理由だけですか? 他に何かあるような気がするんですが」

「勘がいいね。ま、本音を言うと現役騎手の八百長云々を追求するより、競馬史に残る事件の真相を調べて定説をひっくり返す方が面白いと思ったんだ」

「そういうことでしたか」

 本心を隠すのはフェアではない、との姿勢を示したのが好印象だったようだ。高井くんが明るく笑うのを見、今度は俺から質問を返してみる。

「それにこっちも訊いておきたくてね。高井くんにとって俺は知らない相手じゃないけど、あくまで記者だ。言うなれば日常的に新しい情報をハイエナみたいに嗅ぎまわる質の職業に就いてる人間なんだぜ。三面記事のネタになりそうな噂でもだ。もし悪意があったら、あることないこと書かれるかも知れない。なのにこの話に乗ってくれた。どうしてだい?」

 これも単純に頭にあった疑問だ。記者という職業のもつ性質上、適度な距離を保って接する必要はあるにしても、簡単に気を許すのは危険だと分かっているはず。自身が損害を被った経験の有無にかかわらず、似たような忠告は誰かしらかにはされているはずなのだ。高井くんもその点は例外ではないらしい。

「さっきはちょっとだけそんな風に記事にされるんじゃないかと警戒してましたけど、ここに来る前からそのときは仕方ないと覚悟していました」

 リスクは織り込み済みか。予想どおりといったん納得しかけるも、続けざまに意外な理由が出る。

「ですが、今日ここに来る前からたぶん大丈夫だろうって考えてました。大賀さん、一か月前の薬物混入騒ぎのとき、記事を後回しにして岩園厩舎に内々の情報を報せにいったんですよね。あのあとうちのところにも話が来て、飼料をやらずに済んだんです。だから悪い人じゃないはずだって信用することにしました」

「なるほど。ま、その信頼を裏切らないようにしよう」

 俺はそれを聞いて単純に嬉しかった。感情こそ表には出さなかったが、人助けだって無駄じゃない、どうだ何か言ってみろと編集長をほんの少しだけ見返した気分になれた。

 とっても、これしきで満足などしていられない。あいつの度肝を抜けるかどうかは、今後の俺たちの行動にかかっている。頭を切りかえ、すっかり薄くなった手元のアイスコーヒーで喉の渇きを潤してから話を次に移した。

「さて、お互い腹の内が分かったところで具体的な作戦を立てよう。高井くん、〈文田事件〉を探るにあたってどうするか考えはあるかな?」

「えっと、すみません。今の今ですぐには、何とも……」

 俺は念のため訊いておこうとしただけだ。ただどうやら申し訳ない気持ちにさせてしまったようで、高井くんは少し下を向いて頭を掻いている。

「謝らなくていいよ。方針を決めたのはこっちだし、一応の案は用意してある。でも俺ひとりじゃどうにもできない部分があるから、そのあたりを中心に高井くんの力を借りたいんだ」

 ジェスチャーで顔を上げるよう促すと、すぐにこちらの意図を汲んでくれた。肩の力が抜けたのか、グラスを持ちあげて幾らか中身を飲む。俺はそれを待って口を開いた。

「まあ、策と呼べるほど大層なものじゃないかもね。だって関係者に話を訊くだけなんだから。俺の方では過去うちの社で取材した中に該当する人物がいないか探してみるつもりだよ。あと検察に行って取り調べの記録を見せてもらったりとか。で、俺が困ってるのは厩舎関係者なんだ。文田騎手が所属してた有村厩舎は事件の二年後に解散してるし、同じ時期にそこにいたのが誰なのかウェブ上にも大した情報が残っていない。連絡先なんかも含めて調べるのにいい方法はないかな?」

 そこから先の当てがないのが、現在の懸案事項だ。本来なら他にも腹案を練っておくべきだと分かっていながら、時間も余裕もないためにその部分で壁にぶち当たっていた。

 高井くんはしばらく腕を組み、顎を引いて目を薄く伏せている。先ほどよりは望みがありそうな反応ではあった。何か思いあたる節があればと期待していると、テーブルの向かい側で固く結ばれていた唇がぱっと開かれる。

「たしか古い名簿のようなものがあった気がします。引退騎手、何とかみたいな冊子が」

「どこにあった?」

 自然と俺の声は大きくなっていた。

「トレセン地下の部外者立ち入り禁止スペースにある、ほとんど人の出入りしない狭い資料室というか、書庫みたいな部屋に置いてありました。でもあそこに行ったのは僕が厩舎に入ったばかりの頃ですし、見たのは冊子の背表紙だけですし。名前だけじゃどうしようもありませんよね」

 対照的に高井くんは徐々に自信をなくし、徐々に呟き同然のぼそぼそとした喋りに変わっていく。俺はそれを最後まで言い終える前に遮っていた。

「そんなことはない。ぜひ中身を確かめてみてくれ。昔は今より個人情報の取りあつかいが緩くて、学校の卒業アルバムなんかには堂々と電話番号が載ってたらしい。だからその冊子に個人の連絡先が掲載されてても全然おかしくない」

 以前に昭和や平成初期の話を野山さんから聞いただけだが、可能性は十分にある。

「知りませんでした。であれば、明日にでも調べてみます」

「俺は再来週にならないとトレセンには行けないし、そもそも勝手に入ったらまずそうな場所のようだから高井くんの方で頼む。あと進捗状況も教えてほしい。誰かとコンタクトが取れるのであれば予定を合わせる必要がある」

 高井くんの大きな頷きに、俺は希望を見出していた。まずは事件の真相解明に繋がるはじめの一歩を踏みだすことができた。これで明日以降の仕事にも耐えられる。そう思うだけで力が漲ってくる。

 ふと壁に目をやれば、時計の針は六時を指していた。

「もうこんな時間だ。何か食べていかないか」

 何とはなしに訊いてみると、すぐさま答えが返ってきた。

「僕もお腹が減りました」

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