四 事件 ①
休み明けにオフィスへ出勤した二日目の昼前、俺は席を立ってフロア最奥部へ歩いていき、革製の立派な椅子に鎮座する編集長の前で足を止めた。
「編集長、少しお時間よろしいでしょうか」
本社はほとんどの時期、時間帯で皆いろいろとバタついており常態的に忙しい。特に競馬担当は今日のような木曜午後になると、週末に出走馬や枠番が決まるためいっそう慌ただしくなる。その前の、ほんの少し仕事が落ち着いたこのタイミングで確かめておきたかった。
「何だ?」
「先週、お送りしたメールですが、お読みいただけましたでしょうか」
内容は先週に菅沼と月川から聞いた、高井が八百長をしている旨の噂についてである。あれは禁止薬物混入などというレベルの話ではない。配信動画などで中央競馬と関わりのない個人が見解を述べているだけならまだしも、すでに中央競馬の現役騎手二人の耳に入っている。もし本当ならかなりのスクープだ。少なくとも本紙から第一報を出せれば注目も集まると考え、あのあとすぐ編集長にメールで報告しておいたのだ。
なのに今の今までまったく反応がない。おかげで先週トレセンにいる間、周囲への影響を踏まえて独断専行を控えていたこともあり、あれ以上の取材はできないでいる。まあ、レース前後となる先週金曜から月曜にかけては仕方ないとしても、その後俺がこちらに出てきて一半日経つのになしのつぶてはどうもおかしいと感じていた。要は痺れを切らしていたのである。
ところが編集長の反応は淡泊なものだった。
「ああ。読んだが、放っておいていい」
パソコンの画面を覗きこんでいたギョロ目を、分厚いメガネ越しにちょっとだけこちらへ向けてすぐ元に戻してしまう。
「真偽を確かめる暇がない」
特ダネを拾ってこいと言ったくせに、ひどく素っ気ないあしらい方だ。こんな気分屋を翻意させるのは至難の業だと理解しつつも、俺は反射的に食いさがっていた。
「それを調べるのが我々の仕事だと思いますが」
すると編集長は鋭い眼光でこちらを睨みつけ、黄ばんだ歯の隙間から威嚇さながらの唸り声を発する。
「仕事かどうかはあたしが決める。だいたいあの噂がホントかウソかなんてどうやって探るつもりなんだ? 八百長やってる奴が素直に認めるとでも思ってるのか? あと〈文田事件〉だったか、仮に何十年も前の事件を掘り起こしたって興味をもつ奴なんざほとんどいない。労力を費やす価値があるかないかくらい少しは考えろ。そんなのはどこかの気取ったライターに任せときゃいいんだ」
俺はさすがにこれ以上の抵抗は無駄だと覚り、踵を返して自分の席に引きさがった。
とはいえ怒りは収まらず、むしろ数秒と経たないうちに大きくなっていく。喉が違和感を覚え、気道の奥から咳がせり上がってきたのだ。
編集長は建物の中でこそ控えてはいるが、事あるごとに外へ出てはタバコを吸っているため全身から絶え間なくニコチンの臭いを発散している。くわえて俺が喘息持ちなのを知っているにもかかわらず、何のケアも遠慮もなくタバコ臭い息を直接浴びせかけてくるのである。また長年にわたり関西支社で今の同じトレセン回りをしていたキャリアがそうさせるのだろう、三年前こちらに赴任して以来絶えず競馬に関してのみやたら細かい指示を出しつづけており、下の人間がたびたび身体に変調をきたすほどのストレスをそこかしこにまき散らしている。ともかく俺は口元に手を当てながら、編集長との相性の悪さを改めて実感していた。
そのせいで、野山さんが心配して声をかけてくれるのにも素直に従えない。
「大賀くん、なにムチャしてるんだ。ああいうときは大人しく従っといた方がいい。分かってるだろ?」
「はあ、ですが」
野山さんは再雇用枠で俺と同じ係に籍を置いている、歳は編集長より上の社内最古参の記者だ。俺とは一緒に管理職連中への不満を漏らす仲でありながら、当人の前では他の記者以上に卑屈なまでの低姿勢を貫いている。立場上逆らえないのを覚りきっているとしても、面従腹背が過ぎるのではないか。たまには骨のあるところ見せてくれてもいいのではないか、と俺は口にしかけた。だがこの場で援護射撃を要望するのはお門違いだとすぐ思いなおし、頭を下げる。
「いえ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「そこまで謝られるほどじゃない。アレは今に始まったことでもないしな……おっと」
そこで昼休憩のチャイムが鳴り、フロアの半分程度が席を立った。野山さんも適当に話を纏めて外に出ていく。
「もうこんな時間か。じゃあ俺、行ってくるから」
話をする相手もいなくなった俺は、椅子に座ったままデスクの端へ寄せておいたビニール袋に手を伸ばし食事に入る。中身は安い弁当セットだ。ビニールの包装を剥がし、プラスチックの容器を開けて唐揚げとおにぎりを頬張る。どちらも調理から時間が経っているために前者は衣がひどく湿気り、後者は海苔がしなびているうえ米が半ば潰れていた。
別段、今日だけこんな昼飯を掴まされたわけではない。本社勤務の際はほぼ毎日、通り道にある同じ弁当屋で同じ商品を買っている。良くも悪くも普段どおりだ。
しかし苛立ちがそれらの侘しさをよりはっきりと感じさせる。さらには編集長が厄介払いを済ませたかのように機嫌を持ちなおし、俺よりはるかに高い給料を惜しげもなく使い、明らかに値の張る豪華なランチを出前で受けとる姿を見て余計に腹が立った。
あんなヤツの言うことに従っていられるか!
俺はこのとき、編集長の指示とは反対の行動を取ってやろうと心に決めた。かくなる上は例の噂を追及してやる。あいつが何を言おうが勝手に個人で動いてやる。水筒の麦茶で喉にへばりつく米粒を流しこむや、湧きあがる憤怒を叩きつけるように自前のタブレットを取りだしあらかじめ自宅で始めていた調査の再確認をすることにした。
まずはインターネットブラウザを立ちあげ、件の噂に関連しそうな「高井光」「八百長」「文田猛志」とそれらしいキーワードを打ちこむ。候補に上がってきたのは個別の単語とその一部が含まれる記事のみで、高井と八百長を結びつけるものは皆無だ。まだ噂はウェブ上で騒がれる段階にはなく、本当に水面下の状態であると推測できる。そもそもここで何らかのページが引っ掛かってくるようであれば、記事にする価値はない。
次は別のアプリを立ちあげ、文田猛志について俺なりに整理したメモを眺めてみる。一九三九年十一月八日、新潟県長岡市生まれ。所属はデビューから引退まで今の括りでいう関東の有村厩舎。今日のGⅠ競走に相当するレースは菊花賞を二勝、ほか皐月賞、桜花賞、オークスを一勝している一流騎手だ。
分かっているのはここまで。当人の活躍年代が古く通常とは異なる形で競馬界を去っていることから、どの資料を当たってもそれ以上の詳細な情報は残されておらず、消息は一切不明ときている。出身地を見ても孫に当たるという高井との接点があるようには思えない。
俺は小さく息をつきつつ別のメモに目を通す。過去に問題となった八百長〈文田事件〉のあらましだ。こちらはすでに多くの人間に知れ渡っている事件だけに、幾つかのサイトで紹介されている。文言等に多少の違いはあるにせよ、どれも経緯は以下のようなものだった。
・一九七〇年、二月に行われた東京競馬場ダート一一〇〇メートルの古馬混合オープン戦、梅見月特別で文田猛志が騎乗した七番人気の牝馬マイティガーベラが優勝
・結果は全馬十六頭が入線順のとおりにすぐ確定した。その場では誰からも疑義は発せられなかった
・しかし約三か月後の五月上旬、まったくの別件で拘留されていたM山会系Y村組の暴力団員が当該競走は八百長である旨を供述
・その内容は文田猛志が自身と共謀し、四番人気だったクロダモノノフの鞍上である真木豊吉を脅迫して六着に敗退させたというもの
・警察は競馬法違反の容疑で文田を逮捕、本人も程なくこれを認めたため起訴。同年十月に有罪が確定、懲役一年、執行猶予二年の判決が下る
・文田は競馬界追放の処分を受ける
・なお事件発覚後に識者の間で議論が交わされたが、ほとんどの競馬評論家が同競走は八百長のようには見えないとコメントした
自分でまとめた箇条書きの文字を追い、五分ばかり頭の中で試行錯誤していると、おそらくレース展開以外の部分にも当時の評論家が指摘したであろう奇妙な点があるのに気づく。しかも一つだけではなく二つ、三つ……。事件から半世紀以上経ってかなりの情報が失われているというのに、なけなしの断片的な要素だけでこうもたやすく違和感のある箇所が見つかるのはおかしい。
そこまで考えた俺の目に、手にしたタブレットにあるニュース記事が映った。
「浜川実夫さん 再審無罪の顛末を語る」
彼の名前は今や多くの人が知っている。プロレスラーとして活躍していた青年期の真っ最中に殺人事件の容疑者として逮捕され、いったんは最高裁で死刑判決が下ったが、のちに親族や弁護士の訴えによって警察の違法捜査が明るみになり、四十年以上の収監を経て最終的に無罪を勝ちとった人物である。以降、特に人権の保護が叫ばれ、警察の強引な取り調べなどによる冤罪事件が社会問題としてたびたび取りあげられるようになった。
もしかすると、これと似たようなことが文田にも当てはまる可能性があるのではないか。騎手として日本ダービーと天皇賞、有馬記念には手が届かなかった点を考慮に入れても、今のように厩舎を離れて馬を自由には選べなかった当時にクラシック競走で五勝を挙げた実績の持ち主は、本来であれば正の評価をもって競馬史に名を残すべき存在だ。死刑による生命の危機に晒されたわけではないにせよ、それがもし冤罪によって表舞台から消されたのだとしたら大問題なのではないか。
また仮に高井が文田の孫だとすれば、司法の下で裁かれたか否かの違いこそあれど両者とも事実と異なる噂、風評被害──いわば社会的冤罪──に苦しめられていることになる。実に奇妙な合致であり、世間の耳目を集めるには十分。俺が攻めるならまさにここだ。
ただ、その先へ進むための手がかりがない。たとえば昔の厩舎関係者とコンタクトを取るにしても、連絡先はおろか文田と接点のあった人物が誰なのかさえ分からないのである。それ以前に高井と文田の血縁関係からして、両者の親戚でもない人間がその真偽を確かめるのは不可能だ。
ならばと思案し、今度はスマホを手に取ってアドレス帳を開いてみる。美浦にいる大方の騎手は電話番号とメールアドレスを登録済みだ。高井もそのうちの一人で、これまで何度も顔を合わせている。問題は話を聞かせてくれるかどうか。
俺は不安を抱きつつ、右手の親指をスマホのモニターに当ててタップした。
よろしければ評価や感想、ブックマークをお願いいたします。




