三 競争 ①
午前の調教を終えた僕は、スタンドの休憩室で紅茶を飲んでいた。普段なら昼食前にリラックスできるはずの時間がどうにも息苦しい。エフタリテスの降板が決まってからというもの、少しでも早く噂の真否を確かめたい気持ちが日に日に強まっているというのに身動きがとれないせいだ。中央競馬の騎手は火曜から金曜がトレセンでの調教や日常業務、土曜から日曜夕方までは競馬場に入り浸りとなり、レースを前日に控えた今日などは調整ルームへの入室時刻が決まっていることもあって自動的に行動が制限されるため、現時点で済んでいるのは実家の母への「週に一日だけの休みである今度の月曜日に帰省するので、父と祖母の相続手続きをした際に使った戸籍の写し等を用意してほしい」との連絡だけ。したがって僕は悶々とした時間を過ごさざるを得ない。
くわえて、先ほど児玉先生の指示があったのだ。
「しばらくエフタリテスと会うのは控えてくれ。世話も他の誰かに替える」
のみならず、続けてそれを念押しするような通告まで受けたのである。
「というのも新しい鞍上が決まってね。香港から来ているクルーガーだ。エフタリテスにも早く慣れてもらいたいんだ。出来れば続けて乗れる日本の騎手がよかったんだが、他に選択肢がなかった。乗り替わりを経験させられると考えれば悪くはない」
「分かりました」
僕は唇を噛んで短く返事をし、先生のもとを失礼した足でこの休憩室に向かい、椅子に座ってすぐスマホを手に取った。ジョン・クルーガー。知っているのは名前と大体の経歴だけで、他は何となくぼんやりとした情報が頭にあるくらい。そこでどんな騎手かを改めて把握しておきたかったのだ。
現在三十二歳、南アフリカ出身。母国でリーディングジョッキーを獲得したあと香港に移籍し、以降も安定した成績を収めている。昨期の香港リーディングは三位で、キャリア通算のGⅠ勝利数は八。香港のオフシーズンに当たる現在、先月から来月八月にかけての短期免許を取得し中央競馬で騎乗中。すでに日本で七勝を挙げており、勝率は十二%超。初来日にもかかわらず優秀な数字を叩きだしている。
当地のレース映像を確認してみても、腕の確かさが窺えた。追いこみの届きにくい平坦コースの不利も何のその、ごちゃついた馬群を掻きわけて脚を伸ばし、ゴール前で二着馬を差しきっている。他の競走でも似たような展開が多く、とりわけ四肢を大きく動かして馬を前に進ませるダイナミックなフォームが目立つ。アジアのみならず世界でも屈指の盛況を誇り、騎手による争いも熾烈な香港で上位に入るのも納得できる剛腕の持ち主だ。
たしかにこのクルーガーなら、ある程度は信頼できる。ランクが下の日本人騎手に任せるよりは遥かにいい。次走は来月二週目の函館、第十レース横津岳特別。芝の二六〇〇メートルとエフタリテスにとって歓迎すべき距離だ。洋芝と呼ばれる他より力が要求される馬場も、雨の降る確率が低い分大きなマイナスにはなりにくい。前四走と違い、四歳以上のキャリア豊富な完成度の高い馬が混じるとはいえ条件は二勝クラス。三勝以上している馬の出走はない。総合的な能力では頭ひとつ抜けているはず。レース間隔も中五週と、調子を整えるには十分だ。
ただし、懸念もあった。筋力が未発達な状態にあるエフタリテスは、少なくとも今の時点では傍で見るより操縦が難しい。仕掛けの合図には素直に反応してくれるものの、スピードの最大値が足りず末脚勝負ではまず後れを取る。加速に関しても現状では明確な弱点となっており、他馬が全速力を出していない序盤の位置取りはともかく、周囲が直線入口あたりで一気にペースアップする流れに従うと置いていかれてしまうのだ。現に新馬戦はそこで差をつけられ敗北を喫した。以降、僕がレースで早いうちに二、三番手のポジションを確保して後続より先にスパートを始めるようにしているのには、進路を塞がれるなどの不利を避けて自分から有利な展開に持ちこむ狙いがある。前走あそこまでの楽勝になったのも、長所を活かしつつうまく短所を隠せた部分が大きい。もしあのときゴーサインを出すのが遅れていたら、勝ちは揺るがないにせよ着差は相当に縮まっていただろう。
当然、だからといってひたすら仕掛けを早めればいいというわけではない。持久力が強みのエフタリテスにも限界があるため、どの距離をどれくらいのペースで走ればどこまで末脚を伸ばせるかの判断が求められる。また前半で好位を取るには、できるだけいいスタートを決めたい。エフタリテスの呼吸を掴んでいる僕ならそれら全てをクリアして次走も勝たせられる自信があるが、果たしてクルーガーはどうか。調教に来た際に必要な情報はあらかじめ伝えておくとしても、馬を手中に収めるのに今からのコンタクトで間に合うのか。期間はたった一か月強しかない。
一般にレベルが高いと言われる香港は短距離戦が中心で、最も距離の長いレースでも二四〇〇メートル。母国の南アフリカも中距離以下のレースが大半を占めており、日本で挙げている七勝も、そのうち一勝が二〇〇〇メートルで後は全て一六〇〇以下だ。したがって長距離で道中折り合い、無駄な体力の消耗を避けて力を溜める作業に長けているとは考えにくい。そもそもの騎乗数と長距離レースの施行数が少ない点を考慮に入れても不安は残る。
何より次走の結果で、今後の調整に天と地ほどの差が出てしまう。勝てば賞金面で菊花賞への出走は確実となり、大抵は秋一走目の叩きに使うトライアルレースをスキップする余裕すら生まれる。実際には長距離の大一番を走るのにぶっつけで臨む可能性は低いとしても、本番だけに絞って調子を上向かせればよい状態に持ちこめるのだ。逆に負ければ賞金の上乗せができず、菊花賞に駒を進めるには秋のトライアルで三着以内に入っての優先出走権獲得が必要になり、自ずとそこで一定以上の負担を強いられる。エフタリテスは乗り手の指示に従順なあまり真面目に走らせすぎると疲労が溜まりやすい傾向にあり、下手な騎乗で無理をさせようものなら体調を崩しかねない。コンディションの維持が怪しくなる。
それにいずれかの条件を満たして出走に漕ぎつけたとしも、本番で満足のいく成績を残すのは容易ではない。なぜなら春クラシックの勝ち馬二頭が不在といっても、相手はいるからだ。
たとえば、と頭に浮かべようとしたとき不意に名前を呼ばれた。
「おっ、高井じゃないか」
声をかけてきたのは菅沼で、後ろの三畑とともに僕と同じテーブルに腰かける。ひと呼吸遅れて後輩騎手の月川敬誠も逆隣の椅子に座った。この時間はどの騎手もひと仕事を終えて自由になる。トレセンをぶらついているところで出くわし、ここで一緒に休憩という流れになったのだろう。三人でだいぶ盛りあがっていた。
「だから菊に行けるんじゃないかと思ってな。こんなに秋が待ち遠しいのは初めてだ」
しかも口ぶりから察するに、菅沼には菊花賞を期待できる騎乗馬がいるらしい。名前を聞き逃してしまい、記憶を辿っても思いあたる節はなかったが、よほど入れ込んでいるものと見える。さっそく他の二人に自慢を兼ねた質問をはじめていた。
「お前たちはどうだ? 菊には出られそうか?」
「現時点では難しそうです。去年、初めて乗りましたけど」
先に答えたのはこの中で齢がいちばん下の月川。優れたセンスと積極的な営業で成績を伸ばしており、GⅠもクラシックも僕より早く経験している。二年連続でのチャレンジが望めないのは、単純に巡りあわせだろう。
かたや僕と同期の三畑は違うようだ。
「挑戦するとしたらハヤバシリになるかと。今のところ菊に行く予定のようですので。ただ距離の問題がありますから、トライアルの前に断念するかも知れませんけれども」
ハヤバシリは調教で何度も目にしている。今春までのGⅡで二度とも人気薄ながら二着に入り、皐月賞は八番人気で九着、ダービーが九番人気で十二着だった馬だ。本番での着順こそ人気を下回る結果に終わったとはいえ、鞍上がミスを犯したわけではない。むしろ三畑が手綱を取ってようやく本番への出走に漕ぎつけた経緯を勘案すると、続投は妥当といえる。元より期待薄で菊花賞に向かうのは、名誉心を重んじると聞くオーナーの強い意向なのかも知れない。
そのハヤバシリがエフタリテスを脅かす存在になるとは考えづらい。馬体と血統の両方で菊花賞は適性面の不安が大きいように思える。先ほど菅沼が言及していた馬も、今は大して騒がれていない。ここにいる四人はGⅠレースへの出走経験こそあれど優勝はしておらず、昨年のリーディング順位に単純に照らしあわせてもクラシックに乗れるか否かの当落線上にある。僕は自分以外の二人が菊花賞へ挑戦できることを羨みつつも、両者をそこまで強くは警戒していなかった。
しかし三畑を慰めるように月川が口にした馬は話が別だ。
「三畑先輩、何に乗ったって簡単じゃありませんよ。コルドロンスヴォーがいますからね」
コルドロンスヴォー。現時点で多くが菊花賞の本命と見なしている実力馬である。通算成績は五戦三勝、敗戦はどちらも三着に終わった皐月賞とダービーのみとここまで抜群の安定感を発揮している。ただ二歳で無敗のままGⅠホープフルステークスを制し、一部では三冠馬誕生かとの声もあっただけに春の結果は不満なのか、陣営は早々に菊花賞参戦を名言していた。完成度はエフタリテスより格段に上で、父が春クラシック二冠馬のデュランズメイト、母がオーストラリアのオークス馬プリンセスオード、その父がニュージーランド産馬ながら欧州遠征でも稀有な成功を収めたソーユートークと、長距離適性も同世代が相手なら割引材料にならない程度には備えている。
それだけではない。鞍上が超一流なのだ。その人物の名前を、三畑が呟く。
「そうだね。葛城さんが乗ってるから、まず崩れないだろうし」
葛城一は、国内で五本の指に入るトップジョッキーの一人だ。現在は厩舎に所属しないフリーの立場で数多のタイトルを獲得している優れた実績の持ち主であり、ほぼ全ての騎手にとって憧れの存在にもかかわらず、以前は児玉先生と同厩舎の弟弟子だったことから僕に何かと声をかけてくれる優しい先輩でもあった。むろんレースでの厳しさは肌身で感じている。これまでもキャリアに裏打ちされた力の違いを幾度となく見せつけられてきた相手だ。
だからこそ確信している。コルドロンスヴォーと葛城さんが、エフタリテスが菊花賞を制するにあたって最大の障壁だ。人馬ともに隙がない。果たして勝てるのか。
そう思案していると不意打ちを食らった。菅沼が話を振ってきたのである。
「そう言えば、高井は秋は……悪い悪い、エフタリテスは交替だったな」
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