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冤罪  作者: 新宮義騎
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二 取材 ①

 青空の下で太陽の光が燦々と降りそそぐ。視界に入るのはどれも簡素な小屋の尺を大幅に広げたような建物。別の方に目を向ければ何頭かの馬が人を乗せて歩いている。辺りに漂うのは馬糞(ボロ)の臭い。実に馴染みのある光景だ。

 俺、大賀慶介は〈スポーツ東都〉に勤務して八年目の競馬記者だ。当番が回ってきた今週は近くの寮に泊まりこみ、ここ茨城県美浦村にある中央競馬のトレーニングセンターで取材をしている。

 周りに同業者の姿はない。三歳馬の頂点を決める日本ダービーは三日前に終わっている。暦の上では有馬記念がその年の総決算であり、上半期に関しても来月の宝塚記念をもって終了とするのが一般的な感覚だが、次の土曜を皮切りに二歳馬が続々とデビューを始めるという点ではひと区切りがついたという見方もできる。

 だからといってまったく暇なわけではない。今日、水曜と明日の木曜は週末のレースに向けての最終追い切りが行われる。記者には調教の様子を観察し、タイムを測り、皮膚の張りや体毛のツヤから出走馬のコンディションを確認する仕事がある。とりわけ二歳新馬戦の直前ともなればその重要度は増す。

 ただ、それら本格的な調教は午前で終わっている。午後は行われない。今の時間帯に厩務員が馬を歩かせているのは乗り運動と呼ばれる軽いトレーニング兼健康チェックだ。その間、記者は厩舎を回っての取材に勤しむのだが、おそらくそれも俺だけ予想外に早く済んでしまった。

 こんな時、大抵はトレセン内の記者室に戻って原稿を書く。人によっては勝手に仕事を切りあげて遊びにいってしまうかも知れない。調教は早朝から行われるため、仮眠をとる者もいるだろう。

 ではなぜ俺がトレセンの敷地をぶらついているか。理由は、ちょうど手を振りながら小走りにやってきた年配の男性と関係がある。

「大賀さん、やっぱりそこでしたか」

 この白髪頭に黒く灼けた肌の持ち主は岩園厩舎の千歳さん。俺がここに出入りするようになった当初から何かとよくしてくれている、定年も近い古株の厩務員だ。いつもにこやかで、表情を見るに今日は一段と機嫌がいい。

「昨日、近場まで足を伸ばしましたので。これ、どうぞ」

 しかも出合い頭に何やら袋を渡してきた。中を覗いてみると、和菓子が入っている。多分かなりの高級品だ。

「悪いですよ」

「いやいや、受け取って貰わなきゃ困ります。お礼するの自体、遅れちゃったわけですし。あのとき、いちばん最初にウチの厩舎に来てくれたんですから」

「まあ、そうではありますけど」

 千歳さんが言うあのときのお礼というのは、およそ一か月前の一件だ。俺がこちらにいるちょうど今くらいの時刻に、そこそこ仲のいい記者仲間からある前情報を聞いたのが発端だった。

「おい、ビッグニュースが来そうだぞ。馬用の飼料から禁止薬物が検出されたらしい」

 人間のアスリートと同じく、競走馬もドーピングはご法度だ。運営によって対象の物質は指定されており、レースで三着までに入った馬は検査を受けて陽性だった場合は失格、期間を定めての出走禁止とするなど種々の罰則が設けられている。

「何だって? どれだ」

「秋津製薬が製造したブラウンニアだよ」

「大手じゃないか。対象の薬物は何だ?」

 過去にあった薬物による失格はいずれも事件性がなく、処分が下されたのもせいぜい数頭という例がほとんどだ。影響が数十頭の規模に及ぶトラブルは非常に珍しい。何件かは過去に起こっていたとしても、数は片手で足りる程度しかないのではないか。

「アルプレノロールってやつが引っかかったんだってさ」

「どうして分かった?」

「運営の検査だよ。本来なら出荷前にやるはずなんだが、どういうわけかそれが遅れた。で、秋津製薬がここと栗東の売店に急遽連絡。売店で販売中止の張り紙出してたのを見てどっかの記者が質問したんだとよ。もう一回、検査してから正式に発表するみたいだ」

 中央競馬は農水省の外郭団体が運営していることもあって全般にお役所体質が目立ち、融通が利かない反面ところどころに杜撰な部分が散見される。そのためこれまでも何度か大ポカをやらかしているのだ。

 あり得る話だと思った俺は仲間と一緒にやや早足で記者室まで戻り、記事の準備に取りかかった。まずは飼料から検出されたのがどんな薬物かを詳しく把握しなければならない。俺はさっそくノートパソコンで検索サイトにキーワードを打ちこみ、表示された候補のうちの一つをクリックする。

 アルプレノロール。心拍数や血流量を抑える効用との説明があり、次に開いた製薬会社のホームページでも該当の商品が紹介されているのが確認できた。飼料はカイバに混ぜる一般的なもので、形状も茶褐色のごくありきたりな円筒形だ。

 だがパッケージ画像に目をやると、妙な引っ掛かりを覚えた。袋の上方で左右に走る茶色の帯に白抜きで商品名が記載され、その下に馬のイラストが描かれている。

 最近、どこかで見たな。

 記憶の残り具合がたかだかその程度ならやっぱりどこかの厩舎が使ってるんだ、騒ぎが大きくなりそうだくらいに考えを軽く流し、記事の下書きに入っていただろう。

 ところが思い出してしまったのである。前の週に岩園厩舎を取材した際、千歳さんが馬房にかけられたカイ桶との違いを強調するように足元を指さした。

「体調に合わせて、他のやつを混ぜることもあるんです。ああ、例えばこれとか」

「いつもは使わないんですか?」

「まだ必要ないですね。使うとしたら来週あたりでしょうか。誰かが間違って持ってきたんだ。しまっておかないと」

 そこに置かれていたのが、モニターに映っているのと同じ袋だった。

 禁止薬物検出の情報が流れたその日は水曜。出馬投票──調教師による出走申請──が行われるのは明日木曜でも、検査対象となる馬の頭数が多かった場合、結果が出るのがそれまでに間に合わない恐れがある。時刻はまだ午後三時過ぎ。夕方、馬にカイバをやるのはどこの厩舎もだいたい四時だ。

 俺はかねてから千歳さんに恩義を感じていた。というのもどうやらあの柔らかい物腰の割に仕事には頑固で、岩園調教師とはしばしば意見が合わずときには議論にもなるといい、以前に二度ほど厩舎の公式見解が出たあといち厩務員としての所見を述べてくれたことがあったのだ。

「先生はああ言ってますけど、私はそうは思わないんですよね」

 言うなれば最も間近で馬と接している人物の極秘情報である。重要視すべきだと判断した俺はその所見を予想に反映、いずれも馬券を的中させた。おかげで同僚や読者の評価も高まった。

 今なら間に合う。俺はスマホを手にとって岩園厩舎への連絡を試みた。しかしスピーカーが発するのは呼び出し音のみ、電話は不通。ならば直接行くしかない。俺は椅子を蹴って立ちあがり、厩舎に辿りつくなり居合わせた人に向かって現段階での話を伝えた。

「大変です。いま内々で情報が入って……」

 すると本当に危惧していたとおり、何頭かにブラウンニアを与えようとしていたようだ。

「何だって! おい、急いで皆に伝えるんだ。早く!」

 岩園厩舎は慌ててそれを止め、他厩舎にも知らせて美浦での被害は比較的小規模で済んだ。一方で関西の栗東トレセンは注意が遅れ、商品を購入した厩舎の馬を検査したところ、陽性反応が出て三十頭余りが出走除外。該当薬物の量が規定値の境界線上で検出され、運営側が慎重に再テストを行ったことでアナウンスが遅れたのだという。翌日には全国紙でも報じられるニュースになった。

 千歳さんがここまで感謝してくれるのにはそうした経緯があるのだ。

「では、ありがたく頂きます」

 頭を下げて袋を受けとると、千歳さんは満足そうに元来た方へ歩いていく。その後ろ姿を眺める俺は、溜め息をついていた。

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