一 風聞 ②
僕は最初、何を言われたのかが分からなかった。
これまで先生から理不尽な扱いを受けた記憶は一つとしてない。まだ僕が新人の頃など理解の追いつかない部分があると見るや、非常に懇切丁寧に説明を繰りかえしてくれたし、騎乗馬を降ろされたときも全て成績不振、判断ミスなど原因がはっきりしていた。だからこそ僕は腐らずに今の仕事を続けられている。したがって先生にはただただ感謝と尊敬あるのみ。このときも他の内容なら一も二もなく首を縦に振っていただろう。
ただ、こればかりはすぐには納得できない。思いあたる理由が皆無なのだ。
僕の騎乗に問題はなかったはずだ。三日前のレースは完勝したのみならず、疲労を溜めないように最後は流した。ともに二着に終わったレースも初戦はエフタリテスが気負いすぎていたせいで末脚が伸びず、二戦目は未経験の重馬場に適応するのに手間取ったのが敗因だったことが判明しており、先生みずから双方の一着馬のパフォーマンスが上だったのを認めている。
「なぜですか」
気づくと、先生の方に身を乗り出していた。緊張で自分の声が涸れているのが分かる。
僕は今年でデビュー六年目。成績は毎年着々と伸びており、昨年は全国リーディング十六位とかなりの位置にまで上りつめている。当然、他の騎手同様にGⅠのタイトルは喉から手が出るほど欲しい。とりわけ去年、初挑戦したGⅠ高松宮記念でブービー、クラシックの一つであるオークスで下から八番目の十着に敗れて以来、上を目指したい気持ちはいっそう強くなっていた。一流と呼ばれる騎手はだいたい僕くらいの年齢にはGⅠ初戴冠を果たしており、うち少なからぬ数がその際に名馬に出会っている。エフタリテスが、僕がそうした飛躍を遂げる手助けをしてくれるのではないか。夢を叶えてくれる存在になるのではないかと期待していたのだ。
キャリアが長くはない僕でも、馬に乗れば能力の良し悪しや将来性はおよそ把握できる。その感覚に従えば、エフタリテスは並の馬ではない。アクシデントなく順調に成長した暁には、かなりの確率でGⅠ馬になる素質を秘めている。
エフタリテスは入厩前から中距離以上に適性を見いだされており、ローテーションの問題もあってデビューから三戦は二〇〇〇メートルを使ったが、より長い二四〇〇メートルとなった四戦目で過去一番と言えるパフォーマンスを披露した。僕はゴールした時点で三歳牡馬クラシックの最終戦である菊花賞を狙えるのではないかと考えていたのだ。血統面から見ても母の父こそやや短めの距離を得意としていた馬だが、父と先述のメトロマックイーン、母母父のマキノトップガンはいずれも菊花賞と古馬長距離王決定戦である春の天皇賞を制しており、舞台となる芝三〇〇〇メートルは年内に同世代を相手にするには絶好の条件だ。これは僕個人の思い込みではない。三日前も競馬場で何人かにそう言われたし、SNSでもファンが同じ意見を述べている。くわえて春のクラシックで一冠ずつを分け合った皐月賞馬が一昨日、ダービー馬が昨日、どちらも秋はより適性の高い距離を走れる古馬混合路線に進むと明言したばかり。初のGⅠ制覇を夢見るなという方が無理な話だろう。
しかし次には、先生の指示を嫌でも受け入れなければならないことが分かった。
「オーナーの、中林さんの意向だ」
競走馬をどうするか決めるのはオーナーだ。実際には使うレースは調教師と相談するケースが大半であり、騎手については他との兼ね合いもあるため全てが思いどおりになるわけではないものの、最終的な決定権はオーナーにある。
中林さんと顔を合わせたのは数回程度で詳しい人柄までは分からないが、若い頃に中央競馬の馬主に憧れ、地道な努力を重ねて一財を築き、長年の夢を叶えた苦労人と聞いている。競走馬の購入や維持管理には大変な財力が求められ、何十頭と抱えられるのはごく一握りの大富豪のみで小規模オーナーの方が圧倒的に多い。中林さんが常時保有しているのもたしか六、七頭。重賞勝ち馬はGⅢホース一頭だけだったはずだ。
そんな中で思わぬ素質馬を手に入れた。かなり早い時期に大器を見抜いていたのが馬名からも窺える。エフタリテスというのは、かつて中央アジアで栄えた遊牧国家エフタルのギリシャ語読みだ。どうでもいいと思っている馬にこのような名前は付けないだろう。現にそこそこの腕の騎手で様子を見てみると順調に勝ち星を重ね、重賞どころかGⅠ、クラシックまで視野に入ってきた。種牡馬になる可能性も出てきたのである。オーナーにとっては競走馬がレースで優勝するだけでも名誉なのに、さらなる栄誉、多額の賞金、それに付随する収入を得られるとなればより信用の置ける騎手を乗せたくもなる。
こうした例は競馬の世界では決して珍しくないどころか、過去幾度となく繰りかえされてきた。名馬と出会って高みに達した騎手も、少なからぬ数がその前に似たような形で涙を呑んだという。そうでなくても一度のチャンスで成功を掴めるとは限らない、と自らに言いきかせて頷いた。
「分かりました」
「そうか、分かってくれればありがたいのだが」
感情を大きく顔に出さないのはいつものことだ。先生の申し訳なさそうな気持ちは仕草と口ぶりで十分に伝わってきた。通告をどうにか受け入れた僕は立ちあがろうとするも、そこでまた呼びとめられる。
「待ってくれ。その中林さんから、高井に関する妙な噂を聞いた」
「どんな噂ですか?」
僕はいちど膝に込めた力を抜く。すると先生は眉に深く皺を寄せ、降板については前段でこれからが本題といった風に口を開いた。
「さっきの件は唐突な話だったから私も気になって、中林さんにどうしてエフタリテスの鞍上を替えるのか訊いてみたんだ。そこで返ってきたのが、何でも高井がたびたび八百長を請け負っているという噂がある、という話で……」
「えっ?」
僕は先生への遠慮も忘れて素で訊きかえしてしまった。降板は今しがたまで勝手に推測していたのとは違う理由で、おまけにそれがまったく身に覚えのない疑惑だという。単純に頭が追いつかなかった。
「あり得ません。僕が八百長なんて、どのレースだとお話をされていたのですか」
声を出すのに、確実に数秒かかった。その間、息も止まっていた気がする。とにかく濡れ衣を晴らすために根拠を確かめようとした。完全に事実無根の噂であり、具体的な答えなど返ってこないだろうと踏んだのだが、その甘い期待はすぐに覆された。
「今年になってはっきり断定できるものだけでも、三月八日の第三レースと今月十三日の第八レースなんだそうだ」
メチャクチャだ。あまりの荒唐無稽さに、今度はすぐに抗議の言葉を出すことができた。
「デタラメです。たしかにどちらも一番人気ですが」
予想外の敗戦は普通にある。全てのレースが人気どおりに決着したら、競馬は成り立たない。一番人気を常に勝たせるなど、どんな名手でも不可能だ。その域にはほど遠いレベルの騎手ともなれば言わずもがなである。どちらのレースも僕なりの最善を尽くして負けた。
「そう、敗因は明らかだ。三月八日は落鉄。今月の十三日は馬が直前に下痢。中林さんの話を聞いてレース映像を確認したが、高井のフォームも普段どおりだった。私は疑っていないよ」
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。率直な感想を述べただけのことだからね。ただ中林さんは別だ。噂を妄信はしていないにしても、かなり気にされていたようだった。高井を乗せないという意向は簡単には変わらないだろう。私もその場であり得ないと言ったんだけど、うまく説得できなかった」
それでも僕は頭を下げる。中林さんを翻意させられなかったといって恨むのは筋違いだ。先生が味方でいるだけでも幸運と言わなければならない。調教師がオーナーの機嫌を損ねようものなら、所有馬全頭を他の厩舎に移される恐れもあるのだ。先生の対応自体は最善に近かったとひとまず納得するも、次にはまたしても言葉を失うこととなる。
「というのも引っかかる部分があった。噂には続きがあって、中林さんによると八百長には仲介役がいる。そしてその仲介役は文田猛志で、高井の祖父なんだそうだ。高井、〈文田事件〉は知っているな?」
文田猛志の名前は騎手ならみな知っている。今から五十年以上前、クラシック競走を五勝した名手でありながら、八百長で後輩騎手を抱きこみ騎乗馬を意図的に敗退させたとされる人物だ。該当のレースが行われた少し後、別事件で逮捕された暴力団員が八百長を自供して問題の行為が発覚、文田には競馬界追放の処分が下され、現在これら一連の騒動は〈文田事件〉と呼ばれている。以降、中央競馬はさまざまな不正防止対策に着手し、最初に定めたのが今日にも続く「騎乗予定のある騎手が前日午後九時までに競馬場もしくはトレセンに設置された調整ルームへ入室しなければならない」という規則だ。よってこの事件は、競馬学校でも訓戒の意味を込めて必ず教えられるようになっている。
その文田猛志が僕の祖父? 訳が分からない。そもそも苗字が別だ。母の旧姓とも違っている。とはいえ僕には否定できない理由があった。
「はい……」
「高井は、たしか父方のお祖父さんについて何も知らなかったんじゃなかったか」
その通りだ。以前、お酒の席で先生に話をしたことがある。僕が競馬学校を卒業する直前に急死した父は、いわゆる母子家庭で育った。存命中の父曰く、生まれたときすでに離婚しており、祖母──父にとっては母──に訊いても不機嫌になるばかりで、どんな人物だったかはおろか名前すらいっさい語らなかったという。
「そうです。父方の祖母からも聞いていません」
もしかしたら僕も小さい頃に不思議がって同じ質問をしたかも知れないが覚えていない。少なくともある程度成長してからは触れてはいけない事柄だと察し、おそらく不幸な結婚だったのだろうと想像して口にするのを止めていた。しかし今にしてみれば、誰にも明かせない秘密があったためだったようにも思える。それも面と向かって問いただす術はない。祖母は十年前、父より四年早く亡くなった。
「私は高井の祖父が誰であろうと、八百長などしていないと信じている。だが中林さんに口から出まかせを言うわけにはいかなかった」
先生は瞼を伏せている。所属騎手を管理する調教師として難しい立場にあるのだ。僕も心苦しい。だとすればこの状況を変えなければならない。何より今しがた耳にした完全なデマでこんな仕打ちを受けるのは理不尽だ。そう胸の中で呟くや、次いで自然と声が出ていた。
「先生、僕の方でその疑惑を晴らしたいのですが」
「どうやってだ?」
「僕の祖父が誰なのかを調べてみます。多分、戸籍に書いてあるでしょう。結果、文田猛志でなければ噂は事実無根だと分かります」
「なるほど。であれば中林さんを納得させられる、か」
僕が八百長をしていない証拠がなければやっているはずだ、というのはいわゆる悪魔の証明だ。ないものを証明することはできない。だがそれを裏付ける血縁関係に関する部分なら話は違う。まったく別の人物が僕の祖父だと明示できれば、噂の根拠は大きく揺らぐ。少なくとも風聞に嘘が混じっていると主張できる。悪い考えではないと判断したのか、先生は顎に手を当ててから口を開いた。
「大した手間でもなさそうだ。やってみなさい。もしそうなら高井を降ろす理由がなくなる。そのときは私から中林さんに声をかけよう」
後押しが得られたとなれば心強い。エフタリテスに乗りつづけられる目が出てきただけで希望が持てる。戸籍に当たる程度でそれが適うなら実行に移さない手はない。
僕は一も二もなく頷いた。
「是非、お願いします」
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