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冤罪  作者: 新宮義騎
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一 風聞 ①

 視界の下方はグレーの扉で塞がっている。身体を覆うのはゴーグルにオレンジのヘルメット、青地に黒い縦線が三本入った勝負服とブーツ。右手には鞭、左手には馬のハミにかかる手綱。僕、高井光は今まさにレースに臨もうとしていた。蹄の地面を叩く音が左から順番に近づいて止まる。その後、数秒の静寂を経て一転、金属の擦れる大きな音とともにゲートが開いて緑のターフが眼前に広がった。

 同時に身体が馬ごと前方へ飛びだす。僕が跨っている濃い灰色の体毛に包まれたこの馬の名はエフタリテス。軽く首を押すと、外目の枠をものともせずにピッチを上げて内側の馬を楽々と追いぬいていく。

 ここは東京競馬場。馬場が固く時計が出やすいとはいえ、いま走っているレースは一勝クラス。出走しているのは新馬戦か未勝利戦を勝った馬だけでレベルは全般に低い。距離も十二ハロン=二四〇〇メートルと長い部類に入るため施行レース数は多くなく、特に三歳春時点での世代限定戦となるといっそう少なくなる。事前の調べでは出走馬十三頭中、同距離を経験しているのは僕の馬を除けば三頭で、勝ち星を挙げているのはそのうちの追い込み馬一頭だけ。またこのコースはスタート直後に上り坂となっていることもあり、ダッシュがついていない状態で馬を前に行かせるのは多くの騎手は嫌がり、皆スタミナを温存するべく控えている。おかげで僕の馬は少々の脚を使った程度で、目標としていた前から数えて二番手の好位を確保できた。

 現にレースは早くもスローペースの様相を呈している。前にいる逃げ馬は早々に息を入れており、僕もすぐに手綱を引いてエフタリテスを減速させた。先ほど通過した「九」の数字が記されている三本目と「八」とある四本目のハロン棒の間隔からして、おそらく四ハロン目は十二秒二か三。しかも進路は最内の経済コース。先頭とは一馬身半、後ろを振り向いても三番手との差は一馬身ほど。四番手以下の後続も団子状に固まっている。僕の馬は単勝三・一倍の二番人気。マークはオッズが少しだけ低い一番人気の差し馬の方に行っていた。どの鞍上もそちらを気にして本命馬ともども牽制しあっているのだ。

 その間、僕はさらにペースを落として力を溜める。入厩当初から調教に乗り、今日のレースも含めてここまでの全四戦でコンビを組んでいるだけあって呼吸はばっちり。イレ込む素振りすらなく実にリラックスしており、いつもどおりこちらの指示に素直に従ってくれている。いつ何をすべきかも理解している本当に賢い馬だ。鞍の上でも風を感じる余裕が生まれるほどの全幅の信頼を置ける、心の通じあったパートナーと言っていい。梅雨の前、五月の強い日差しで熱せられた空気が肌を伝っていくのは、本来なら体力を消耗するばかりで厳しいはずなのにこのときは微塵も不快感がない。勝利への期待がそれらを心地よさに変えていた。

 そんなことを考えているうちに、「五」と書かれたハロン棒が左脇を通りすぎていく。ゴールまで残り五ハロン、一〇〇〇メートルを切った。

 そろそろだ、と判断した僕は手綱を握る両手の力をほんの僅かに弱める。するとエフタリテスは少しずつ速度を増し、徐々に馬体を沈ませていく。スピードの上げ方はゲートを出た直後とは違う。脚の回転を速めるのではなく歩幅、ストライドを広げにかかったのだ。

 僕は一頭分だけ馬体を外に持ちだした。先頭の馬を追いぬくためだ。普通ならこの地点での仕掛けは早いと言われる。しかしあまり遅れると後続から被せられて進路を失い、力を出せずに負ける恐れがあった。何よりエフタリテスの強みが活かせなくなってしまう。大丈夫だ、ここは楽に勝てるだけの力がある。

 逃げ馬は脚を溜めているのかまだ動かず、こちらは本格的に仕掛けていないのに距離はじりじりと縮まっていく。一馬身、四分の三、半馬身差。逆に後続との距離は一馬身半、二馬身と広がる。やがて最終コーナーで先頭に取りつける形になり、僕が何をせずともエフタリテスがハミを取ってラストスパートをはじめた。両耳を後ろに倒している。サラブレッドのもつ闘争心に火がついたのだ。

 ここだ。僕が手綱をさらに緩めると、地面の方が近づいてきたのかと錯覚するほど視界がぐんと下がる。馬体が先ほどとより一段と大きく沈んだ。首もより低く前に伸びる。一瞬でトップギアに切りかわるような急激な加速ではないものの、一完歩ごとに速度を増していく。逃げ馬が仕掛けに入るも引き離されずについていき、逆にハナ差、クビ差と前に出、最後の直線に入ろうかという頃には完全に先頭に立っていた。

 後続の追いすがる足音が聞こえてくるも遅い。僕の方はトップスピードに乗りかかっている。直線に差しかかるかなり前に仕掛けたのに脚色はいささかも衰えず、むしろ前へ進むごとに勢いを増す。僕はその調子だという念押しの意味を込め、右手の鞭でエフタリテスの肩を軽く叩いた。

 末脚の伸びは素晴らしく、残り四〇〇メートルのハロン棒があっという間に後ろへ飛びさっていく。振りかえると後続とは四馬身ほどの差がある。どの騎手も懸命に馬を追ってはいるが、何せ性能が違う。この乾いた馬場は前が止まりにくく先へ行った方が有利なうえ、ゴール前の坂も高低差、勾配ともにさほどきつくない。エフタリテスはまったく苦にせずぐんぐんと地面を蹴りあげていく。

 僕は頼もしささえ感じつつ、坂が緩やかになったあたりで手綱を小さく引いた。後ろで聞こえる足音は十二分すぎるほど遠いことから、勝利を確信したのだ。サラブレッドの身体はいわば消耗品。無駄に力を使うのは極力避けるべきだ。余計な負担をかけて故障でもしたら目も当てられない。エフタリテスも僕の意図を汲んで無理なくストライドを緩める。

 そしてそのまま先頭でゴールを駆け抜けた。二着以下が入線したのは、およそ半秒ほど間を置いて僕が後方を確認した頃だった。再び前を向くと、エフタリテスが息を入れて元のように耳を立てていた。

 よくやった。お前は本当に頭がいいな。

 僕はクールダウンしながら首筋をポンポンと叩く。エフタリテスも小さく鼻息を鳴らして喜んだ。程なくして電光掲示板に一着から五着までの馬番が表示され、結果の確定を示す「確」の文字とその旨を意味する青ランプが灯る。もちろん一着の馬番は十番。エフタリテスだ。

 自然と拳が握られ、肩口まで上がった。


 その三日後も、僕は美浦のトレセンでエフタリテスに跨っていた。休み明けのため本格的な調教ではなく、軽いキャンターや乗り運動といった調整レベルのメニューに留めている。

 といっても気は抜けない。僕は鞍の上からちょくちょく視線を下に落とし、脚元のみならず様々な箇所を確かめていた。まっすぐ歩けているか、どこか身体をかばってはいないか、歩様に異常はないか。非常に脆い生き物であるサラブレッドは、レースの翌週でも細心の注意を払わなければならない。競走中に骨折など誰の目にも分かる故障を発生していなくても、後になってダメージが表れることがままあるのだ。

 だが、どうやら問題はないようだった。いずれも従前どおり。むしろレースを経て鍛えあげられたかのように、若干ながら力強さを増している感すらある。僕は安心して鞍から降りてヘルメットを脱ぎ、エフタリテスを厩舎に連れていきながらこの馬のここまでの軌跡と今後の展望を頭に思いうかべた。

 エフタリテスは現在、三歳。オーナーである中林さんが気に入り当歳時に個人経営の牧場から購入し、うちの厩舎に預けられた牡馬だ。入厩してきたときの第一印象は地味の一言で、育成牧場での評判が高かったわけでも抜群の身体能力を披露するわけでもなく、関係者はオーナー以外、大して注目していなかった。恥ずかしながら僕もその一人。もっともまったく気にかけなかったわけではなく、不思議な馬だという印象は持っていた。

 サラブレッドの能力や特徴は両親からの遺伝に依存する部分が大きく、エフタリテスも父ゴールデンシップ由来の芦毛と胴が長めの大柄な骨格に、母ヒッタイトレディやその父アニエスデジタルの特徴でもあった引き締まった筋肉を受け継いでいる。その一方で性格は似ておらず、癇が強かった父母とは逆に比較的穏やかで、なおかつ他馬に対する闘争心も備えていた。

 ときに競走能力を高めるため共通する祖先をもつ父母同士の掛けあわせで生まれた馬は一般に気性が激しくなると言われ、エフタリテスもそれに当てはまるのだが、本番と調教以外ではサラブレッドとは思えないほど大人しく人懐っこいのである。ちなみに共通する祖先は優れた持久力でGⅠを四勝したメトロマックイーンで、父を通して三代前、母を通して四代前にあり、さらに血統構成が同じ姉妹を同じ馬と見るなら、鋭い瞬発力でGⅠを二勝したサッカーマンを兄にもつプラチナムダッシュが父を通して三代前、その妹ベルベットダッシュが母を通して四代前にある。僕はもし競走馬として期待するとすればそうしたメンタル面で、意図的に作り出された珍しい血統背景もプラスにはたらけばよいのでは、くらいに思いながらデビュー前の調教をつけていた。

 その評価が変わったのは入厩して半月が経ったあたりだ。エフタリテス自身が周囲の空気を読みとっていよいよ真面目に競馬に向きあう必要性を感じたのか、以前から試行錯誤を繰りかえしていたのか、あるいはトレーニングによって身体が出来あがってきたためか、いずれにせよ何度か本格的なコース追いをさせるうちに走行フォームを大幅に良化させていったのである。それも大抵の馬が脚の回転数を稼ぐピッチ走法か歩幅を広げるストライド走法どちらかに偏るところ、双方を状況に応じて使いわけるようになった。名馬の中でも大崩れがほとんどない、本当に強い馬のみが備える能力を身につけはじめていたのだった。

 すると自然と厩舎での扱いも変わる。児玉先生が直々に様子を見る頻度が上がり、もう少し待って力をつけてから使った方が勝率も将来的にもいいだろうとの判断でデビューは当初の予定より一か月あとにずれ、年明けの中山芝二〇〇〇メートルになった。そこと二月に臨んだ二戦目の未勝利戦で二着に入り、短い休養を経て京都へ遠征した四月のレースを三馬身差の楽勝。その次が三日前の二勝目で二着との差は三馬身、タイムも平場にしては速い部類に入る二分二十四秒八。むろん翌日に行われた日本ダービーよりは遅いが、かなり満足できる時計である。

 エフタリテスは将来が楽しみな馬だ。走行フォームが優れているといっても筋肉のつき方からして完成はまだ先で、ここ最近は成長途上の証拠とばかりにほぼ毎食カイバを一つ残らず平らげている。疲労で苛ついている様子もない。それどころか馬房の扉を閉めるや鼻面を当てて顔をくすぐってくる。鞭で自分を追う騎手を嫌う馬も多いのに、機嫌がいいとこうして好意を示してくれる。出来ればそこはずっと変わらないでいてほしい。僕は熱く湿った息を肌に感じつつ鼻面を撫でてこれに応え、いったん馬房を離れ厩舎の事務室へと向かった。途中、背が高く肩幅も胴の厚みもある山のような身体をした、大ベテラン厩務員の成田さんとすれ違う。

「高井くん、いつも助かるね。ありがとう」

「いえいえ、仕事なので当然です」

 その直後には同じ厩務員の八島さんにも声をかけられた。こちらは体型は成田さんとは真逆で背が低く痩せている。うちで働きはじめたのも二年前だ。

「お疲れさまです。私の方はだいたい掃除が済みましたよ」

「八島さんも、無理しないでください。そろそろ暑くなってきますから」

 僕はお二人にそれぞれ軽い挨拶を兼ねて二言三言を交わしたあと足を先に進める。そして建物の敷居を跨ぎ、ブーツを脱いだところで奥の方から扉が開いた。

 立っていたのは僕の所属厩舎の調教師、児玉直樹先生だ。元騎手の割に恰幅がよく、ふさふさとした口髭と顎鬚を生やしている。にもかかわらずふだん湛えている雰囲気は穏やかで、大体は物腰も静か。不快な表情を見せることは少ない人格者だった。

「児玉先生、エフタリテスに異常ありません」

 用があったのは他でもない児玉先生だ。僕は床に上がって午後の仕事が終わった旨を伝えるつもりだったが、ここでお会いできればその必要はない。エフタリテスは今や厩舎でも将来を嘱望される期待馬の一頭となっている。故障なく次に進めるのを知って安心しているだろうと思って反応を待つも、どうしたわけか先生の顔は浮かない。

「そうか。ご苦労だった」

 また声も心なしか暗く、続けて手招きをする間も俯き加減の姿勢でいる。

「高井、少し時間いいか。ちょうど探しにいこうとしたところだったんだ。こっちへ」

 何にせよ、話があるようだ。僕はヘルメットを小脇に抱え、勧められるまま部屋に入りソファに座る。

 先生は向かいに腰かけるなりテーブルのマグカップに手を伸ばし、湯気の立っていない紅茶に口をつけてから息をついた。

「今日、伝えておかなければならないことがある」

 察するに僕を叱責しようとしているのではない。むしろどこか躊躇しているような雰囲気だ。とはいえあまり時間をかけてもいられないようで、小さく息を吐いて呟くように話を切りだす。

「エフタリテスは、他の騎手に替える」

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