プロローグ
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その日の起床は、休日としてはいつもより早かった。妻が体調を崩したので安静にしておく必要があり、代わりに私が台所に立っているからだ。
とはいえ早起き自体はまったく苦ではない。騎手である私は、今の季節なら明け方の四時半にはもう家を出ている。それと比べれば明らかに遅い。むしろ不慣れな家事に携わらなければならないことの方が億劫に感じ、実際に色々と手間取っている。このときも前日の夜に用意しておいたエプロンは椅子の背もたれにかけたまま。まず豆腐を切ろうと包丁を握るも、身支度を整えていないのに後から気づいていったん手を止める。
ところがちょうどそのとき、玄関の戸を叩く男が聞こえた。
何だろう? やけに乱暴な様子だが、ご近所の誰かだろうか?
私はやや急ぎ足で玄関へと向かった。あまり長い時間、大きな音を出されると妻が目を覚ましてしまう。
「はい、いま出ますから」
そう言いながら三和土の上でサンダルを履き、鍵を回して戸を開ける。
するとそこには濃い鼠色のスーツを纏い、黒い顎鬚をたくわえた丸坊主の男が立っていた。男は警察手帳を目の前に突きだし、野太い声を響かせる。
「文田猛志だな。午前七時四分、競馬法第三十二条の二違反、八百長の容疑で逮捕する」
一瞬、頭の中が真っ白になった。まともにものを考えられなくなった。
初めはまったく訳が分からず、狼狽えるのみだった。しかし数秒経って、おぼろげながらも刑事がここに来た理由に思いいたる。
「待ってください」
刑事は一人だけではない。その背後に立つ者、家の門に立ち塞がる者が他に一人ずつ。狭い庭を回って裏口を塞ごうとする者も最低一人はいた。逃げられない。元よりそのつもりもない。私は幾ばくかの弁明をしようとするも、それを声に出す前に遮られる。
「話は後からゆっくり聞いてやる。だが抵抗するな。カミさんを悲しませたくないだろ?」
刑事の皮肉を込めた笑みを目にし、また家の中に気配を感じて振りかえるといつの間にか妻が起きていた。
「あなた……」
絶望の淵に追いやられた私は、再び前を向いて首を縦に振るしかなかった。
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