十七 犯人 ②
全身に心地よい風を感じる。眼下に広がるのは一面の緑。
ここは京都競馬場。今はメインの第十一競走。三歳クラシックの最後を飾る菊花賞だ。 僕は馬枠が四、馬番が七を示す青帽を被り、黒い縦線が三本入ったこれまた青の勝負服でエフタリテスに乗っている。
先ほどまではスタンドからどよめきが聞こえていた。それはそうだろう。全頭三〇〇〇メートルの長丁場は未経験の中、僕の馬が先頭を切って走っているのだから。
しかもスタート直後に他が積極的に行かないのを見ての積極的な逃げだ。普通であればスタミナが持つかどうか躊躇し、せいぜい三番手あたりに落ち着かせるところだ。だが僕はエフタリテスを信頼している。この流れなら問題ないと判断した。ちらりと後方を振り返ると、馬群との差はおよそ二馬身。ちょうどよい間隔だ。
後ろから絡んでくる者はいない。四番人気で厳しいマークを受ける立場にないこともあるが、どの鞍上も僕とは対照的に馬の能力を測りかねているのが大きい。距離に不安があるため、下手に脚を使おうものなら途中で潰れる可能性が高い。いわば自滅するのを恐れているのだ。その傾向は上位人気馬ほど強いだろう。一番人気に推されている神戸新聞杯の覇者コルドロンスヴォーに跨る葛城さん然り、同レースで二着に入った二番人気のジーシースクエアに騎乗する菅沼然りだ。もともと好位に付けられる前者はともかく、鋭い差し脚が売りの後者はおいそれと道中での位置を上げられない。周囲も両者を牽制している。
なお三番人気であるニアンフレイグの手綱を取るのは三畑に替わっている。月川は大賀さんの記事が出た直後に、予定していた騎乗を全てキャンセルしたのである。報道によれば来週にでも引退を届け出る意向で、周囲もおおむね了承しているのだという。また風説の流布についても調査を開始し、すでに公正審査委員である大叔父への聴取も済ませたのだそうだ。被害者として事実確認を受けた僕は、運営からそのように聞いている。よってニアンフレイグは折り合いに専念するのに精一杯で、ジーシースクエア同様に後方待機の脚質を大幅に転換する確率はきわめて低い。ある程度は前へ行くとしても、リスクが大きすぎる。現にスタートして以降は一度も姿を見ていなかった。
おかげで僕たちにかかるプレッシャーは皆無に近い。思考はクリアそのもので、身体は馬の背に揺られているのにどこか遠くからレースを眺めているような感覚に包まれている。自分でも驚くほど落ち着いており、じっくり通過タイムを測る余裕さえ生まれていた。おそらく最初の一〇〇〇メートルは五十九秒九。長距離では速い部類に入るペースだ。代わりに先ほどの一ハロンは十三秒五。その前が十三秒八。ラップを落としすぎずに息を入れることができている。
少し視線をずらすと、エフタリテスの体毛が陽の光を浴びて輝いているのが見えた。前走から中三週という長くはないローテーションをものともせず、絶好のコンディションに仕上がっているのが分かる。先生による抜群の匙加減を効かせた調教の賜物だ。それどころか成長がますます進み、まだ不完全ながら内に秘められていた筋肉が姿を露にしはじめている。馬体の充実度だけでいえば、出走馬の中で一番と断言できるほどだ。
この調子ならそろそろいいだろう。じきに残り一〇〇〇メートルのハロン棒に差しかかる。だいたい上り坂の頂上に差しかかる手前だ。一般的にはここで始動するのは早すぎるが、エフタリテスの場合はこれ以上待つとアドバンテージを活かせなくなってしまう。
僕が首をやんわりと押して加速の指示を出すや、一歩一歩が少しずつ、しかし着実に大きくなっていく。途中でラップを落とした分だけ余力が残っており、ペースの上げ方も急すぎず鈍すぎず、まさしく僕が期待していたとおりの理想的な加速だ。こちらの意図もちゃんと伝わっている。馬の口からハミが取れるのも見えた。
後続馬が蹄を地面に叩きつける衝撃と足音は徐々に遠のいていく。おそらく差は四馬身程度にまで広がっている。僕自身は姿勢を変えていないにもかかわらず視界がやや下方を向き、身体も少しだけ前のめりになった。下り坂だ。自然とスピードが増す。心肺能力では他に勝る一方、加速力で幾らか劣るエフタリテスを文字どおり後押ししてくれている。後ろの足音は徐々に近づいてくるも、間近には迫っていない。差はたぶん三馬身半程度。僕はだんだんと大きく手足を前後に振り、馬が四肢を運ぶのを助けるとともにより強く前方への推進を促していく。
ただし最終コーナーに入ったあたりで、馬首を押すのはいったん止めて添える程度に留めた。遠心力で外に膨らむのを防ぐためだ。とはいえ力を抜いたのはせいぜい二秒。距離のロスが抑えられるのが分かればもう勢いを緩める必要はない。直後に一転して鞭を抜き、軽く肩を叩いた。正真正銘のラストスパートだ。
エフタリテスはその合図を瞬時に理解した。一歩がいちだんと大きくなり、首をぐっと下げて地を這うような疾駆に入った。僕も馬首が前に出るタイミングで手綱を握る拳を押しては頭が上がるのと同時に引き、脚の動きに合わせてしっかりと身体の重心を移動させる。
抜群の手ごたえだ。地の果てまで駆けていくのではないかと思われるほど力強く脚を前に伸ばし、嵐のような空気の流れと蹄をターフに叩きつける衝撃で内ラチをこれまでにないほど激しく震わせながら勢いよく直線に入る。僕は右手を引いてエフタリテスを内に導き、後続が嫌でも外を回らなければならない進路をとった。追走勢は先ほどよりは近くに来ているものの、なお距離がある。察するに差は三馬身くらいか。京都の直線は平坦だ。前が止まらない。残り一ハロンの標識を過ぎた。いける。勝利の確信がいよいよ強まった。
だがこれはGⅠレースだ。皆、勝利を目指して死に物狂いでやってくる。そのうちの一頭が首尾よく馬群を抜けだして差を縮めてくるのが足音と馬の鼻息、気配で分かった。来ているのはどの馬なのか、後ろを振りむいて確かめる余裕などない。
僕はエフタリテスの動きに神経を集中させた。ここに至るまでの過程ほとんど完璧なはず。となれば残された仕事は一つ。鞍の上で推進力を最大限に引きだすことだけだ。無闇に焦ってフォームを崩すなどもってのほか。落ち着いて鞍上の役割を果たすのに専念しろと自分に言い聞かせ、とにかく相棒と拍子を合わせつつ首を押す。
それでも足音はますます大きくなってくる。彼我の距離が急速に縮まっていくのが感じられた。後ろの馬の吐く息が勝負服を通して肌を撫でてくるのだ。僕はひたすら念じた。あと少し、ゴール板までもうひと踏ん張り。どうにか耐えてくれと願うも、後続の追い脚は目覚ましく矢のように鋭い。視界の左側に馬の鼻面が入った。馬体を併せにきている。差は半馬身強。残りおよそ一〇〇メートル。勝負はこの五、六秒かそこらのうちに決まる。頼む、競り合いは得意のはずだ、だから真価を見せてくれ! その僕の叱咤にエフタリテスは応えてくれた。一度は並びかけられるも二度、頭を突きだし前を譲るまいと粘る。
しかし抵抗も空しく限界が来た。いかに持久力が最大の武器といえど、永久に末脚を伸ばせるわけではない。ついに加速が止まり、減速に転じた。次いで隣の一頭がこちらを抜きさり、鐙に足をかけて手綱を取る騎手の姿までもが目に入る。差はハナ、アタマと広がっていき、じりじりと引き離される一方。ここまでかと思われた。
ところがそのとき、隣の馬が一気に後ろへ下がった。僕たちの前に出た時点で力を使い果たしたのだ。
するとエフタリテスの闘志に再び火がついた。負けん気の強さを発揮し、最後の力を振り絞る。ストライドが元の勢いを取り戻さんばかりに一気に伸び、逆にこちらがアタマ、ハナと距離を詰め、完全に並ぶ。そしてついに差しかえした瞬間にゴール板を駆け抜けた。
僕は一気に息を吐き、馬首を軽く叩いて労をねぎらった。とにかくよく走ってくれた。馬体が発展途上にある中で最大限の力を出せたのは間違いない。
続けてエフタリテスをクールダウンさせながら、今しがたの光景を頭の中で反芻する。勝ったのは僕たちのはずだ。着差はハナ程度しかないが、ちょうどエフタリテスが前に出たタイミングでゴールできたはずだ。
振りかえれば、激しく優勝を争った相手の馬が後ろを歩いている。コルドロンスヴォーだ。白帽と勝負服で判別できる。鞍の上にいる葛城さんは、喜びを表す仕草は一切せず静かに身体を落ち着けていた。
電光掲示板には三着以下の馬番が表示されている。一着と二着の欄にはどちらも数字が灯っていない。右上には赤く「写」の文字が光っていた。二着と三着の差は五馬身で、以下の着差はいずれも半馬身と小さい。直線はほとんどマッチレースだったことになる。
僕はどうにか先ほどの感覚が当たっていてくれと祈った。どの勝負でも勝つと負けるとでは雲泥の差だが、今日のレースは重みが違う。その三十秒後くらいだろうか。視線の先に文字が浮かんだ。
一着、七番。エフタリテスだ。
僕は右拳を握り、頭の上に掲げた。やった。それに呼応するようにスタンドがどよめき、歓声があがる。おめでとうという祝福の言葉に加え、競馬場全体を揺るがすほどの大きなコールが湧きおこる。
「高井、高井」
みな何度も名前を呼び、拍手までしてくれている。大レースの勝利ジョッキーだけに許される体験だ。ビッグタイトル獲得が初めてであるのと風評を払拭し今日ここに至った経緯をみな知っているためか、他の騎手のときより歓声が大きい気がする。
僕は目尻に浮かんだ涙を拭い、馬首を撫でた。
「本当によくやってくれた」
思わず口に出して語りかける。本当にその一言しかない。これでエフタリテスの未来も拓けるだろうが、何より彼の頑張りで僕が救われた。ただただ感謝あるのみだ。
じんわりと感慨に浸っていると、横から肩を叩かれる。
「初めてのGⅠ制覇、おめでとう」
見れば、葛城さんが隣に来ていた。僕の口からは自然と次の言葉が出る。
「ありがとうございます」
大舞台での勝負を制し、目標だった人物にタイトル獲得を祝われたのだ。こんな日が来るとは想像もしていなかった。むろん競馬における勝負は騎手の腕だけで決まるものではなく、第一に馬の力があってこそ。今日の結果をもって上を行ったとはつゆも考えていないが、それでも喜びは大きかった。
「じゃあね。また勝負しよう」
葛城さんの去り際の呟きには、次はこうはいかないぞと言わんばかりのたしかな対抗心があった。そうした思いはどうやら他の騎手も同じらしい。さらに後ろから追いつき、声をかけてきた騎手も幾人か似たような雰囲気を醸し出していた。その中には菅沼の姿もあった。
「先を越されちまったな」
素直に祝福されたわけではないが、少なくとも以前の嫌味な響きはなかった。菅沼が乗っていたジーシースクエアの馬番は電光掲示板の一番下。明確に差のある五着と完敗だっただけに、明確な負けを認めざるを得なかったのだろう。夏の間あからさまに馬鹿にされた僕も、実績で立場を逆転させたことで負の感情は薄れていた。
それから地下馬道の入口へと歩いていくと、児玉先生が満面の笑みで手を振っていた。隣には中林さんも立っている。
その二人を目にして改めて実感した。ここまでの苦労がようやく報われた。
僕は勝った。ついに勝ったんだ。
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