十七 犯人 ①
僕の周囲は一気に慌ただしくなった。
尾本さんへのインタビューが公開されたからだ。大賀さんの報告が会社に驚きをもって迎えられ、急遽スクープとして紙面に掲載されたのである。おかげでその日の〈スポーツ東都〉は飛ぶように売れたという。直後に尾本さんが公の場に姿を現して謝罪をしたのも社会の注目を集め、ついには各マスコミが警察を追及する事態にまで発展した。すでに福守さんが警視庁に事実の公表を訴え、取り調べの違法性を否定された場合には実名で告発するつもりだとも聞いている。あとは祖父の冤罪が法的にも認められるのを待つだけだ。
よって僕は安心していた。何より、僕にかけられていた疑いが晴れたのである。二人して調査に奔走した旨が記事で言及されていたのも、早くに多くの理解を得る一助になった。まずは第一報が出た朝、児玉先生が新聞を置くなり本当に嬉しそうに祝福してくれたのだ。
「良かったな。これで私からエフタリテスの鞍上復帰を進言できる」
祖父に向けられていた疑惑が無実である以上、僕自身にまつわる噂も根拠の大部分を失ったことになる。先生は僕が根も葉もない風評を流された被害者である点を強調し、同じ週のうちに僕を中林さんのところに連れていくと約束してくれた。
おまけに、この話は先生が予定していたより早く事が済んだ。翌日その中林さんの方が厩舎にやってきたのである。
「高井さん、あなたを降板させたのは間違いだった。また乗ってください」
それも最初に深々と頭を下げての謝罪だ。心の底から申し訳なく思っている感情が伝わってくる。報道を目にして、判断が事実誤認に基づくものであったのにショックを受けたらしい。元より悪感情はもっていなかった僕は二つ返事で頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
かくしてエフタリテスは僕の手元に戻った。記事の反響で取材が幾つも舞いこんできたものの、頭を悩ませる必要はないこともあって今度こそ仕事に専念できるようになり、予定どおりに出走したセントライト記念ではニアンフレイグから一馬身半差の二着に入って本番への優先出走権を確保するのにも成功した。
だが、まだ終わりではない。嘘の情報を流した人物が野放しのままになっている。僕は二度と同じような真似をされないよう、噂の発信源を捕まえるつもりでいた。そのため今、翌週に本番を控えた水曜の午前二時にトレセンの敷地内で、物陰に隠れながら照明の光が差す厩舎を注視していた。
それが誰なのかは見当がついている。尾本さんとの別れ際に、僕の方で幾つか質問をしてみたのだ。
「ちなみに私が文田の孫で、騎手をしているのはご存じでしたか?」
「いいえ。存じあげていたのは、穂希さんに息子さんがいらしたことだけです」
「ちなみに事件の真相はどなたかに話されましたか?」
「いっさい誰にも話していません。現役の頃も、引退してからもです」
「祖父が確実に無実なのをご存じの方は、他にいらっしゃいましたか?」
「いなかったはずです。事件から四年、騎手を続けましたがそんなことを匂わせる人すらいませんでした」
くわえてその人物がおそらく今日か明日にでも行動を起こすであろうことも予測できている。僕が罠を仕掛けておいた。三日前、それとなく話の流れに乗り、目の前で溜め息まじりに注意を引きつけたうえで次のように口にしてみせたのである。
「もう聞いているかも知れませんが、きのう先生がぼやいていまして、厩舎の監視カメラが故障で使えなくなったみたいなんですよね。業者の都合がつかず一週間はかかるんだとか。エフタリテスに万が一のことがあったらと僕も心配で」
その人物は僕を陥れるのに失敗した。となると次の手に出る可能性が大だ。しかも嘘が暴かれ、同じ方法は通用しにくくなっている。仮に再び噂を流すとしても、もっともらしい信憑性を裏づける材料は簡単には見つからない。
そう考えた場合、人がダメなら馬──つまりエフタリテスに危害を加え、好機を摘もうという選択肢が自ずと出てくる。どこの厩舎も不審者対策を兼ねて防犯カメラを設置し、宿直が部屋で異常を察知できるようになっているため、内部関係者か否かを問わず普通は容易に手を出せないが、不測の事態により監視の目が緩くなったと聞けばそれとは違う判断を下すだろう。菊花賞は今度の日曜日に迫っており、土曜には栗東を目指して出発している。したがって行動を起こすならその前しかない、と踏んだのだ。
昨日は何もなかったのを後追いで確認しており、作戦も大賀さんに相談していた。というより、今も少し離れた場所で待機してもらっている。僕が実行を決めたとき、大賀さんの方から申し出てくれたのだ。
「乗りかかった船だ。犯人が捕まったとなれば、また手柄になる」
どうやらこれを機に、会社の内外で名前を売るつもりらしい。〈スポーツ東都〉の社長をはじめ経営陣の覚えもめでたく扱いは一変、折り合いの悪かった編集長などは大賀さんにまったく頭が上がらなくなったのだという。
その話を思い出していると、手元のスマホが小さく震えた。モニターにはメッセージ通知がある。大賀さんだ。
「眠くないか?」
僕はまだ視線の先に人影がないのをちらと見ながら返事をした。
「大丈夫です」
本当だ。いつもより三時間ほど早く起きただけである。午後の仕事が終わってからも多少の睡眠はとっている。足りない分は後で寝ればよく、噂を流した張本人を放っておく方が不安だ。僕は夜通しでもこうして待つつもりでいる。
「無理するなよ。俺が張ってるから」
「どうしても身体が持たないときだけ帰ります」
ただ、メッセージを送ったとおりに休んでしまっても、そう簡単には犯人が事を運べない状態になっている。厩舎に侵入したところですぐにはエフタリテスの居場所を判別できないよう、馬房のネームプレートを他の馬と交換しておいた。また今夜の宿直である児玉先生も監視をしている。僕が事前に作戦の伺いを立てるなり、二秒と間を置かずに首を縦に振ってくれたのだ。
「その日の当番には、私が入る。私もエフタリテスを育ててきたからね。危害を加えようとする輩が来るかも知れないのであれば、人任せにはしておけない。とはいえ、念のため他の人には黙っておこう。厩舎の皆にもだ。どこから情報が洩れるか分からないし、大人数で待っていると気配でばれる」
むろん、可能であれば直接この手で禍根を断ちたい。僕はスマホを閉じてじっと厩舎の方を眺めるも、動きは皆無だ。物音も馬の鼻息や体が寝ワラと擦れる小さな音くらい。まだか、まだ来ないのか。予測が外れたか、と思われた頃だ。
厩舎から漏れる光に人影が差した。手に何かを持って前後左右を眺めまわしがてら入口へ近づいていき、さらに一歩、二歩と進んで中に入っていくのが見える。
間違いない。今だ。
僕は思いきり地面を蹴って走りだした。厩舎の出入り口は一つだけ。人影が引き返してくる様子はない。足を踏み入れると、照明の下にその姿が浮かびあがった。
月川だ。全身から血の気が引いており、白い顔をますます白くさせ、表情だけでなく身体も固めて立ち尽くしていた。右手に握るのはカイ桶。ネームプレートを一つひとつ検め、あるいは芦毛の馬体を目印にエフタリテスの居場所を探している最中だったのだろう。
「お前か」
僕がそう呟いた直後、大賀さんがやってきた。手に高々とスマホを掲げて撮影している。
「やっぱりだ」
月川は四肢の力が抜けてしまったようで、崩れ落ちるように床に両の手と膝を突いた。
僕はそれを上から睨みつける。こいつのために僕はあんな目に遭ったのか。予想どおりだったとはいえ、直に目にすると腸が煮えくりかえり、それまで抑えていた怒りがにわかに腹の奥底から噴きあがった。改悛の態度が見られた尾本さんや福守さんに憎悪は湧かなかったが、こいつは別だ。濁った瞳には反省の色がない。許す理由がなかった。騎手デビュー以来、順調なペースで成績を伸ばしておきながら姑息なやり方で僕を陥れようとしたのみならず、エフタリテスまで手にかけようとした。少なくとも競走生活に悪影響を及ぼそうとした。僕は右の拳を一杯に握りしめ、同じく右の脚を思いきり振りかぶる。
しかしそこで大賀さんに肩を掴まれた。
「止めろ。もうこいつにトドメを刺すのに十分なネタがある。レースは今週末だ」
もしこのまま月川を痛めつければ騎乗停止処分が下る。いくら溜飲が下がっても、菊花賞に乗れなくなっては意味がない。それにここは厩舎の中だ。すでに何頭かの馬が起きあがりはじめている。僕は拳を降ろした。
代わりに大賀さんが前に出る。
「こっちへ来い」
続けざま僕にスマホを渡して月川の襟首を掴み、外へと引きずりだすとトレセンの敷地の隅まで行き壁際に身体を押しつけて唸る。
「観念しろ。録音もしてるからな。高井くん、俺がこうしてるから言いたいことを言え」
僕は床に残されていたカイ桶を手にその後をついていき、短く訊いた。
「黙っても無駄だ。僕は明日一番にこのことを映像、動画の証拠を添えて運営に届け出る。警察にもだ。噂を流したのはお前だな」
深夜、よその厩舎に忍びこんだ現場をばっちり抑えられたのだ。月川は少しのあいだ俯いていたが、完全に諦めたらしい。いっそう項垂れて口を開いた。
「ああ」
「動機は何だ。僕を追いおとすためか」
「そうだ。成績が近かった」
「いつごろ動きはじめた」
「エフタリテスが一勝目を挙げた直後だ。調教で見て、いいところまで行きそうだと思った」
「噂はどうやって広めた」
「最初、身近にいる数人と乗り馬のオーナーにそれとなく伝えたら、あとは勝手に。だが予想以上に早かった」
これで知りたかった最低限の事実は確かめられた。まさに動かぬ証拠だ。僕はひとまず息をつくも、月川の方は対照的に攻撃性に満ちた刺々しい空気を発散しはじめている。いつもの調子が嘘のように顔に険を走らせ敵意を露にし、声も低く淀んでいた。おそらくこちらが本性だ。表では何気ない体を装い、裏ではこんな風に悪意を向けていたのだ。今の話によれば当初から明確にエフタリテスの菊花賞出走を阻もうとはしていなかったことになるが、事態のおおまかな流れは思惑どおりだったわけだ。計画時点での想定がどのような形であったにせよ、人が苦しんでいるのを尻目に内心ほくそ笑んでいたのは違いない。
その月川が今度は訊きかえしてくる。
「だが、なぜ分かった」
僕は怒鳴り声をあげそうになるのを抑えて答えた。
「親族の僕でさえ実際に調べるまで祖父が誰かは知らなかったし、これまでいろいろ話を聞いた中でも祖父にとっての息子──僕の父の存在を把握していたのは一人だけだった。その一人も父の後の動向はまるっきり分かっていなかったんだ。当たり前だ。その人たちは僕の両親に会ったこともなければ親族でもなく、戸籍の取り寄せさえできないんだから。でも、そんなのは関係なしに他人の血縁関係を調べられる人間がいる。公務員だ。月川、お前は身内に公正審査委員の人間がいたな」
中央競馬は常時、複数名の公正審査委員を置いている。主な役割は馬主や騎手の資格審査だ。委員は各種機関の経験者が任命され、うち一枠は警察OBが充てられる。今現在、そのポストに就いているのは月川和芳、元関東管区警察局長。いま目の前にいる月川の大叔父だ。競馬界にあっては他大勢と違い周囲にほとんど親類縁者のいない公務員一族出身の月川にとって、唯一の後ろ盾だ。警察関係者であれば公用と称して他人の出自を調べるのに必要な書類も取得できるのではないか、と僕は推理した。正確には大賀さんの言葉を思い出したのだ。戸籍は「赤の他人だと、特別な理由がない限り出してもらえない」。
実際これは当たっていたようだ。月川は黙っている。すると大賀さんが襟首を握る拳に力を込めて喉元にぐりぐりと押しつけた。
「図星か。おおかた高井くんのアラを探そうと、大叔父の公正審査委員が職権濫用で戸籍を洗ったら偶然見つけた、ってとこだろうよ。直接本人が調べたか、顔の利く人間に指示したのかは知らねえが」
その剣幕は僕の比ではなかった。本気で殴りかかりそうな勢いだった。
「まだ立場が分かってねえようだな。もうお前は終わりだよ、こんな真似したんだからな。いまここで白状するか、しょっぴかれて取り調べ室で吐くかの違いだけだ。え? 実際どうなんだ? 何とか言え!」
さすがにこの迫力には月川も口を割る。体格は比ぶべくもない。目つきこそ相変わらず反抗的でいながらも、手足は小さく震えていた。
「そうだ。こっちから大叔父に頼んで調べてもらったら、大昔の事件に突きあたった」
「で、あんな噂を流したのか。血縁関係は本当だもんな。本人が否定できないと踏んで、信憑性を裏づける材料にしたんだ」
「ああ」
大賀さんは反省の見られない態度に憤ったか、ドスの利いた声で凄んでは睨みつける。
「このクソが! だがとんだ馬鹿だったようだ。お前はそこで間違えたんだよ。あの事件が冤罪だったことも知らず、世間で信じられてたとおりのもんだって思い込んで、してやったりのつもりでいたわけだからな。そんなマヌケ野郎にもう一つ質問だ。お前は同じルートでこのカイ桶の中身も手に入れたな」
そして僕の持っていたカイ桶に片手を突っ込み、がさごそと中を探るとあるものを掌に載せて月川の前に突きつきた。ぱっと見はカイバに混ぜる一般的な飼料だ。形状も茶褐色のごくありきたりな円筒形をしている。
「たぶん六月にちょっと騒ぎになった薬物入りの飼料、ブラウンニアだ。どうせ保管場所も委員の特権で訊いて持ち出したんだろ?」
言葉はなかった。代わりに首を縦に振る。これについては僕が噂を流した張本人を捕える策を練って素案を提示した際、大賀さんが予想していたのだ。公正審査委員は競走馬の薬物に関する事案も取り扱う。もし月川なら必ずそこを利用する、と。この作戦は二人で立てたようなものだ。結果的には目論見を阻止することができた。
ただ、危ないところではあった。だいたいの馬はそこにカイバがあれば飼料と一緒に食べてしまう。食欲旺盛な成長期にあればなおさらだ。僕がいまだ冷めやらぬ怒りに耐えていると、大賀さんが答えを待たずに畳みかけた。
「外からカイ桶を持ってきたのも、いつの間にか種類の違うのが置かれてるのを厩舎の誰かに発見させる目的があったんだな。狙いどおりにいけばしめたもの。それならレース前に異常が発覚してエフタリテスは出走取り消しになる。仮に異変に気づかずレースに出て一着入線したとしても、薬物検査で失格になるって算段だ。もっと言えば、あの噂を流してうまくいかなかっただけなら高井くんを潰すのは次の機会にする考えもあったが、トライアルで自分が乗ったニアンフレイグの二着に入られたんで今日の実力行使に奔った。そうだろ?」
月川は再び頷いた。明日にもこの事実が大賀さんのスクープとして世間に公表され、運営が調査に入る。ここまで証拠が揃っている以上、厳罰は免れない。協力者の大叔父ともどもきわめて重い処分を受けることになるだろう。
「大人しく罪を認めれば、この後の世間様の目も少しは違うかも知れないぜ。どうする? 俺たちと一緒に行くか?」
月川自身も、それらを逃れる術はもはや一切残されていないのを理解したようだ。大賀さんが襟首を掴んでいた右手を放し、左手を腕に添えると小さく呟く。
「はい」
ちょうどそのとき、遠くから光が差して足音が聞こえた。闇に紛れて二、三の人影も見える。児玉先生が呼んだか、異常を察知して警備員がやってきたのだ。足音と人の姿は見るみるうちに大きさを増していく。その間にも各々の手にもつ懐中電灯は、頽れる月川をひたすら照らしつづけていた。
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