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冤罪  作者: 新宮義騎
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十六 過去 ②

 言葉には出さなかったものの、おそらく幾つか心当たりがあったのでしょう。もしかするとこちらの生活が荒れはじめた時期を境にお互い接触する機会が減ったのを気にしていたのかも知れませんし、そうした噂を耳にして私の騎乗に目を向けるようになったのかも知れません。想像に過ぎませんが。

 もちろん文田さんに落ち度はありません。奥さん、つまり穂希さんとご結婚されて一年ほどということもあって私に構う暇はなかったはずですし、騎乗依頼が多くて忙しかったといっても二人とももう大人。そもそも慢心して道を誤ったのは他ならぬ私なのですから。

「いいえ。悪いのはこの私です」

「だったら何であんな真似をしたんだ」

「もうしません」

 私は深々と頭を下げました。改めて八百長という騎手にあるまじき行為に及んだ事実と、何も悪くない文田さんに自責の念を負わせたことに対する後悔が襲いかかってきました。

「八百長は犯罪だ。報告はしなければならない」

「待ってください」

 私ひとりが罰を受けて済むなら文句は言えません。このときも一瞬だけ、罪を公に認めようとしました。けれども、先述のように私には琴江がいました。真面目に競馬に取りくんでいる人間であれば本来そんな事情は理由にならないのですが、言い訳にしてしまったのです。縋りつくように顔を上げてその旨を説明しました。

「見て見ぬ振りをしろというのか」

「そこをどうにかお願いします」

 当時は競馬に限らず、何につけても人間関係に重きが置かれていました。文田さんがお世話になっている有馬先生と私のところの宇治木先生は昔からの知り合いで、白井の調教場でもかなり仲がよかったのです。

 文田さんは唇を結び、少しのあいだ悩んでいました。もし運営に報告すれば宇治木先生の顔を潰しかねず、有村先生との関係が悪くなってしまうのではないかとの懸念が頭に浮かんだに違いありません。また第三者にも分かるような証拠は皆無で、一転して私が否認の態度をとれば処分の対象にはできないとの考えもあったのでしょう。あるいはここで見放しては、私の頼れる人間がいなくなってしまうのを心配してくれたのかも知れません。騎手というのは競馬界を離れると潰しのきかない職業で、前科がついたとなればまともな仕事に就くのは至難の業だからです。いずれにせよ一分ほど間を置いて、ついには次の言葉を口にします。

「報告は止める。その代わり、二度とやるな」

「もちろんです」

「下沢という男にも伝えるんだ」

「はい」

「相手が大人しく引き下がるとは思えない。予告どおりに写真を撒かれる恐れもあるが、まずはこれ以降の八百長は拒否しろ。そうしたら、この一件は聞かなかったことにする」

 文田さんは私から目を逸らしています。ひどく呆れられたのが分かりましたが、八百長が露見する事態をいちおう避けられた安堵の方が勝っていました。

「ありがとうございます」

 私は下沢に連絡をし、翌週に人気のない場所を選んで話をしました。当然、恐怖はありましたけれども、悪い縁を断ち切るべく己を鼓舞し、真っ先に告げました。

「もう私は八百長に与しません」

「何だと。あれをバラ撒かれてもいいのか」

 下沢の発する空気があっという間に変わりました。指一本触れられていないのに生命の危機を感じるほどの異様な圧力です。とはいえ屈するわけにはいきません。

「結構です。ただし、そのときは警察に自首します」

 私は嘘偽りを答えたつもりではありません。本当に捨て身の覚悟でした。

 すると下沢は急に立ちあがり、短く捨て台詞を吐いて店を出ていきます。

「このままで済むと思うなよ」

 私はそれを見届けたあと、ほっと胸を撫でおろしました。

 察するに、攻めの姿勢に出たのが効いたのでしょう。ほかにも想像が湧いてきました。八百長に及び腰になった私を無理強いしても、将来的に得られる利益が少なくなると判断した。そうでなければ、写真の真偽を追及されるとまずい事情でもあるのではないか。たとえば写っていた女性は組長云々ではなく、下沢自身の愛人か手駒だったのではないか、など。

 だとするとひどいコケ脅しです。そのうち馬鹿馬鹿しくなり、だんだん腹が立ちました。あんなやり方でいいように使われていたのか。私に落ち度があったとしても、あんな連中に脅されてお世話になった人たちに不義理をはたらく羽目になったのか。

 その思いが強くなったのは翌日、午前の調教を終えた後です。さっそく文田さんに昨日のことを報告しましたが、短い答えが返ってきたきり。

「そうか」

 私はこのとき、もう昔には戻れないと覚りました。当たり前です。ただ捕まっていないだけで、罪を犯したのに変わりはないのですから、足を洗ったの一言では済まされません。

 そうして一か月、二か月と何もなく、私も琴江と結婚して私生活が充実しはじめた矢先にあの事件が起こりました。

 昼前、寮でラジオを聴いているとニュースが流れてきたのです。

 文田さんが八百長? 時期は二月? Y村組の暴力団員が自白?

 それだけで分かりました。下沢の復讐だ。私をあんなに厳しく叱った文田さんが八百長なんてするはずがない。

 私は琴江と外出する予定でしたけれども、宇治木先生に電話番号をお訊きして有村先生に事情を確認すると狼狽えた様子で仰っていました。

「法律上、水曜までは面会禁止だそうだから俺は木曜になったらすぐ行く。しかし尾本くんも心配してくれるとは。いや、同郷で古い仲だったか。でも他の厩舎の何人かからも連絡があったよ。猛志の奴は本当に人望が篤いんだな。大丈夫だ。俺が代表して励ましてくるよ」

 私も行こうとはしました。ですが下手に動いて八百長の件が明るみになりはしないかと、恩のある文田さんの心配よりわが身可愛さが先んじてしまったのです。早い話が、また臆病の虫が顔を覗かせたのですね。本来の仕事を犠牲にできないだの、下沢がやった証拠がないだのとさっそく自分で自分に言い訳をしていましたよ。

 それだって恐怖は消えません。報せを聞いた日の夜は布団に入っても眠れず、二日間は稽古に出ても半ば上の空。その翌日になって文田さんは断固として容疑を否認するつもりだとの噂を耳にし、どうにか希望を見出したものの、いつの間にか事態は悪化していたようで翌週には罪を認めたとのニュースが流れました。

 私は絶望しました。未だ自白する勇気を持てずにはいながら、文田さんには会おうとしていたのです。さらに翌週になって留置場から移送されたと聞き、小菅の拘置所に向かいました。しかし結局、面会は適いませんでした。受付に申し出ると、しばらくして無情な答えが返ってきたのです。

「お会いしたくないそうです」

 私は身体じゅうの力が抜けるのを感じました。許されるとは思っていませんでしたが、顔を合わせるのはもちろん、真相を確かめることすらできないのか。一切を拒絶された事実に打ちのめされ、帰宅してからも脳天を叩かれたような感覚は抜けませんでした。そのせいか、周囲で動きがあると聞いても自白という選択肢すら頭に浮かんできません。

「文田さんが誰か庇っているんじゃないかと、有村先生が訊いて回っている」

 どこか他人事です。心がおかしくなってしまったのですね。それでいて、なぜ自分が疑われずにいるのか考えていました。同郷で昔からの仲であるのを知られている以上、真っ先に怪しまれるはず。後になってみれば第一報を受けて有村先生に連絡をしたのと、事件が起こる前には文田さんと一緒に過ごす時間がだいぶ短くなっていたのがシロだと見られた理由のような気がします。文田さんを慕っていてひどく落ち込んでいた方が何人もいたので、私がそういう状態になっていても特別だとは思われなかったのも大きいでしょうね。

 その秘密は、日が経つにつれていっそう気づかれにくくなっていきました。少なくとも表向きは、私が時間の経過とともに立ち直っていったのですから。本当のところは先ほど申しあげましたとおり、事実が確認できないという風に自分に嘘をついて開き直っていたのですが。そういうこともあって文田さんの刑が確定すると、周りに誰もいないとき「あの件は終わりだ」と一人ごとを呟くようになっていました。

 でもちょうどその頃です、日曜の夜に自宅の電話が鳴ったのは。

 妻の琴江から最近、無言電話がかかってくると聞いていた私は、たぶん馬券を外したファンが何らかの方法で電話番号を特定したのだろう、適当にあしらおうくらいの軽い気持ちで受話器を取りました。

 しかし途端に身体が凍ります。

「俺だ」

 声で瞬時に判別できました。以前、私を脅迫していた下沢です。口の中が乾き、頭も眩暈でぐらつきました。

「何の用です」

「ずいぶんな挨拶だな。まあいい。内心、ほっとしてるだろうと思ってな」

 忍び笑いで嘲られても、まともに言い返せません。こちらを訝しげに眺めている琴江に目をやり、向こうへ行くよう促すのがやっと。

「言っていることが」

 どんな内容かは予想できていました。私が長らく抱いていた疑惑に言及しようとしているのです。それだけによけい恐ろしくなりました。震えはじめた脚を小突くかのように下沢が話を続けます。

「分からないなら教えてやるよ。八百長で文田ってのが捕まっただろ。あれはシロだよ。あいつはやってねえ。お前がふざけた真似をしやがるから、ハメてやったんだ」

 やはり考えていたとおりです。驚いて呟こうとするも、息が喉を通るだけでなかなか声にならず、どうにか訊きかえすと下沢がまた笑いました。

「なぜ? いやその前になぜ私と文田さんの……」

「お前のことは調べがついてるんだよ。どういう理由で騎手になったのかもな」

 私は頭の中を整理します。下沢の前で文田さんの名前はいっさい出していません。そればかりか八百長について話をしたことがあるのも文田さん以外では下沢だけ。もしや同郷かつ旧知の仲であるのに目をつけ、私への報復のために狙いを定めたのか。何にせよ、あの日に下沢が口にしたのはただの捨て台詞ではなかった。本物の予告だったのです。

「でも、どうやって事件に巻き込んだんだ」

「決まってるだろ。一緒に騎手クビになった真木って奴に口裏合わせるよう言ったんだよ。ウチの組の紺野にもな」

 真木は、文田さんと同様に競馬界追放の処分を下されていました。実績は地味なものです。どこかの時点でまっとうな騎手の仕事を諦め、暴力団員の仲間入りをしてしまったのでしょう。文田さんはまんまと陥れられたわけです。

 とはいえ、まだ疑問はありました。

「そんなので文田さんに罪を認めさせたのか」

 しかも逮捕からたかだか一週間で、です。

「カンタンじゃなかったけどな。デカの拷問にもクチ割らなかったし。ただ、俺がサツと連んでるのを知るとたまげてたっけ。てめえにも見せてやりたかったよ。そのときの顔をよ」

 このあたりまではおよその見当がついていました。途中まで自供しなかったのに一転して罪を認めたのは、下沢が面会人を装って留置場に現れ脅迫を加えたため。ですが次の話を聞くと、息を呑まざるを得ませんでした。

「まあ、競馬の世界じゃ一流だったんだろうが、所詮はカタギだ。『これも尾本に余計なこと吹き込んだ罰だ。罪を認めれば尾本とカミさんの命は保証してやる。だが従わねえなら両方ともタマ取る』って揺さぶりかけたら大人しく従ったからな」

 私は絶望しました。下沢は私に八百長を拒否されるや報復の方法を探るべく早々に監視をはじめ、白井の分場に潜入して文田さんにその旨を報告したところを抑えていたのです。文田さんも、おそらくいちばん大事にされていたであろう穂希さんのために罪を被ったのでしょう。けれども私の存在は確実に足枷になっていたのです。

 いや、この言い方は誤りですね。元はといえば私の八百長を看破していたのに、見逃してほしいとの懇願に折れたばかりに身動きのとれない状態に陥ってしまったのです。たしかに取り調べの刑事なり面会に行かれた有村先生なりに事情を話せば、ご自身にかけられた容疑は否定できます。しかしその場合、文田さんは私が八百長をしていた事実を知りながら運営に報告せず隠蔽していたことになり、確実に二人とも処分を受ける。途中でそれに気づいたのでしょう。ならばと共倒れを避けるべく私の名前は出さずに黙秘を貫いたが、ついには犠牲は避けられぬものと覚りあの決断に至った。あんな形で信頼を裏切ったにもかかわらず。そう思えてなりません。

「どうする? これでもまだ俺に楯突くつもりか? 文田の好意を踏みにじるつもりか?また前みたいにやってほしいんだよ」

 下沢が一方的にまくしたてる間、私は混乱のあまり倒れそうになっていました。そんな中、もしここで抵抗すれば下沢の言うとおり文田さんの犠牲が無駄になるなどとまたしても自分に嘘をついて、いつの間にか頷いていたのです。

「はい」

「いい返事だ。じゃあ次の……」

 すると待っていたように八百長の指示が始まります。電話が終わるのを見て琴江がどんな用件だったか訊いてきたのも適当に流し、以後数年にわたってずるずると下沢に従ってしまいました。

 ただ、それも一時の誤魔化しに過ぎませんでした。ある日、気づいてしまったのです。

 このまま騎手を続けてはいけない。八百長を繰り返す理由を文田さんのせいにしているけれども、本当は自分が弱いだけじゃないか。甘えているだけじゃないか。こんな風にしていることこそ恩を仇で返す行為だ、裏切りだ。結局、私は半ば下沢と共犯のような形で文田さんを陥れてしまったじゃないか、と。要は月日の経過とともに罪悪感が積み重なっていくのに耐えられなかったのです。

 私は、宇治木先生に何の相談もせず騎手免許を返上しました。先生は激怒、理由を尋ねられましたがさすがに真相を明かすわけにはいかず、何となく騎手をしていくのが嫌になったとだけ答えました。結果、琴江とも離婚。それから穂希さんのご実家がどちらにあるのか以前お聞きしていたので、どうにか探しだして生活の援助をしたいと申し出ました。当初はどんな理由があるのかと訝られましたけれども、とにかく文田さんには恩があるのでとお話しして何年かお金を受けとっていただきました。

 もちろん、だからといって罪の意識は消えませんでした。直後に下沢の手が及ばない田舎に引っ込んでもいつ真実が暴かれるか分かりませんでしたし、延々と感じつづける鬱屈を罰と捉えて秘密を墓まで持っていくつもりでした。一応はそれをもってけじめをつけた気になっていたのです。でも高井さん、あなたが事実無根の噂で苦しんでいると聞いて、これではいけないと思い本日やって参りました次第です。


 尾本さんは、そこで深く長く息をついた。まるでこの場の空気すべてが足元に沈んでいくのではないかと錯覚するほど、部屋中が重い雰囲気に包まれた。

 俺は改めて驚いた。どちらも騎手である文田と高井くんは祖父と孫の関係にあるのみならず正真正銘、事実とは異なる噂によって追い詰められていたのだ。偶然と言うにはあまり奇妙な巡りあわせだった。

 高井くんも複雑な顔をしていた。当然だ。尾本さんが間違いを起こさなければ、自分の祖父が罪を被ることはなかったのだから。だがぐっと唇を結んで頭を下げた。

「ありがとうございます」

「止めてください。私はお礼を言われるようなことはしていないのですよ。まったく逆です」

 尾本さんが少し驚いて声をあげるも、高井くんはまたそれを押しとどめる。

「いいえ。今日こうしてお話をしてくださらなかったら、祖父が無実だったのかどうかさえ分かりませんでした」

 傍でちらりと目をやるだけでも、ここに来た当初あった緊張が消えているのが分かる。たぶん、思い切って恨みを捨てたのだ。たしかにこうして事件の一部始終を語ってくれたからこそ真相が解明できたわけだが、簡単にはできない。俺ならまず無理だっただろう。

 その高井くんが確実に報われるために、俺は口を挟む。〈文田事件〉のような本来の被害者が不利益を受ける結果に終わってはいけない。念押しだ。もう九月四日。時間がない。

「繰り返しになりますが、確認させてください。今のお話は公表させていただきます。よろしいですね?」

 尾本さんはこれに静かに頷いた。

「是非お願いします。実際どうなるかは分かりませんが、法の裁きを受けるのも、世間から厳しい目を向けられるのも覚悟できています。もしあなたが記事しないのであれば、私が名乗り出るつもりです」

 その顔からは、話の前に漂っていた暗さが大幅に薄らいでいた。まるで憑き物が落ちたかのような穏やかささえ湛えている。実に半世紀も一人で抱えてきた秘密を打ち明けられたのだ。こちらの事情で始まったこととはいえ、人ひとりの心を楽にする後押しができて満足だ。俺は尾本さんの目をじっと見た。

「では、さっそくそのようにさせていただきます」

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