エピローグ
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「武田さん──じゃなかった、文田さん」
声の方を振り向くと、首からネームプレートを提げた施設の職員が立っている。いつもの担当の方は別件で忙しいのだろうか。
「はい」
もう私は武田文夫ではない。別人を装って世を忍ぶ必要もなくなった。
文田猛志。生まれたとき親に付けられ、かつて騎手として世に知られた名前をこうして再び名乗れている。とはいえ長いあいだ仮名で過ごしていたせいで、本名で呼ばれても今のように時間がかかってしまうのに少しばかりの歯がゆさを感じていた。
しかし次の一言を耳にすると、そんなことは頭からたちまちのうちに消えさる。
「お孫さん、高井光さんがお見えになったようです」
ついにか。自ずと身体を包む空気が明るくなった気がした。それは周囲にも伝わったらしい。同室の友人たちが次々と祝福の言葉をかけてくる。
「文田さん。よかったな」
「今日まで頑張ってきた甲斐があったねえ」
私は杖を突いて立ちあがり、友人たちの手を握って扉の方へと歩いていった。
「じゃあ。行ってくるよ。自慢の孫に会ってくる」
続けて施設の職員に連れられて面会室に向かう間、ここ一か月半のうちに起こった出来事を思い出す。
私は、久しく社会への関心を断っていた。報道には積極的に触れないように努め、スポーツ、特に競馬は意図して目を逸らしていた。それでも施設のそこかしこにはテレビが置かれており、嫌でも何かしらが映っているのが視界に入る。そんな中〈文田事件〉が冤罪だと判明したというニュースと、私に孫がいるのみならず、どういう縁があってか騎手をしていることを知った。
やっと汚名が雪げる。心から嬉しく、一度は本名を名乗ろうと考えた。ところが実際どうすればいいか分からなかった。私はすでに新しい戸籍と住民票を与えられて別人として生きており、昔の身分を証明するものはとうに捨て去っていたのである。そのため役所への届け出などにもすっかり手間取ってしまった。
また数日経って、自ら渦中の人物として事実を公表するといった世間を騒がせるような真似は少し遅らせることに決めた。聞くところによると孫はようやく素質馬に巡り合い、クラシック初制覇に挑戦している真っ最中だという。そこを邪魔して、余計な時間と体力を使わせたくなかった。私自身が騎手だっただけによく分かる。本番が近づくと緊張で眠れなくなるのだ。幸運にも私は今日明日、人生を終えてしまうほど身体が弱っているわけではない。
だがその我慢もしなくていい。孫が菊花賞を勝ったのだ。私が二勝した菊花賞を。
直後に新聞社に連絡をすると、すぐ返事が来た。電話で聞いた声も他人の気がしなかった。まるで私の一部が孫に乗りうつっているかのような感覚だった。
むろん喜ばしい報せだけではなかった。妻と私の知らない間に生まれていた息子はすでにこの世を去っていたし、長いあいだ迷惑をかけてしまった北原さんも件のニュースが流れた翌日に息を引き取ったと聞いた。いずれも私が事実を曲げてしまった罰と受けとる他はない。せめて残された短い時間で自らを責めるのみだ。私は騎手生命を絶たれて社会的に一度死に、雪の日に牧場で倒れて二度死んだようもの。あのとき蘇生したのは奇跡に近かった。一昨日には藤吾もここに来て謝罪をしてくれた。私が罪を認めるに至った経緯も早いうちに覚り、長いあいだ苦しんでいたのが分かった。むかし私を取り調べた福守という刑事もだ。悲しみに浸ってばかりもいられない。
「さ、文田さん。ここからはお一人で」
そんな風に自戒の念を新たにしているうちに、面会室に辿り着く。扉の向こうには孫がいるのだ。
私は半ば震える手でドアノブを握り、押す。
すると、座っていた一人の若者が立ちあがるのが見えた。
顔の輪郭はやや細いが、目元は私と瓜二つ。雰囲気もどことなく親しみがある。これが孫か。私を日向に戻してくれた恩人か。若者は少し恥ずかしそうに笑って頭を下げた。
「初めまして」
私は何と言えばいいか迷いながら、自ら歩み寄ってその手を握った。
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