十五 提案 ②
翌日、雑用を終えた僕は厩舎の事務室に向かっていた。結局あの後は他に何も見つからなかったのである。いよいよ決断を実行に移すときが来たのだ。
緊張で足が震えているのが分かる。先生の返事次第では策を諦めなければならないと思うと、どうしても不安になる。とはいえ、このままじっとしていては事態は悪くなるばかりだ。僕は扉の前で足を止め、扉を叩く。
「失礼します」
「どうぞ」
続けてドアノブを引くと、先生の姿が見えた。テーブルに向かってキーボードに走らせていた手を止め、パソコンのモニターから目を離してこちらに視線を向ける。
「よろしいでしょうか」
「まずはそこに掛けて。で、話とは?」
あらかじめこの時間に相談があると──昨日はやはりお休み中であると知りながら電話で──伝えていたこともあってか、どうやらそれが深刻な内容であるのを察しているらしい。顔つきこそいつもと変わりないものの、部屋の空気が引き締まるのが分かった。
僕は椅子に腰を下ろし、単刀直入に切り出す。
「先生は尾本藤吾さんという方をご存じですか?」
「ああ、たしかかなり昔に宝塚記念を勝ったんじゃなかったか。名前だけは知っている」
「ということは、連絡先などは」
「私が競馬学校に入ったときには引退していたからさっぱりだ。地方の調教師や牧場、競馬関連の仕事に就いたとかいう話もない。引退後に別の業界に入る人も普通にいるし……」
調教師としては若い部類に入る先生でも、競馬界は僕より長い。ここへ足を運ぶ前に『引退騎手名簿』に載っていた番号に電話をかけたところ、使用されていないとの音声案内が流れたためまず訊いてみたのだ。当然、この答えは想定内である。
「その尾本さんが、どうかしたのか?」
「以前、ご報告した私に関する八百長の噂についてです。もしお会いして話を公開するのも許してもらえれば、まったくの事実無根だと誰にも分かるように証明できるかも知れないんです」
「まだ続けていたんだな。まあ、昔の騎手の名前を出してきた時点で分かったが」
「すみません」
ただ、仕事に集中するようにとお叱りを受けたのがたった一か月前だ。今日は怒鳴られるくらい覚悟はしていたのだが、先生は顎に手を当てて首を傾げる程度で声を荒げはしない。
「満足がいくレベルではないにしても、先週の競馬は若干良くなったんで止めたと思っていた」
「支障が出ない範囲で動いていました」
「月曜もしっかり休んでおけば、もっと調子が上向いていたわけだ」
多少は痛いところを突かれるも、調教師として当然の指摘だ。僕は下を向いて謝るのみ。
「申し訳ありません」
「まったく、私にこう言われるのを承知で相談とは」
しかしながら怒る気配はない。今だ。言葉が途切れたのを見はからい、僕は口を開いた。
「ですが、本題はここからなんです」
「今日ここに来たのはそのためか。具体的にはどういう事だ?」
額に汗が浮かぶ。先生の口調は相変わらず静かで、表情もまずまず穏やかだ。にもかかわらず嫌でも全身の神経が強ばるのを感じる。僕は胃のむかつきを抑えながら正面を見すえ、言葉を吐きだした。
「いま私が置かれている状況をSNSで公表し、尾本さんがそれをご覧になっていたらお話いただけるよう、そうでなくても尾本さんをご存じの方がいれば私への連絡を促してくださるよう呼びかけたいのです」
果たしてどうか。やはり止められるだろうか。息を呑んで先生の答えを待っていると、頬に皺が寄って喉ぼとけを顎の方へ上げるのが見え、数秒して鼻から低い息が漏れた。
「大なり小なり騒ぎにはなるな」
「ご迷惑をおかけします」
「私はSNSはやっていないが、たぶんマスコミが何社か話を聞きに来るだろう」
「仰るとおりです。そういった事態が予想されます」
「そのとき、私はどうすればいい?」
厩舎経営者となれば、影響が僕ひとりに留まらないであろうとの予測は容易に立つ。大賀さんが言っていたとおりだ。おかげでこの問いに応じる用意ができている。
「おかしな話になってしまいますが、先生は極力関わらない形でお願いします」
「たとえば、どんな風に?」
「中林さんとお話をされたのは事実なので、知らなかったことにはできません。ですが何か月か前に小耳に挟んだときは大事になるとは思わなかった、詳細は把握していなかった、本人に一任している等と答えていただければ。あと私がSNSで発信するのは事前には聞いていなかった、とも」
「そこは嘘をついた方がいいのか」
「尾本さんご本人や、ご親族から訴えられる可能性もありますので」
全て嘘偽りのない本心だ。これはあくまで僕の問題。その一方で実に都合のいい考えだというのも自覚している。いかに苦境を脱するためといっても、厩舎の皆に迷惑がかかるとなれば調教師として容認しがたいだろう。僕は唇を小さく噛んで先生の顔を窺った。
ところが今度は不快の色はない。逆に目元を和らげていた。
「高井の気遣いはよく分かった。だが私は余計な嘘はつきたくない。問題を高井ひとりに押しつけるつもりもない。そんな真似をすれば、所属騎手ひとり守れないのかとも批判されてしまう。それに以前、私も言ってしまったからね。大した手間だとは考えずに『やってみなさい』と」
のみならず苦笑いまで浮かべる。騎手を預かる立場もあるだろうが、そういった無味乾燥な一般論を述べただけのようには受けとれない。額の汗が引いていくのが分かった。
「では、いいんですか」
「駄目だと言えば高井が困るだろう。マスコミが来たら無実を信じている、私からも情報提供をお願いしたいと答えておく。エフタリテスの次走はセントライト記念で変わりないが、鞍上の決定はギリギリまで待つ」
「本当に、ありがとうございます」
僕は椅子に座ったまま、テーブルに手をついて頭を深々と下げた。こうして感謝の意を表したのは昨日と同じでも、顔を伏せる時間は今日の方が長かった。
「ただし約束してほしい。尾本さんと会うまでは、休日にあちこち動きまわって体力を消耗させるのは禁止だ。騎乗、調教、厩舎の仕事以外は身体を休めるのに専念して、SNSでのやりとりも尾本さんに辿り着けそうなものを除いて行わない。要は可能なかぎり競馬に時間を使うこと。もし尾本さんが見つかりそうになければ私に報告するように。行動の制限はそのときに解く。これらを全部守れるか。できなければ呼びかけも認めない」
何とありがたい話だろう。条件つきといっても、僕が再びエフタリテスに乗るのに──つまりはこの世界で生きていくのに──残された唯一の方法はもう尾本さんに真実を訊く、それだけしかない。空振りに終わったら潔く諦めるまでだ。実質、希望が丸ごと受け入れられたに等しい。
「たしかにお約束いたします」
僕が頭を上げて頷くと、先生は穏やかに口元を綻ばせた。
「呼びかけがうまくいくのを、私も期待している」
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