十五 提案 ①
僕はレースを終えた翌日、栃木の実家に車を走らせていた。途中で信号待ちをしている合間も、先週水曜スマホに着信があったときのことが頭に浮かぶ。あれは午前の調教が終わった直後だった。
「ご家族が、高井くんの知らない人から物やお金を受け取った書類とかないかな?」
大賀さんのメッセージを読んで真っ先に感じたのは、もしやの予感。というより、縋れるのはもうそこだけだった。迷わず昼食の前に母へ電話を入れ、開口一番に訊ねた。
「父さんとお祖母ちゃんの遺品、まだ捨ててないよね?」
「とんでもない。ちゃんと取ってあるわ。でもどうして?」
当然ながら母は詳しい事情など知らない。僕は手短に説明した。
「もしかすると誤解が解けるかも知れないんだ」
「本当? 帰ったら確かめとく」
受話器越しに聞こえる声は明るかった。あらぬ噂だとしても、マスコミが騒ぎはじめたら何社かは家に押しかけてくる。その可能性が薄れただけでも気が楽になったのだろう。
「ありがとう。来週、帰るから」
「分かった。何か見つかるといいわね」
電話を切るのは早かった。忙しい合間を縫って応答してくれたのに違いない。是非ともその期待に応えようと、出来るかぎりレースと調教に集中した。
そして今日。僕は実家に着くなり素早く車のドアを閉め、手提げバッグを片手に早足で玄関の扉を開けると、一言二言ばかり母と言葉を交わしてリビングの椅子に座った。目の前のテーブルにはこの間、戸籍を確認したときに用意してもらったのと同じ遺品が並べられている。
腕時計や指輪は後まわしだ。優先して見てみたいのは名前が残るもの。僕はそれらの中から最初にこの家の登記簿を取りあげ、隅から隅まで眺めた。しかし土地の前所有者は不動産会社で、それ以降に記されていたのは父、母、祖母の名前のみ。ならばと今度は祖母の古い通帳を開いてみる。強い確証があったわけではない。単に証拠書類に該当する遺品が他になかったのだ。もし大賀さんの考えが当たっているのなら、手がかりはここにある。仮に祖父が誰かを庇ったのであれば、生活費でも振り込んでいたのではないか。僕は心臓が大きく鼓動するのを感じた。これでなしのつぶてなら、もうどうしようもない。
こわごわと表紙をめくる。中は非常に見づらかった。現在の全て印字になっている通帳とは違い、当時のものは手書きだったからである。そのせいで筆跡もバラバラなうえ、一ページあたりの情報量も少なく紙をめくる手間ばかりかかる。テーブルに目をやればあと三冊も残っており、指を動かしながらかなり面倒な作業になりそうだと思いはじめた頃だった。
摘要欄にある個人名が書かれているのが目に入った。
「尾本藤吾」
知らない名前だ。少なくとも親戚にはいない。しかも預入欄だ。つまり、この人物が口座に振込をしていたことになる。
さらにページをめくると、その名前がほぼ一か月に一度の間隔で記されている。金額こそまちまちではあるものの、冊子の最後までずっと続いている。次の通帳でもだ。期間は一年や二年を優に超えている。これは仕送りなのではないか。
「どう?」
普段であれば母の問いにすぐ答えていただろう。だが僕はこの人物の正体を知りたい一心で聞き流す。そのあとで通帳を閉じ、スマホの検索エンジンで「尾本藤吾」と入力して幾つかのサイトをタップした。するといずれにも次のような記載があった。
元騎手。白井・宇治木厩舎所属。一九四四年生まれ、新潟県長岡市出身。騎手としての活動期間は一九六三年から一九七四年までで、主な勝ち鞍は宝塚記念。
祖父と同郷かつ同業。『引退騎手名簿』にそれらの項目がなかったこともあって、出身地は完全に盲点だった。現役時代が重なっており、引退時の年齢も三十歳とあまりに早い。騎乗に支障が出るほどの大怪我が理由なら説明がつくが、そういった記述もない。昔は今ほど長く現役を続けるのが難しかったとしても、体力面の限界を感じて騎手を辞めるには若すぎる。
僕はかなり遅れて返事をした。
「見つかった」
「本当?」
母も腰を上げ、僕の隣で通帳を覗きこむ。
「この人、知らないよね」
「知らない。お義母さんの通帳、こんなじっくり見たの初めて。誰なの?」
「騎手だった人みたい。まだ詳しくは分からないけど」
何にせよ、これで希望が繋がった。ウェブ上で公開されているプロフィールを複数確認しても没年の記載はない。事件を起こして競馬界を追われたわけではないことから、存命と考えられる。
ただ、問題はあった。この尾本さんとどうやって連絡を取ればいいのか。引退後、調教師や調教助手、競馬関連の仕事に就いたといった情報が皆無なのだ。当てずっぽうに方々を訊ねてもおそらくまともな回答は返ってこない。いま美浦にいる人間も顔すら見たことがないのではないか。
となれば僕が取れる行動はただ一つ。
「そうなの。ただ、それがあの噂と何か関係があるの?」
「ある。でもちょっと待って」
母の質問を再び保留し、いったん廊下へ出てからスマホで大賀さんに電話をかける。遺品を探すのは今日だと伝えたところ、必ず連絡を入れるようにと念を押されたのだ。一刻も早く結果を知りたかったのだろう、応答に出た声でそわついているのが分かる。
「今、大丈夫ですか」
「ああ。見つかったか?」
次いで僕がいま目にしたものを伝えると、嬉しげに短く叫ぶも受話器の向こうでカタカタ音が鳴った後に若干トーンが下がる。
「本当か! でも大きいとこは宝塚記念ひとつだけ、それも五十年ちかく前か。いや待てよ……ああ、どっちもダメか」
「どうされたんですか?」
「GⅠレースの前は結構な頻度で歴代レースのプレイバックを記事にしててな。関係者の思い出なんかをチョコっと載せてるだけなんだが、そのリストに名前があったような気がして見てみたんだ。連絡先は把握してるからね。でも勘違いだった。あと前に福守さんのときと同じやり方で探してみたんだけど、ヒットしなかった」
実を言うと、SNSでの検索はこちらでやろうと思っていた。尾本姓は他に見た記憶がなく、本名でアカウントを作成していれば引っ掛かるかも知れないと期待していたのだ。だがそれも当てが外れたとなると、やはり賭けに出るしかない。僕は腹を括った。
「それでしたら、試してみたいんです」
「何をだ?」
受話器の向こうで大賀さんが声を潜める。それから背後の雑音が小さくなっていき、完全に消えるのを待って電話をかける前に考えついたことを口にした。
「僕からSNSでやってもいない八百長をしたと根も葉もない噂を流され、風評被害を受けている事実を公表します。そのうえで疑惑を晴らすために尾本藤吾さんを探していると発信します」
「本気でやるつもりなのか」
「はい。これなら尾本さんがSNSをやっていなくても、手がかりが掴める可能性があります。少なくとも周りにいる方に協力を呼びかけられます」
「止めろ。傷口が広がるぞ。噂はまだ競馬関係者の間で共有されてる程度に留まってるが、それをやればファンにも確実に知れわたる。おまけに影響が出るのは高井くん一人じゃ済まない。児玉調教師にはどう説明するんだ」
大変に危険な策なのは理解していた。指摘のとおり、先生の許可も簡単には出ないだろう。
「そこは何とかお願いしてみます」
「仮に了承は得られたとしてもだ。尾本が八百長と無関係で、逆に〈文田事件〉と結びつけられて迷惑したとか言ってきたらどうする」
「何もしないよりはましです」
「難癖を付けられるレベルの問題じゃなくなるかも知れないんだぞ。存命なら七十台後半だが、下手をすると訴訟を起こしてくる恐れがある。本人が亡くなっていても、遺族が動くことだってあるんだ。裁判沙汰になれば高井くんの評判は落ちる。場合によっては騎手を続けられるかも危ぶまれるくらいにだ。少なくとも騎乗依頼は減る。厩舎にだっていられるかどうか……。民事だけだって、お互い徹底的にやるとなれば結審まで何年もかかる。尾本の情報を持っている人物がいたとしても、自分も訴えられたらと思うとおいそれとは協力できないんじゃないのか」
大賀さんは真剣だった。顔が見えなくても、張り詰めた空気が伝わってくる。だが、もう心に決めていた。祖父に対しては以前に現役だった頃の映像を見たとき自覚した尊敬の念だけでなく、たぶん北原さんにお会いして写真を受けとったからだろう、だんだん性格などの一致を見いだして完全な別人格とは思えないほど事件当時の境遇に共感するようになり、今などはその魂の一部が乗りうつったような気さえしていた。
「でも美浦ではもう噂は広まってるんです。じっとしてたってファンの耳に入るのも時間の問題でしょう。だったら僕が動いた方が得策のはずです。もちろん先生には相談して、断られたら諦めます」
だからこそ同じ轍は絶対に踏むまいと、座して死を待つよりは勝負に出る心構えができていた。失敗したときのリスクは元より覚悟のうえだ。その気迫が伝わったか、大賀さんは溜め息をつきながらも声を和らげてくれた。
「分かった。俺は高井くんの決断を尊重する」
もし最後まで止められていても、僕はこの考えを実行に移すつもりだった。それでも背中を押してくれるのとそうでないのでは心強さが違う。自然と感謝の言葉が出ていた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。どうせ俺が何を言ってもやるつもりだったんだろ?」
「そうです」
同時に緊張が解けたらしく、頬の筋肉と口角が上がる。
「だったら安心だ。ただしSNSで発信する以上は言葉に気をつけろ。一回、俺の方で文面を確認してもいい。ちょっとしたところに目をつけて揚げ足をとる奴はいるから、隙は見せるな。それと、いつ投稿するかも知らせてくれないか」
「どうしてですか?」
「高井くんの投稿を偶然見た風に装って、俺が先に紙面に掲載した記事を再度SNSで取りあげる。個人のアカウントにもデカデカと社名載せてるからな。本人がそれを目にしたら逃げられないと思わせて、周りも居場所とかを連絡するように仕向けるんだ。まあ実際はどうなるか分からない。本人がその気になればシラを切り通せるだろうし、大した話題にも上がらず尻すぼみになっちまうかも知れないけど」
「重ねがさね、ありがとうございます」
さらに頭を二度、三度と下げていた。そこまで助けてくれるとは、もう何と言ってよいか分からない。
「だからいいって。こっちの思惑もあるんだよ。例の記事が社内でも妙に評価されちまってな。今でも腑に落ちないんだが、ここまで来たからには波に乗ろうと思ったんだ。高井くんが発信してくれれば、俺の評判もますます上がるに違いない。もっともウチの社が受けるメリットは、僅かばかりの広告収入くらいだろうが」
あの記事で僕の存在が伏せられていたのは、上司の命令によるものだと聞いている。SNSでの発信が社内で影響のないはずがない。笑ってはいるが明らかに強がりだ。
「大賀さん……」
「心配するなって。多分、ポジティブな反応が返ってくるさ。流れをこっちに引き寄せちまえば文句は出ない。まずは児玉調教師に話をしての結果次第だろうから、呼びかけの文面はそのあとで考えるんだな。じゃ」
大丈夫ですか、と口にする前に通話が切られる。厚意を無駄にしないためにも、明日すぐ先生に相談しよう。スマホを切ってリビングに戻ると、まだ問題は解決しきっていないのに母さんが嬉しそうにこちらを眺めていた。
「電話、終わったのね。お知り合い?」
「お祖父さんについて一緒に調べてくれてる記者の人だよ。言ってなかったけど、先週スポーツ新聞にも記事が載ったんだ。うちに手がかりがあるんじゃないかってアドバイスくれたのもその人」
「そう」
次いでテーブルの上に視線を移す。
「これ、どうするの?」
「念のため、ひととおり確かめておくよ。終わったら戻すから」
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