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冤罪  作者: 新宮義騎
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十四 転換 ②

 翌週、俺がオフィスのデスクで予想を立てていると野山さんが声をかけてきた。

「例のやつ、まずまずの反応じゃないか」

「本当ですか」

 記事が載ったのは昨日の朝だ。あれから乾さん以外の三人にも──北原さんは娘さんを通して、福守さんは相変わらず名前を伏せてという条件のもと──許可を得たうえで執筆した。多少の校正は入りながらも本筋の修正はなし。俺自身の憶測や恣意的な誘導と取られる表現は避け、なおかつ文田が潔白である可能性を示唆した内容の記事を載せることができた。紙面に与えられたスペースは何とも微妙な位置にあったが、ウェブ版ではそれは気にならなかったのだろう。パソコンのブラウザからページを見てみれば、なるほどその言葉どおりになっている。

「閲覧数、伸びてはいますね」

「苦労して掲載に漕ぎつけた割には、そっけないな」

「最後まで書いたわけではないので」

「まあいい。一日でこれなら、悪くないと思う。だからか、編集長も珍しく機嫌がいい。SNSのトレンドに上がってたのも大きいだろう。コメントが結構ついてたよ」

 アクセス数が多ければ広告収入も増える。会社にとっては小遣い稼ぎ程度の額でも、少ないより多い方がいいに決まっている。また他社に後れを取らずに済んだのも嬉しかったに違いない。現にSNSを覗いてみると、キーワードこそトレンドから消えていたものの検索結果の最上部に記事が出ていた。コメントも好意的なものばかりだ。

「いまちょくちょく冤罪が問題になってるけど、昔もあったのかも知れない」

「昔は反論する手段も少なかったから、大変だったでしょうね」

「一部で言われてるみたいに不自然なところがあるよね。八百長はやってないと思う」

「この事件知ってる。当時大騒ぎになったみたい」

 最近SNSを覚えたばかりの人間がこれを見れば、気をよくするであろうことは容易に想像できる。だが所詮は一般的な感想でしかない。俺は思わず呟いた。

「こういう反応があったんですね」

「やっぱり、やけにあっさりしてるんだな」

「すみません。何だか今日は気分が乗らなくて」

「謝らなくていいよ。そういうときもあるさ」

 野山さんが仕事に戻って再び一人になった後でその理由を考える。あれだけ理不尽な罵声を浴びせてきた編集長に提案を呑ませたというのに嬉しくない理由をだ。

 答えはすぐに出た。高井くんが報われていないからだ。中林オーナーが俺の記事を読んで高井くんへの疑惑を払拭してくれていたら気も晴れるのだが、今のところそのような報せはない。これまで行動を共にして、高井くん自身は八百長などしていないという直感がある。そうでなければ、週にたった一つの休日を潰して何度も人に会いにいかない。いくら若くても、レースや調教で疲れた身体に鞭打って長距離を移動するのは負担が大きい。もしクロであれば、もっと前に手を引いている。〈文田事件〉の真相を究明すべく共闘しはじめたころ少しばかり頭にあった、現在進行形で流れている八百長の噂に関する疑惑は完全に消えさっていた。

 俺は試しに高井くんの最近の成績を調べてみる。ここ一か月で挙げた勝利はたった二つだけ。その間の騎乗数は六十五と、勝率は春先と比べて大幅に落ちている。内容もかなり悪い。人気馬にあまり騎乗していない点を考えに入れても、着順が人気を下回っている場合の方が多いのだ。先週土曜だけでも二番人気九着、七番人気七着、五番人気十一着、一番人気四着、八番人気十四着……。若干期待を裏切ったというレベルではなく、かなりの大崩れが続いている。勝ったレースも片方は単勝二倍ちょっとの抜けた本命馬に騎乗してのもので、二着につけたのはクビ差の接戦と手放しで喜べる内容とは言いがたい。期待の若手・高井光らしからぬ成績である。体調が優れないのは明らかだ。やはり本業に悪影響を及ぼしてまで嘘をつく必要はない。改めて高井くんはシロだと断言できる。しかし悔しいことに、それを証明する手段が皆無なのだ。あるのは状況証拠のみで、第三者を説き伏せる材料にはならない。

 半ば競馬史から葬られた文田の潔白を証明する決定的証拠も、すでに入手不可能のような気がしていた。今さら新たな手がかりを見つけるのは難しい。もし他に誰かいるなら乾さんが紹介、あるいは探してくれているはずだ。いずれの話もないのは、もう八方手を尽くしているためだろう。

 俺は感情面では高井くんを助けたく思うも、半ば諦めかけていた。気晴らしのためにいったん腰を上げ、薄汚れた自分のコップにコーヒーを注いで席に戻り喉を潤す。

 せめてもの希望といえばエフタリテスくらいだが、菊花賞に向けての雲行きは怪しくなっている。一頭、不気味な上がり馬がいるのだ。夏前に未勝利を脱出したニアンフレイグが、続けざまに一勝クラスを楽々と卒業した余勢を駆って、三週間前に行われた古馬混合の二勝クラスも八馬身差で圧勝していたのである。こうしてパトロールビデオを確認してみても、実に堂々たる走りっぷりだ。

 また要注意の馬がもう一頭。ラジオ日経賞の勝ち馬ジーシースクエアだ。三連勝で重賞を制した先月同様に好調を維持しているらしい。厩舎がきっちりとした育成方針を貫き、むやみやたらと筋肉をつけるのではなく、持久力重視の調教メニューを与えて長距離の菊花賞に照準を合わせている様子が写真を見るだけで十分に窺えた。

 そして現時点での一番人気が予想されるコルドロンスヴォーは、聞くところによると以前より動きがよくなっており、胴も気持ち伸びているという。関係者の目が節穴でなければ、春の時点で馬体は完成していたとの評価を覆してさらなる成長を遂げたことになる。

 ちょっと頭に思い浮かべるだけでも強敵が三頭おり、いずれも鞍上はおのおの月川、菅沼、葛城が継続して騎乗の予定。それ以外の春に実績を残した馬たちも大半が菊花賞に向かうようだ。能力が開花途上のエフタリテスにとってただでさえ容易ではない挑戦なのに、乗り替わりとなるとますます厳しくなる。

 本番で優勝できるのは、得意の持久力勝負になったときだけだ。トップスピードと瞬発力で他に劣る以上、スタート直後に前目のポジションを取って早めに仕掛けるしかない。場合によっては自ら先頭を切ってラップを刻む作戦も選択肢に入る。問題は逃げにせよ先行にせよ、騎手が馬の力を信じ、同時に見極められるか。競馬はここが難しい。レースでは刻々と状況が変化する中、複数の判断を矢継ぎ早に下して最善の答えを導く必要がある。ましてや菊花賞はどの出走馬も初体験となる三〇〇〇メートルだ。普段の調教で乗っていてさえ、並みの騎手ではよほどの信頼関係がなければそれら全ての完遂はできない。経験でそこを埋めるとしても、実力のある騎手は先約が入っている。今から確保するのはほぼ不可能だ。

 いけない。どうにかしてエフタリテスを高井くんの手に戻すんだ。そうでなければ俺の気が済まない。デスクに肘を突き、額に掌を当てて考えた。今まで聞いた話の中にヒントはなかったのか。本当に見落としはなかったのか。もう一度、記憶を手繰りよせる。

「いわゆる一匹狼だった」

「ふだん覆い隠してる本性」

「誰かを庇ってるのか?」

「厩舎の枠に捉われずにヨソの馬乗りと仲がよかったり」

 ここまでは分かる。多分、文田は自らの意思で誰かの代わりに罪を被った。もともと慣例や周りの雰囲気に流されず、気の合う仲間と交流する質だったのだろう。だからこそ北原さんや有村調教師が厩舎内外を問わず方々を訊いて回っても手がかりが得られなかったのだ。

 果たしてそれは誰なのか。もう一度『引退騎手名簿』で同じ時代に現役だった人物を探すにしても、残された時間はあまりに短い。おまけに該当の人物が同業者である保証もない。北原さんのような騎手以外の競馬関係者と親しかった可能性もある。手当たり次第ではまず無理だ。どこかポイントを突かなければ。実際、そんなものがあるかどうかさえ不明だが。

「例の原稿、行き詰ってるのか?」

 不意に声をかけられ、顔を上げると野山さんが椅子を近づけてこちらに来ていた。

「まあ、ちょっと」

 俺がちょうど軽く頭を掻きむしったタイミングだった。この姿勢で誤魔化すのは難しいと思い、小さく首を縦に振ってみせる。

「しかし大賀くんもおかしなところで力が入るんだな。書きたかった記事が書けたのに反応が薄いと思ったら、今度は妙に気負ってるし。まあ、初回が好評だったんだ。見たまま、聞いたままを紙に落とせばいい。いつもみたいにな」

 どうも野山さんは筆が進まないのを悩んでいるものと誤解しているようだ。

「いいえ」

 違うんです、と俺は事情を説明しようとして止める。高井くんとの個人的な関係を口にしても事態は変わらない。殊によると編集長の耳に入り、余計な真似をするな等と咎められる恐れがある。何より無闇に人に教えるべきではないもののような気がして言い直すや、野山さんはそれを自分なりに解釈したのか肩に手を置いてくる。

「何でもありません」

「ストレス解消くらいなら手伝うから、遠慮するなよ。この間の飲みで大賀くんが連れってくれた店、よかったじゃないか。そのお礼じゃないけど、次は俺の知ってるいい店、紹介するからさ。また行こう」

「ありがとうございます」

 話を終えた俺は再びコーヒーを啜り、机の上に置いておいたビスケットの袋を開けた。勘違いをしたままだったとはいえ、野山さんの言うことには一理ある。焦っているときほどひと呼吸置いた方がいい。思い出してみれば、高井くんと一緒に行動するようになってからほとんどアルコールを口にしていなかった。野山さんに誘われて本当に久しぶりに飲んだときもビールをグラスで三、四杯程度。俺にとっては少量だ。

 お礼、か。腹の中で呟く。このところ野山さんと一緒に食事をする機会が増えたなと思ったくらいで、それ以外の深い考えはなく頭の片隅で薄ぼんやりと反芻してみただけだ。

 だが数秒後、もしもの想像が頭に浮かんだ。

 そうだ! 本来、自身の負うべき罪を別人が被ったとなれば当人は恩義を感じる。義理堅い性分の持ち主なら、礼をしようとするだろう。それは例の事件にも当てはまるのではないか。たとえば文田の庇った人物が親族へ補償をしていた、など。ダメでもともと、調べてみる価値はある。

 この時間、高井くんは忙しいだろう。電話は避けた方がいい。俺は椅子に座りながらすっと背を伸ばし、スマホに手を伸ばした。

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