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冤罪  作者: 新宮義騎
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十四 転換 ①

 オフィスで仕事をしていた俺は、名前を呼ばれて顔を上げた。

「大賀。こっちへ来い」

 声の主は編集長だ。難しい顔をしている。嫌な予感はしつつも行かないわけにはいかず、しぶしぶ腰を上げて足を運ぶといきなり詰問が始まった。

「お前が追いかけてる高井の噂……というより、〈文田事件〉について調べは進んでるか?」

 編集長には結果を出せと釘を刺されている。ここ一か月あちらからのアクションは皆無だったため不意を突かれた格好で、正直なところ答えたくない。かといって黙っているわけにもいかなかった。

「はい」

 嘘ではないにせよ、進捗は順調とは言いがたい。いいところまで行った北原さんの話も、その先の情報が追えず行き止まりになってしまっている。

「真相は分かったか?」

「いいえ」

 前回は野山さんのとりなしで何とか乗りきった。しかし、それも前述の条件を付されてのことである。まずい、怒号が飛んでくるかと身構えるも、編集長の反応は穏やかだ。

「じゃあ何をしていた? 昔の記事は漁ってみたか?」

「目ぼしいものはありませんでした。ようやく見つけた十数年前のゴシップも、どうやらガセだったようでして。ただ、当時の関係者をどうにか……」

 俺は訊かれるまま、高井くんと会った木戸以外の四人の名前を挙げた。すると編集長はほとんど間を開けずに口を開く。

「それを載せる」

「はい?」

 俺は返ってきた言葉が予想外なあまり、声を上ずらせてしまった。だが編集長はこちらを軽く睨んだ程度で軽く流し、いつもと変わりない調子で話を続ける。

「お前が調べた〈文田事件〉の記事を書け。ここまで追った、程度の内容で構わない。一回じゃ終わらないだろうから不定期連載だ。ただし紙面はそこまで割けない。短く纏めろ。具体的な字数は後で伝える。あと騎手の高井にかけられた八百長疑惑に触れると、児玉厩舎との関係が悪くなる恐れがある。そこは伏せてウチが〈文田事件〉にだけ当たった形にしろ。初回は来週の火曜だ。分かったか?」

 どんな心境の変化があったか知れず、指示された記事の内容も俺が提言したものの半分ではあるが、兎にも角にも取材が認められた。編集長が苦々しい思いでいるのが伝わってくるのも相まって、自然と頭が上下に動き口角が上がる。

「分かったら早く自分の席に戻れ」

 相変わらずぶっきらぼうに命令されても、もう気にならない。傍目にも意気揚々という風に映るのは確実と断言できるほど、席に戻る足取りも軽くなっていた。

「ラッキーだったな」

 椅子に座るや、真っ先に話しかけてきたのは野山さんだ。俺は編集長が意図的にこちらから顔を背けているのを目視し、声を潜めて訊ねる。

「どういう風の吹き回しでしょうね」

 すると俺以上の笑みが返ってきた。心なしか声も得意げに聞こえる。

「何だ、知らないのか。よっぽど忙しかったんだな。これ見てみろ。いま出すから」

 そう言って手元のマウスをクリックし、ノートパソコンに映しだしたのは他社の記事だ。配信元は〈列島スポーツ〉で冒頭、次のようにあった。

「多くの人が当たり前のように信じている競馬の血統表も、実際には幾つもの誤りが存在しているのが近年の研究によって明らかになっている。我が国でも疑わしい噂が流れた例があり……」

 何だ、前に編集長があれほど腐した馬券と関係のない過去の事件じゃないか。スケールも〈文田事件〉や俺が以前に調べようとした海外の例より小さい。

「これがどうかしたんですか?」

「紙の購買数が増えたって訳じゃないんだが、このページのアクセス数が多くてな。何の偶然か、編集長がちょうどSNSを始めたタイミングで一時的に検索ワードに上がってたみたいだ。それを見てビビったらしい。大きいニュースの出にくい夏場だし、ウチも似たようなの取り上げようって言い出したんだ。まあ、秋に有力馬が始動するまでの繋ぎだな。後は空いた週にちょくちょく載せる形になるんじゃないか」

 この記事も連載形式になっているので現時点では結末の断定はしかねるものの、おおかたの予想はできる。おそらく真偽不明で終わりだ。過去にそうした疑惑をかけられた馬は可能な限りの取材や調査がなされており、もし噂が事実ならとっくにその旨が広まっているはず。誰も騒いでないのは確証が掴めていないからだ。なればこそ編集長は〈文田事件〉が真相究明に至っていないのを承知で俺に白羽の矢を立てたのである。

「つまりは二番煎じでのアクセス数稼ぎと、紙面の穴埋めって訳ですか」

「そういうこと。ちょっとだけだが、俺のアドバイスも後押しになったかもな」

 拍子抜けした俺は、鼻から溜め息を漏らしていた。不定期連載と言えば聞こえはいいが、要はネタに困ったときのストックだ。編集長は積極的に俺の意見を採用したのではなく、適当なトピックが手元に転がっているのに目をつけて利用しようとしているのである。

「にしても、不満そうな顔に見えるが」

「制限も多いし、内容も不完全ですし」

「ずいぶん贅沢だなあ」

「もちろん嬉しい部分もありますよ。罵声も浴びせられませんでしたし。あと遅れましたが、改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます。編集長のお言葉があったのは、野山さんが助けてくださったおかげです」

 とはいえ、俺には編集長の言うとおりにするより他に選択肢がない。

「じゃあ今日の帰り、一杯やるか? 仕事が早く終わればだが」

 野山さんに〈文田事件〉へのこだわりはないだろう。単純に編集長が折れたのに機嫌をよくしたといったところか。何はともあれ、恩がある。この誘いには応じるべきだ。

「はい」

 俺はその後、具体的な字数の指示を受けて起稿をはじめた。あれだけ腐心した甲斐もあって、誰に何を訊いたかはしっかり覚えている。メモも常に持ち歩いていた。時おりボイスレコーダーで各人の発言を振りかえりながら、それらを文字に起こしていく。その中でふと気づいた。

 全員、程度の差こそあれ高井くんのために話をしてくれたのに、当初の合意とは違う形で記事にするのはまずいのではないか。作業もさして先には進んでいない。早めに確認を取っておいた方がいい。

「少し失礼します」

 俺は席を立ち、フロアを出てスマホを取りだした。

 まずは乾さん──念のために高井くんから連絡先を訊いておいたのだ。電話をかけると、すぐに応答があった。

「〈スポーツ東都〉の大賀です」

「おお。お久しぶりです。この間の話は、高井さんから聞いていますよ。北原さんも満足されていたそうで……」

 受話器越しながら、以前と同じく年齢の割にお元気な様子が窺える。たった一週間前に北原さんにお会いしたばかりということもあって、いっそう違いが際立った。お身体を悪くしているところへ押しかけたにもかかわらず、未だ目的を果たせていないのである。それだけに、こんなお願いをするのは心苦しい。少なくとも事件の当事者への思いは俺より強いのだ。

「そこでたいへん恐縮なのですが……」

 ただ、だからといって黙っているわけにはいかない。俺は事情を打ちあけ、道半ばの不完全な形ながら記事にしたい旨を伝える。

「……結論は出なかったかも知れません。でもあの事件が冤罪だった可能性があることを、少しでも多くの人に知ってもらいたいんです。取材の足跡を残したいという私個人の思いもあります。いつ紙面に載るかは初回を除いて未定ではありますけれども」

 もしここでダメだと言われれば、記事を出すのは止めるつもりだった。編集長に怒鳴られようが罵られようが、不誠実な真似はしたくなかった。そしてその覚悟は通じたらしい。受話器の向こうから明るい声が聞こえてくる。

「大丈夫ですよ。思いどおりの結果でなくても、何もないよりずっといいじゃありませんか。むしろあなたと高井さんには私の方からお礼を言いたいくらいです。あの事件を掘り起こしてくれたんですから」

 競馬ファンに長く接してきた経験が、理解を後押ししてくれたのかも知れない。社会一般の反応はともかく、スポーツ紙の競馬予想に目を通す人間は馬券が第一で、過去の事件に興味がある読者は購買層の中でも少数派。そもそも競馬はギャンブルであり、普通は編集部が進んで記事にしない類の内容なのは百も承知なのだ。

「ありがとうございます」

 何にせよ、乾さんの助力がなければ〈文田事件〉をここまで追いかけることはできなかった。俺は人気のない廊下の隅でスマホを耳に当てたまま深々とお辞儀をし、また頭を上げ短い挨拶を述べて電話を切った。他のお三方もこの調子でいければありがたい。何とかして快諾をいただけないだろうか。俺は幾ばくかの不安を抱きつつも指でスマホのモニターをなぞり、次に連絡する小久保さんのアドレスを呼びだしていた。

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