十三 同僚 ②
俺は即座に飛び起きて、先生を探しにいった。すると先生も同じだったらしく、すぐに見つかった。お顔は真っ青だった。
「大変だ。猛志が事件を認めたんだと……」
「はい。いまラジオで聞きました」
「何かの間違いだ。猛志は俺に約束したんだ」
「とにかく行きましょう」
「ああ。研蔵、明日はお前も来い」
俺は力強く首を縦に振って先生を落ち着かせようとした。けどその後も視線があちこち行き来してたり、頬が引きつってたりと先週の比じゃなく取り乱してて、厩舎の皆にまた話をしても今度はなかなかざわめきが収まらなかった。様子がおかしいのは誰の目にも明らかだった。
そして翌日だ。俺と先生は面会室に入るなり、真っ先に窓ぎりぎりまで椅子を寄せて座った。猛志の顔についてた痣は一つだけだったが、襟口や袖口から皮膚が赤く腫れてるのが見えて、陰湿な拷問を受けたのが分かった。俺や先生が危惧したとおりだった。
何より驚かされたのが灯の消えたような瞳だ。いつもは物腰こそ静かでも目には光が宿っているのに、このときは霞がかかっているどころか、一面の黒に染まってた。悔しさだとか、情けなさだとかの表情がなくなっていたのよりも、そこがいちばん異様だった。
「猛志、何でだ!」
開口一番、先生は大きく叫ばれたが、怒鳴り声ではない。ひたすら嘆き悲しまれているのが聞きとれた。この声を耳にすれば何も感じないはずはないのに、猛志は俯くばかり。
「何か言え。それまで俺はここを動かん」
俺も先生に続いて言葉をかけた。猛志が口を噤んでいるのが納得できなかった。
「黙っていちゃ分からねえぞ。先生に申し訳ないとは思わねえのか。聞いた話だと猛志、お前やってないんだろ? 自白しねえって約束したんだろ?」
同時に、それを破ったのにも事情があるに違いないと踏んだ。でなければ、面会に応じるはずがない。隠しごとは後ろめたいもんだから、良心に訴えかけようとしたんだ。猛志も震えながら唇を開こうとするのが見えた。俺は拷問に屈したのを詫びてくれるのだろうと期待した。
しかし最初の一言でそうした考えは吹きとんだ。
「大変申し訳ございません。私は八百長をしてしまいました。やっていないと先日、答えたのは嘘でした」
どうにか喉の奥から絞りだしているような、今までにないほど細く小さい声だった。喋り方が前とあんまり違うんで、そんな風になってるのがこの答え自体が嘘だからなのか、それとも八百長をした挙げ句こちらを騙したのを恥じているためなのかが分からず、俺は狼狽えちまった。
かたや先生は猛志を微塵も疑っていなかった。感情を爆発させて思いきり怒鳴ったんだ。
「ふざけるな! 刑事からひどい目に遭わされたとしても、俺と約束したじゃないか。なのにこの期に及んで嘘をつくとはどういうことだ! 八百長はやってない。そうだろう」
「いいえ。私はたしかに競馬で不正をはたらきました」
「じゃあ言ってくれ。競馬に真面目なお前が八百長を始めたのはいつだ? 何がきっかけだ? 何が不満だったんだ?」
くわえて口をへの字に曲げ、顔を真っ赤にしながら縋りつくように語りかけてた。後で振りかえってみると、理に適った質問でもあったように思う。八百長してたってのが嘘偽りじゃないなら、すぐ答えられなきゃおかしい。多分、先生は真実を知りたい一心でとっさに訊かれたんだろう。事実、猛志が次に口を利くまで五、六秒くらいの間があった。しかも言葉にするべきかどうか迷ってたんじゃない。何度か声を出しかけて止めてた。意表を突かれて驚いたんだ。
「あれが最初です。八百長をしたのはお金のためで」
猛志が最後まで言う前に先生が反射的に遮った。俺と同様、この反応を不審に思ったんだ。
「嘘だ。それが嘘だってのは分かるぞ。いま迷ったもんな。やっぱりお前はやってないんだ」
先生の再度の指摘にも口を噤むのを見て確信した。猛志はやってない。普段は感情を隠しているが、人を偽るのは苦手な性分なんだ。そういう人間が八百長などできるわけがない。俺も横から問いつめた。
「何で嘘ついてんだ?」
猛志は相変わらずだんまりだ。否定もしない。やっぱりだ、と俺は腹の中で呟いて足りない頭を捻った。
八百長をやっていないにもかかわらず、自分の仕業だと言い張るのはなぜか。本来はそんな真似をして得られる利益なんかないのにだ。だとしたら必ず訳がある。とはいえ、暴力団員が競馬でイカサマをはたらいたと証言したのは事実だ。
ならば理由はこれじゃないのか。俺は少し間を置いて追い打ちをかけた。
「誰かを庇ってるのか?」
体力も気力も十分な状態の猛志なら、うまく煙に巻いていたかも知れない。ただ理不尽に身体を拘束され、拷問を受けた後でそんな余力はなかったんだろう。びくりと肩を大きく震わせるのがしかと見てとれた。ヤマ勘が当たったんだ。
「庇ってるんだな?」
俺はここで隙を逃すまいと畳みかけた。
「誰なんだ?」
だがその先の反応はなかった。
「誰だ、誰だ」
訊くたび辛そうに顔を歪めつつ、むりやり唇を閉ざしてテコでも喋らない。ついには立ちあがって後ずさりをし、床に膝をつき、顔も伏せる。土下座だ。
「このとおりです。お話しすることはありません。私は八百長をはたらいたのです。先生、大変ご迷惑をおかけしました。どうか破門にしてください」
「馬鹿野郎!」
先生は三度目の怒鳴りをあげながらも、なお猛志を見捨ててはいなかった。腰を上げる際も荒々しく椅子を蹴りたおす傍らで大粒の涙を流されていた。気づいた時には俺も叫んでた。
「お前、先生のこの姿見ても何とも思わねえのかよ」
猛志は、もう俺たちと縁を切ろうと決めてたんだろう。少しして意を決したように身体を泳がせて扉の向こうへと引っ込んでいった。その際、一瞬だけ上げた顔が悲嘆に暮れていたのが目に入った。
俺は泣き崩れる先生を抱きとめ、助け起こした。
「先生、厩舎の皆に訊いてみましょう」
一緒に気落ちしてる場合じゃない。まだ自白しただけだ。裁判さえも始まってない。その前に出来ることは全部やり、必要とあらば怪しい奴は締め上げるつもりでいた。
「そうだな」
先生のお返事に偽りはなかった。次の日、厩舎に出ると真っ先に事の次第を皆に告げ、一人ひとり八百長に関わってないか、猛志が誰か庇っているのであれば心当たりはないか訊いて回った。俺も白井の調教場をあちこち歩きまわったが、手がかりすら得られなかった。
「僕は八百長なんてしてません。文田さんが特別な誰かと親しかったかも知りません」
「わりあい一人でいるときが多かったような気がするし……」
「先生や北原さんとは違って、私たちはそんなに深い付き合いはなくて」
そうこうしている内に猛志に有罪判決が下り、早々に刑が確定した。控訴もしなかったからな。釈放前に申し込んだ面会も拒絶され、以後は音信不通。あいつは何も言わずにどこかへ行っちまったんだ。
先生が調教師を辞められたのはその翌々年だ。表向きはご家族の都合と仰ってたけど、少なからず猛志の件が影響してたと思う。心情的に事件前と同じ形で競馬に関わるのが嫌になったんだろう。さらに半年後、直後に俺が会いにいったときもこう口にされてたよ。
「俺はまだ猛志を信じてる。あいつは絶対やってない。今も証拠を探してるんだ。猛志本人も、人づてにどこにいるか調べてるとこだ」
本心ではあったんだろうな。でも世間的には猛志が八百長をやったことになっちまったのと、限られた手段でどうにかしようとしてもお齢で身体が思うように動かなくなったのに失望されてた様子だった。気力の衰えがお身体の衰えに繋がってたのかも知れねえ。程なくしてだんだん病気がちになり、ご挨拶に伺うたびに元気がなくなっていき、ついには亡くなってしまった。
「俺も猛志が無実だっていう証拠を集めようとしたが、無理だった。先生ほどの人脈はなかったし、厩舎が解散して新しい仕事場が決まると慣れるのに精一杯でな。特に最初の頃は色んな人に猛志について訊いてまわったけど、早々にその相手もいなくなった。仕事を辞めた後となればなおさらだ。そんなこんなでいつの間にか、俺も先生と同じように身体が動かなくなっちまったってわけだ。これが俺の喋れること全部だよ……」
ここで北原さんはようやく大きな息をついた。元から血の気の薄かった肌は、ますます白くなっている。現に話の途中で何度か息切れしており、僕が「少し休みましょうか」と声をかけても「大丈夫だ」と断られ、気迫に押されて最後まで聞いてしまった。それも今になってやはりまずかったのではと思いはじめている。
むろん大賀さんも体調を心配していたようだった。僕より早く異変を察知してナースコールのボタンを押し、部屋の外で待っていた玲子さんを呼んだ。その玲子さんと看護師は多少怪訝そうな顔はしていたが事態を予測していたためか僕たちを責めはせず、北原さんにいたってはご自分のことでやっとのところ、軽い処置を施されると僕たちに優しく言葉をかけてくださった。
「気にするな。俺が喋りたくて喋ったんだ」
幸い、すぐさま生命が危なくなるほど重篤な状態になったわけではない。呼吸は数分で整い、苦しげだった表情も穏やかになっている。とはいえ看護師が再び部屋を出ていってもベッドに横たわったままで、張りのあった声は受話器越しに耳にした痩せ細ったそれに変わっていた。
「今日はこうして話ができて本当によかった。俺は猛志との思い出が一杯ある。だから助けてやれなかったのだけが心残りだったんだが、孫がいるんなら心強い。濡れ衣を晴らしてくれると信じとる」
半ばうわごとのような呟きを聞きながら、僕は頷いた。話が始まってから終わるまでの短い間、北原さんが急激に老けこんだように見えた。正確に言えば、本来がこちらの姿なのだろう。無理を押して、今日このことを語るために力を振り絞ってくださったのだ。
「そうだ、忘れないうちに。玲子、あれを頼む」
それから北原さんの手を通じ、一枚の写真を受けとる。ひどく古びて色褪せてはいたが、誰が写っているかはすぐに分かった。
「そこにいるのが猛志だ。あんたのおじいさんだ」
菊花賞を勝ったときの口取り写真であるのが馬にかけられたレイで判別できる。年齢差を勘案しても今の僕よりずっと年上に見えた。ただ、目元にはたしかに共通点があった。
その傍らで北原さんが囁く。
「俺が持っててもしょうがないから、あんたにやろう。後を頼んだぞ」
視線を移すと、瞼を閉じて大きく息をしていた。僕も大賀さんもそれ以上の話をしようとはせず、どちらからともなく深々と頭を下げた。
「本日は貴重なお話をいただき、本当にありがとうございました」
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