十三 同僚 ①
ドアノブを押して少し先へ進むと、人ふたりの姿が視界に入る。ベッドに下半身を横たえた高齢男性と、その傍で椅子に腰かける年配の女性。ここは〈東仙台総合病院〉。
「失礼します。先日ご連絡差し上げました、高井光と申します」
「同席させていただきます大賀と申します」
僕と大賀さんが名乗るのを待って、女性が立ちあがった。
「北原玲子と申します」
先々週、電話をしたとき取り次いでくれたのがこの玲子さん。
「私が北原研蔵だ」
そしてベッドにいるのが今日、話を聞かせていただく北原さん。祖父が籍を置いていた有村厩舎の元厩務員だ。肌に刻まれた皺は深く、髪も頭部下方にまばらに残るのみ。受話器越しに僅かばかり言葉を交わした際の想像どおり、頬も身体も痛々しいほど痩せこけている。血色もよくない。だがこうして直に耳にする声は、意外にも太かった。
「あんたが高井さんだね。よく顔を見せてくれ」
僕は言われるがままベッドに近づく。すると分厚いメガネ越しにも目に力強い光を湛えているのが見てとれた。
「そっくりだ。猛志によく似てる」
口調も穏やか。特に祖父を下の名前で呼ぶ声には暖かさが感じられた。
「乾さんもそう仰っていました」
「そうか。乾から似てると聞いたが、同じこと言ったか」
「はい」
「まあ、猛志の方がもっと老成してたけどな。今の子だから当たり前か。でも少し昔に戻ったみたいだ。一昨日あたりは身体がキツかったんだが、今日は調子がいい」
そのうえ唇の端を大きく上げる。ところどころ歯が抜けているせいで息が抜けているものの、活舌ははっきりしていた。しかし玲子さんの表情は暗い。肘が小さく震えているところからも、体調が上向いたのは一時的なものであるのが窺える。それは北原さんも自覚しているらしい。
「お父さん、無理はしないで」
「余計な口を挟むな。俺は大丈夫だ。これから少し話をする。部屋の外で待ってろ」
注意を促されただけで顔が強ばるのが何よりの証拠だ。玲子さんは気おされつつも、部屋を出る前にひとこと言い残していった。
「何かあったらすぐ呼んでください。そのときはナースコールをお願いします」
「分かりました」
大賀さんが僕の方に視線を向けて頷く。異常の有無はこちらに任せて、話に集中しろと促しているのだ。
「じゃあ始めるか。そこに掛けてくれ」
北原さんは顰めていた眉を元のように和らげ、手元のコップで喉を潤す。それから僕が空いた椅子に腰かけた後でゆっくりと口を開いた。
猛志と出会ったのは、俺が有村先生のところで働きはじめて十一年目の春のことだった。当時すでに名伯楽として知られてた有村先生は馬乗りを選ぶ目も厳しくて、門下生はみんな腕の立つ連中ばかりだったんで仕事といえば馬の世話ひとすじの俺も誇らしかったな。そんな中で猛志はいかにも見劣りしてた。まだケツが青い十八歳だってのを考えても、先輩たちに追いつき、追い越すなんてのはムリだって思ってたよ。いくら目方が軽い方がラクだって言っても身体があまりにひょろかったし、顔つきからして馬乗りとしてやっていくには大人しすぎるような気がしたんだ。
実際、お世辞にも運動神経はいい方じゃなかった。歳上の別の門下生は早いうちに才能の片鱗を覗かせて誰かには褒められてたんだが、猛志はよく養成所を卒表できたもんだって呆れるくらい手つきや仕草がぎこちなかった。指導を任された先輩もお手上げだって嘆いてたし、初めの頃は成績も散々だったしな。おまけに無口だったから、周りは誰も期待しちゃいなかった。俺も「先生もたまには弟子に取る奴を間違えるんだ。そうじゃなかったらどこに目をつけたんだろう」って首を捻ったよ。
ところが厩舎に入って一年と少し、そうだな、本番に乗るようになって三か月くらい経つと印象が変わった。馬乗りが自由にできる時間は短い。だから先生とかに命じられた仕事を終えると、大体の奴はさっさと遊びに行っちまう。でも猛志はわざわざ俺のとこにやってきて、いろいろ訊いてくるようになったんだ。本当に素直な、あどけない感じだった。
「これまでいろいろ習いましたけど、馬の一般的な特徴を改めて教えていただけませんか」
自慢じゃないが、俺は厩舎でも煙たがられててな。何でも気難しかったんだそうだ。なのに話しかけやすい他の奴じゃなく、わざわざ俺を選んだ。それだけでずいぶん度胸があるんだなと思ったよ。後になって聞けば、猛志が最初に本番で乗った馬を俺が世話してたかららしい。要は筋を通したんだ。どっちにしろ大した心がけじゃないか。
「じゃあ、おさらいから皆があんまり知らねえことまで……」
当然、俺はいろいろ教えてやったさ。で、近くで様子を窺うようになると別の面が見えてきた。負けん気が強かったんだよ。本番で思いどおりにいかなくて声をあげるとか、拳を膝に叩きつけるだとか感情を分かりやすく表に出す奴じゃなかったんでみんな勘違いしてたが、稽古も含めてうまくいかなかったときは決まって唇を噛んで悔しそうにしてたんだ。そうじゃなけりゃ遊びの時間を削ってまで馬のことを考えたりしない。だから猛志の質問にも出来るだけ答えるようにしたんだ。
「うちの厩舎にいる馬はどんな癖を持ってるんですか」
「いいだろう。俺の担当が中心の話になるけどな……」
鞍の上で人が何をすると嫌がるだとか、逆に機嫌がよくなるだとか、細かいとこまでな。普段から人と馬で心を通わせ、信頼を築くのに必要なものは全て伝えたよ。俺はそのやりとりを仕事仲間に知らせた。すると他の奴らは笑いながら「モノを教える相手も選んだ方がいい」とか「今さらそんなこと訊くなんて、養成所で何やってたんだろう」とかぬかしやがって、本当ならブン殴ってやりたいところをどうにか堪えたよ。そうそう、黙ってその場を離れた俺を、他の奴も不思議そうに見てたっけ。
だがそいつらもすぐに考えを改めることになった。猛志が少しずつうまくなりはじめたんだよ。周りは初め調子がいいなとか運が向いてきたな程度の受け止め方だったけど、先生がいち早くそれに気づいて本番に使う回数を増やしたんだ。そしたらだんだん着順が人気を上回るようになって、皆の見る目も変わってったってわけだ。
「研蔵。猛志がここまで早く上達するようになったのはお前のおかげだ」
「さすが北原だ。俺たちが間違ってた」
先生や同僚に、そう褒められたのをよく覚えてる。今でも自慢できる思い出だな。おまけにこのことは猛志の耳に入って、すぐに礼を言ってくれたんだ。
「皆さんに話をしていただいて、ありがとうございました」
それからだな、いよいよ仲よくなったのは。俺が現役で働いていた間、もっと長く一緒に仕事をした仲間はいるが、猛志ほど気の通じた奴はいなかったと思う。
もちろん絆が深まったのは俺だけじゃない。誰より強い縁で結ばれるようになったのは先生だ。仕事は厳しくても厩舎の皆を気遣ってくださる情に厚い方で、そこに分け隔てはなかったけれども、やっぱりめきめきと腕を上げてく若い奴は可愛いもんだったろうな。さっそく本格的な指導がはじまったよ。先生は決して全部を言葉で伝える教え方はしなかった。俺はそれをたびたび、近くで眺めていたよ。
「今の稽古で、馬の息が上がらないようにするにはどうすればいい?」
「昨日の競馬はどこが悪かったか、分かるか」
猛志はその都度、真面目に頭を悩ませていて、時には先生に考えなおすよう言われてたから成長は急激なものじゃなかった。でも着実だった。その一年後には白井の分場に限らず東西を含めて同期で一番、さらにその二年後には全国でも十指に入る騎手になってたんだ。
とはいえ猛志にも困ったことが一つだけあった。愛想がないというか物静かというか、自分を売り込むのが下手だったんだよ。ちょっと浮世離れしたところもあったし、酒の席にも出たがらなかった。そのせいで馬主の受けはあんまりよくなくて、なかなかいい馬が回ってこなかった。当時としては珍しく厩舎の枠に捉われずにヨソの馬乗りと仲がよかったり、逆に同門の先輩でも気が合わないと付きあいをそこそこに済ませたり、とっつきやすい性格じゃなかったのもあって腕が立つわりに評判が今ひとつだったんだ。一匹狼って言うのが近いんだろう。先生もこれは問題と見たんだな。ご自宅に呼んでこう言い聞かせたんだって仰ってたよ。
「いいか、猛志。馬乗りはただ本番と稽古に出てりゃいいってもんじゃねえ。人の繋がりが大事なんだ」
そのうえで直々に何人かに頭を下げて、猛志を乗せてくれるよう頼みこんだらしい。しばらくして何でそこまでするのか訊いてみると、嬉しそうに語ってくださったよ。
「俺も若い頃は不器用で損したから、猛志には同じ目に遭ってほしくねえんだ。それに他人のような気がしなくて、何だか自分の息子みたいでな」
先生にお子さんがいらっしゃらなかったのも、その理由のひとつだろう。とにかく猛志は色んな部分がいい方にはたらいて、全国でも指折りの馬乗りになってったんだ。
しかし、そんな中であの事件が起こった。あれは忘れもしねえ五月の月曜日だった。俺が家で休んでると、同じく休みのはずの先生から電話がかかってきたんだ。そのときの声はまだ耳に焼きついてるよ。まるで魂が抜けたみたいだった。
「大変だ。猛志が警察に捕まった」
「えっ?」
俺も声が震えてた。心臓が止まりそうなほど驚いたのは確かだ。
「猛志のカミさん──穂希さんから連絡があった。さっき刑事がやってきて、いきなり逮捕されたんだそうだ」
「猛志は何をやったんですか?」
「警察は八百長だって言ってるらしい」
「そんなバカな」
「そうだろう。あり得ない話だ。冤罪に決まってる」
あの真面目な猛志が。暇さえあれば競馬のことばかり考えてる猛志が、八百長なんてするはずがない。俺も動揺していたが、先生の方がもっとひどく狼狽えていたように聞こえた。俺は先生を気落ちさせまいと、頭に浮かんだ思いつきを半ば反射的に口にした。
「来たのはどこの刑事だって言ってました?」
「東京の府中署と警視庁だそうだ」
中央競馬で八百長となれば大事件だ。逮捕に踏み切った手前、警察が是が非でも自白を引きだすべく厳しい取り調べを始めるであろうことは容易に想像できた。無実の罪に陥れられる前に、励まさなければならないと考えたんだ。
「面会に行きましょう」
もっとも、実際は俺の方が気が動転していたようだ。
「無理だ。穂希さんから話があった。木曜までは面会禁止なんだと」
「取り調べはその前に始まるんですか?」
「ああ。だがそれより早く終わるとも限らないらしい。だから猛志が持ち堪えてくれるのを祈るしかない。何にせよ俺はできるだけ早く面会に行く」
「木曜だと出走登録はどうするんです?」
「堀野辺か藤川のどっちかに頼む」
それでいて制止してきた先生が、可能であればいの一番に飛んで行きたそうにしているのが伝わってきた。何せ本来なら調教師がやらなきゃいけない仕事を、助手に任せるっていうんだから。翌日、事情を説明するため皆の前に立ったときの顔にも焦りがありありと表れていた。
「……という訳だから、落ち着いてほしい。ブン屋なんかが来ても黙っててくれ。面会には俺ひとりで行く。皆にはいつもどおり仕事を頼む。それが猛志への一番の応援になる」
俺はその言葉に従った。先生がお決めになったことだし、あんまり大人数で行くと負担になっちまうだろうしな。こうしてる間にも自白させられやしないか心配だったけど、そこはこちらではどうしようもないと踏ん切りをつけて馬の世話に励んだ。そうやって我慢した甲斐も、一週間くらいはあったように思えた。四日後の金曜、昼休みの時間に先生が皆をもう一回集めて面会の様子を報せてくださったんだ。
「安心してくれ。猛志は『やってない』と、はっきり言ってくれた。『刑事に何をされても嘘をつかない』と約束もしてくれた。俺が信じてたとおりだったよ。あんなのは誰かが仕組んだでっち上げ、冤罪だ」
俺はそれを聞いて胸を撫でおろしつつ、先生がご自分を奮い立たせるためにも話をしているものと捉えた。その解釈が当たっているのは直後に分かった。皆が散ると、先生が俺のところに来て次のように零したんだ。
「安心するのはまだ早いぞ。猛志はまだ釈放もされてねえんだ」
「ですが直にお話されたんですよね? 約束もされたんでしょう?」
お顔にも、全体に薄い雲が広がっているようだった。
「たぶん、あそこからは出られるだろう。だが裁判で無罪放免を勝ちとるにはかなりの時間がかかる。その後も社会的な信用を取りもどすまでは、前と同じようにいかないのは目に見えている。噂の払拭に駆けまわるのは猛志自身でも、俺たちが支えてやらなきゃならん。あいつが事実無根の冤罪で貶められることなど、あってはならんのだ。そのためには俺ひとりじゃ駄目だ。猛志を見いだした、お前の力が必要だ」
だから俺は決意を新たにした。何年かかるとしても、一緒に戦おうと覚悟した。周りの皆もだ。疑う奴は追い出すぞと言わんばかりの空気を先生が発してくださったおかげで、新聞やらテレビやらが騒いでたのに厩舎全体がぴたりと静かになった。一丸となって猛志を助けようって雰囲気になってたんだ。
なのに週が変わって異変が起きた。
俺は猛志を心配しながらも、できるだけ平静を保って馬へのカイバやりだの、寝ワラの交換だのと仕事をしてた。それでも昨日テレビで何も知らない奴が猛志のことをべらべら喋ってたのと、政治家連中まで口を挟んできたのを思い出しちまって、少しでもむかっ腹を鎮めようと休憩室でラジオを点けてな。もしまた例のニュースが流れてどうしようもないことぬかしはじめたら、さっさと切るつもりでいた。そこへアナウンサーが少しばかり声を上擦らせるのが耳に入ってきたんだ。
「いま、速報が入りました」
直前まではぜんぜん別の番組だったから、いったい何があったんだろうと少し注意を向けたくらいだった。だがスピーカーの向こうでにわかに空気が緊迫するのを感じた。胸騒ぎがした。
「先週、発覚した中央競馬の八百長事件で、文田猛志容疑者が関与を全面的に認めました」
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