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冤罪  作者: 新宮義騎
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22/36

十一 焦燥 ①

 時刻は午後四時過ぎ、僕は馬場の隅にある待避所で馬に揺られながら苛ついていた。つい先ほどのメインレース、牝馬限定のGⅢクイーンステークスで致命的なミスを犯してしまったのだ。

 乗っていたのはレパグルミカ。強いマークは受けにくい三番人気、負担重量もそこまで重くはなく、馬場は少し力のいる洋芝かつ平坦、距離も一八〇〇メートル戦と得意の条件が揃っていた。レースもミドルペースで流れる理想の展開。現に僕は直線が短いのを意識してやや早めに仕掛け、ゴール前で脚を伸ばしいったんは先頭に立った。

 だがそこから道中で二番手にいた馬に差し返されて二着。敗因は明らかだ。あちらが競り合いに強いのは分かっていたのに、距離のロスを意識するあまり内寄りの進路をとって馬体を併せてしまったのである。直線に入る前、もしくは途中である程度外に持ち出していれば勝てた可能性はかなりあった。着順は人気以上でも喜べる内容ではない。何といってもすんでのところで重賞を逃してしまったのだ。

 とはいえ、気持ちを切り替える必要がある。これからこの日の最終競走が始まり、しかも僕が跨っているユアーズミヤビが一番人気に推されているのだ。

 レースは同じ牝馬限定でも、カテゴリーは二勝クラス。そんな中にあって直近四走は二着と一着を交互に繰りかえし、その前も全て五着以内という安定した成績を残している。コンディションは良好で、条件もダートの一七〇〇メートルとほぼベスト。おまけに十二頭立てとフルゲート未満のうえ馬番は四番と距離のロスも少ない方だ。オッズ上では二番人気と僅差だが、今度こそ下手は打てない。

 発送委員がスタート台に上がって旗を振る。程なくしてファンファーレが鳴り、号令がかかるのも聞こえた。

 僕はユアーズミヤビをゲートへ向かわせながら、自分自身に言い聞かせる。今はレースに集中しろ。余計なことは考えるな。さっきの件を引きずってはいけない。先週も一応は勝ち星を挙げられたじゃないか。馬番が偶数のおかげでゲートも後から入れる。過剰な心配は無用だ。大丈夫、イレ込みもない。かなりの確率で勝てる。

 やがて僕の番が回ってきた。前へ行くよう促すとユアーズミヤビは程よく気合いの入った歩様でゲートに収まり、中で立ち止まったあとも非常に大人しくしている。他馬も枠入りをスムーズに済ませ、最後の十二番が入って数秒、辺りを静寂が包む。そして目の前の扉が開くと同時に馬が勢いよく前方に飛びだした。

 絶好のスタートだ。確実に他馬より半歩はリードしていた。ユアーズミヤビの脚質は差しで、このレースは逃げ馬が二頭。いつものように周りを先に行かせて確保した、後方から四番手のポジションは絶好といってよい。スタート後一〇〇メートルから三〇〇メートルまでの間のラップも体感で十一秒二か三。馬群が六馬身ほど前方に伸びているのを見るに、先頭はそれより一秒早い。次の二〇〇メートルも遅らせたのはコンマ四秒ほどであるにもかかわらず、前との差は逆にぐんぐん開いていく。先行勢は明らかに飛ばしすぎだ。まさしく予想どおり。ハナを切りたい馬同士で潰しあい、直後の集団も小回りコースで追いつけなくなるのを恐れてか釣られてしまっている。

 このレースも有利な展開だ。僕がすかさず手綱を握る両手をユアーズミヤビの首筋に当て、スピードを落とすようにとの合図を送ると、肌に感じる熱い空気の圧力がすぐに弱まる。それでも急激な減速はスタミナを無駄に浪費してしまうため、その次の二〇〇メートルは十二秒台前半で走らせた。

 ユアーズミヤビは素直に指示に従ってくれている。脚の運びは軽く、なおかつ力みがない。適度なリラックスという言葉がしっくりくる状態だ。近走は継続してこの脚質でレースに臨んでおり、メンコと呼ばれる覆面を被せているおかげもあって、前にいる馬が蹴りあげる砂が飛んできても平然としている。

 ただ、少しばかり行きたがっている感覚があった。前の馬との距離も徐々に縮まってきている。ここでもう少し息を入れるべく、僕は再度、同じ合図でユアーズミヤビを宥めた。するといい具合に速度が落ちる。このくらいだ。馬群は縦に長く横への広がりは二頭までで、目視できる範囲では他馬同士の出入りは皆無。ペースが速いレースの典型的な特徴だ。

 レースは淀みなく進み、やがて第三コーナーに差しかかる。札幌競馬場のダートコースは一周が一五〇〇メートル弱。小回りの部類に入る一方、形状はより楕円に近い。周回半径が大きく、直線入口などで外に膨れにくいのだ。むろん隊列が詰まっている場合は余計な距離を走らされる恐れがあるが、今は各馬の位置がばらけている。交わす際に多少は外目を通ることになるとしても、せいぜいラチから三頭目。必ずしも後方から行くのがハンデになるわけではない。

 ただしカーブが緩い分、その先の直線は自然と短くなる。ここ札幌はたった二六四メートルと函館よりわずかに長い程度しかない。あまりのんびりしていると、他がバテても追いつけなくなる。僕が少しだけ手綱を引くや、ユアーズミヤビもハミを取ってスピードを上げた。鞍上には従順で、いつどれくらい加速すべきか馬自身の理解度も高い。武器である末脚はストライドを活かした持続力だけでなく、ある程度の瞬発力も備えている。コーナーリングもうまい方で、特に右回りでは利き脚を器用に使って滑らかに加速してくれる。いま仕掛けるのが正解のはずだった。

 ところが本格的に仕掛けようとした段になって異変に気づく。二頭の後続馬が外目の進路をとって間近まで迫ってきており、前の馬が先へ行こうとしないこともあって三方を囲まれ抜け出せない形になっていたのだ。

 まずい。僕は逸る気持ちを抑えつつ、前方との距離を縮める。不幸中の幸いと言うべきかあちらもようやくピッチを上げてくれたが、その頃には後ろから来ていた二頭に抜かされ、後方二番手の位置に下がってしまった。

 ともかく自由に動ける状態になり、慌てて鞭を抜きラストスパートを開始する。モタついたといっても、そんなに長いあいだ閉じこめられていたわけではない。今から行けば間に合う。何といってもハイペースなのだ。先行勢は必ず直線で失速する。そんな風に頭を冷やそうとするも、想定外の事態が再び僕たちを襲った。

 こちらは確実に加速しているのに、思うように前の馬を追い抜けない。何とか一頭、二頭と交わしてはいるものの周りも脚を伸ばしており、じりじりとしかポジションを上げられないのである。さらに先へ進むにしたがって、馬群がイメージしていたよりずっと固まっているのが判明した。これは思い違いをしていたのではないか。だとしたら相当に危機的な状態だ。折悪しく内側の馬たちも並走をはじめており、仕方なく外を回らされる。僕は心臓が不規則に脈打つのを感じた。

 過ぎたことであれこれ悩んでも仕方がない。直線入口で前にいるのは三頭。地力が違っていたのと、末脚を仕掛けた後は邪魔が入らなかったおかげで逆転が不可能な距離ではなくなっている。

 しかしここで三つめの問題が発生した。遅れてスパートした一頭が覆い被さるように馬体を併せてきたせいで前を内寄りに走る先行馬との間に挟まれ、嫌でもプレッシャーを受ける体勢になってしまったのである。

 ユアーズミヤビは人に従順な反面、気弱で闘争心に欠けるきらいがあった。生まれつき大人しかったと聞いており、馬体が成長してもそうした精神面の弱点はほぼ改善されなかったという。だからこそキャリアの途中で乗り替わった僕は、道中で馬ごみに入れるのを極力避け、成績を上向かせることに成功した。今の状況はそれと真逆だ。ゲートや壁で遮られているわけでもなく、とりわけ初対面の馬に寄られると委縮する。

 そうした悪癖を証明するかのように、このときも伸び脚が不自然なほど鈍った。第三コーナー後に距離のロスがあった影響というより、精神的な部分が大きい。馬の耳が大きく後ろに倒された「絞る」状態にもなっている。不快感を覚えている証拠だ。脚元がバタバタとせわしなくなり、走行フォームが崩れて体力の消耗も激しさを増す。そこを左右の鞍上も見抜いたようで、ぎりぎり接触しない距離まで近づいてくる。先行馬は叩き合いに持ちこんで粘ろうとし、追走馬は勢いに任せて押し切ろうとしていた。

 もはや進路を変更する余裕はない。僕は腕と脚を動かしてひたすら馬を追う。残り一五〇メートルになってだんだん脚の運びが怪しくなり、一〇〇メートルで一杯になった。最初の仕掛けが遅れたのに焦り、急発進させたツケが出たのだ。くわえてメンタル面の負荷が表れている。息が大きく乱れているのが聞きとれた。先頭の馬は失速しながらもリードを保っており、内側の先行馬は盛りかえしてきていた。外の後続馬も追撃が鋭い。出来るのは少しでも早く前方へ進むよう促すのみ。気力の面で持ち直してさえくれれば前は差せる。

 いま跨っているのがもしソガビットであれば、激しい気性を身体面のパフォーマンスに転化して末脚を再点火させようと試みたかも知れない。しかしユアーズミヤビにはその根性がなかった。闘争心と従順さを兼ね備えたエフタリテスのような馬は稀なのだ。

 結局、ゴールの五〇メートル手前で力尽きて四着。三着まではクビ、アタマ、アタマの結構な接戦で、そこから半馬身遅れての入線だった。勝ったのは先に馬群を抜け出していた一枠一番の白帽、ベニフデ。たしかブービー人気だったはずだ。鞍上では僕の同期で紅一点の山市が左拳を上げて喜んでおり、他の騎手たちからも祝福されている。僕も何人かに一言、二言かけられはしたが、その度に惨めさが胸に広がった。

「惜しかった」

「ドンマイ」

 これらの言葉はとても素直に受けとれない。励ましとともに、失策を笑うニュアンスが含まれていた。僕は何度も溜め息をつきながらユアーズミヤビの歩様を確かめ、クールダウンしたあとで地下馬道に足を踏みいれた。装鞍所へと向かう間にも気分は落ちこんでいく。またしてもミスを犯したためだけではない。この先で誰がどんな顔をして待っているか分かっていたからだ。

 案の定、行く手には児玉先生が立っていた。遠目でも判別できるほど表情は険しい。ひりついた空気を全身から発散しており、鞍を降りる最中も鋭い視線が向けられているのを肌に感じる。

「高井。どこが悪かったか分かるな」

 怒鳴られはせずとも、激しい感情は十分すぎるほど伝わってきた。本当は声を荒げたいのを周りに他陣営のスタッフがいる手前、抑えているのだ。僕は大人しく返事をするしかない。

「はい。ペースを読み違えました」

「そうだ。仕掛ける前の二ハロンはどちらも十三秒くらいだった」

 ユアーズミヤビにゴーサインを出したのはラスト六〇〇メートル。ここまで道中が遅いのであれば早めに行くべきだった。ラップタイムはまだ公表されてはおらず、先生の見込みがおおよそのものだとしても大体それくらいだろう。前の馬と接近しているのを、こちらが速すぎるせいだと思いこんでしまったのが誤りだった。実際は前方にいた馬の方がスピードを落とし過ぎていたのだ。馬群が想定よりはるかに詰まっていたのが何よりの証拠。スローペースでレースが流れた際によく見られる特徴だ。

 僕が項垂れていると、先生が声に力を込めて言った。

「いくら心配なことがあっても、騎乗は疎かにするな。これまでのように黙認できなくなる。私の態度も問題だったかも知れない」

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