十 拷問 ②
再び取り調べに入った上橋は、相変わらず殴る蹴るで文田さんを嬲ります。ただそのやり方が比較的弱い力で小突く類のより陰険なものに変わり、合間に燃えたタバコを腕に押し当てるようにもなりました。日を跨いで方針を変え、気絶はさせずに苦痛を与えようとしていたのです。
「おう、自分がやったと言え」
もともとドスの利いていた声はますます低く、浴びせる言葉も短くなっています。上橋は苛立っていました。用意周到にも拷問の痕跡が目立たないよう、顔を殴るのは昨日の一発に留めておいたのにも物足りなさを感じていたのでしょう。思い返せば強い加虐性の持ち主で、こういう場面でそれを発揮していた気がします。かたや文田さんの笑みはますます不気味さを増し、次第にどちらが追いつめられているのか分からないほどになりました。上橋はとうとう我慢しきれなくなり、その日の昼前に怒りを爆発させます。
「この野郎!」
みぞおちを渾身の力で殴りつけました。文田さんはまたしても気を失い、力なくその場に倒れこみます。服がめくれ上がって肌が露わになり、一面ひどい内出血で痣だらけになっているのが見えました。
私は急いで傍に駆けよります。胸は大きく上下しており息はあるようでしたが、後になって異常が発生しては大変です。昨日と同じ危惧が頭を過ぎり、ようやくこの段になってやり過ぎなのではないかと感じはじめました。
「すぐに手当てをしてもらいましょう」
私の進言に、上橋もはっとして頷きます。嬲るのに力を振るって疲労が溜まったのか、肩で大きく息をしながら首を縦に振りました。
「そうしよう」
私が管理係を呼ぶと、ひどい有様にぎょっとしています。
上橋は文田さんが運ばれていく最中、そわそわしながら指示を出しました。
「おかしくならないようによく見ておけ」
それから忌々しそうに吐きすてます。
「しぶとい奴め。しかしまずいな」
私は、上橋もさすがに今しがたの殴打を反省しているのかと思いました。本来ならこちらで咎めるべきところだったのでしょうけど、あちらの方が役職が上である手前、下手なことは言えません。無難に相槌を打ちました。
「早く取り調べに応じられるようになってほしいですね」
ですが心配は別にあるようで、眉に皺を寄せます。
「ああ。冗談抜きでグズグズしてられん」
私はその言葉が引っかかりました。ここまでの様子を振りかえってみると、上橋はどこか焦っているようです。拷問はそもそも相手をじわじわ絞りあげるもの。今日のやり方はともかく、昨日は二度も失神させてしまっていました。あれでは翻意させる機会を奪うばかりで、若干の手加減をしたといっても少し不自然でした。拘留期限もまだ余裕があります。
「次はこちらでもう少しゆっくりやりますか? お疲れのようでしたら、署内か本庁に追加の応援を頼むのはいかがでしょう」
上橋ほどのベテランでも、ここまでの大事件に関わることはそうそうありません。緊張してどうしても力が入ってしまうのであれば、役目を代わるのもひとつの手段です。その私の提案も、即座に拒まれてしまいました。
「手出しはするなと言ったはずだ……」
ただし迷いがあるようで、声はだんだん小さくなっていきます。この呟きは当時の私には「いたずらに腕力に訴えれば訴えるほど文田さんは口を閉ざすのなら、もっと大胆な方針転換を検討した方がいいのではないか」などと思案しているように聞こえました。
「まあいい。今日のところはこれで終いだ。交代にも無理はさせないように言っておく」
何にせよ文田さんの安全は測られることとなり、私はひとまず息をつきました。
現に翌日、取り調べ室に連れてこられた文田さんは、多少なりとも体力が回復しているようでした。俯き加減の姿勢は変わらなくても顔つきはずいぶん大人しくなっており、これまでの態度が嘘のようです。
そこに上橋が歩みよっていきました。決して優しい口調ではありません。ですが昨日までの異常な圧力もありませんでした。
「どうだ、話す気になったか?」
その直後です。文田さんが首を縦に振ったのです。食事と飲み物をしっかり摂ったのか、声も出ていました。
「はい」
私は驚きました。拷問を止めて情に訴える。文田さんに心を開いて自白するよう促す。最初に厳しくしておいたぶん効果があるのではないか、もしかしたらいい線を攻めているのではないかとの予測はありましたけれども、あれだけ頑強に抵抗していたのにあっさりと降伏を口にしたのです。この日はまだ実質何もしていません。翻意したにしてはあまりにも早い。どういった心境の変化でしょう。私が頭を混乱させている間にも、上橋は尋問を続けます。
「よし。じゃ、改めて訊こう。お前は何をやった?」
「私は同業の騎手真木豊吉、M山会系暴力団Y村組の構成員、紺野純平と共謀して中央競馬で八百長をはたらきました」
「いつのレースだ?」
「今年の二月、東京で行われた梅見月特別です」
「昭和四十五年、二月七日のレースか」
「はい」
「暴力団員の紺野と一緒に真木を饗応して八百長に協力させた。これも間違いないな」
「はい。間違いありません」
はじめはたどたどしかったものの、徐々にすんなりと答えるようになっていき、程なくして罪を全肯定しました。
「福守。今、文田は事件への関与を全面的に認めた。たしかに聞いたな」
あっけに取られていた私は、慌てて頭を上下に振りました。
「はい、たしかに確認しました」
「もういい。行け」
上橋はそうして念を押すと、用済みとばかりに文田さんに出ていくよう命令し、二人きりになるなり機嫌よく話しかけてきます。取り調べがはじまる前よりも親しげで、肩まで叩いてきました。
「ご苦労だった。協力してくれて助かったぞ」
「はあ、ですが私は何も……」
相変わらず訳が分からない状態の私が、あやふやな反応をしたのもつゆも気にかけていません。
「たしかにそうだが、まあ終わりよければ全てよしだ」
眉尻も大きく下がっており、顔が署内きっての強面とは思えないほど緩んでいます。私はそれをやはりベテランでも周囲の圧力に苦しんでいたのだろうと解釈しました。よってその日の夕方になされた上橋からの申し出にも、さほど強い疑問は抱きませんでした。
「福守。今日のやつ、お前の手柄にしてやる。この供述調書に名前を書け」
「えっ、どうしてですか」
「本来は別の仕事をやらなきゃならないのに、手間かけさせちまった」
「でも」
「難しい事件に関わらせちまったんだ。俺からの好意と受けとってくれ」
正確に言えばいったん理由を問いただしたように、戸惑いはありました。けれども勢いに乗せられ、何となく受けてしまったのです。取り調べが終わった途端、溜まっていた元の仕事で一気に忙しくなっていたので、本意が別のところにあるどうかなど訊く暇もありませんでした。
ここまでだと、私はただ気前のいい上役に巡りあっただけじゃないかと思われたでしょう。ですが奇妙にも感じられたかも知れません。いわば手柄を譲ってくれた人間を、なぜ呼び捨てにしているのか。その理由をこれからご説明します。
数年が経って私は本庁に引き抜かれ、詐欺などの知能犯を担当する捜査二課に籍を置くことになりました。そこで張り込み中、ある先輩がふと漏らしたのです。
「福守、ここに来る前に上橋さんと一緒に仕事したことがあったらしいな」
周囲の人間には、〈文田事件〉の担当者は形の上でこそ私ということになっていても、実態としては名ばかりだったのが伝わっていました。その先輩も、何かの折にそれを知ったに違いありません。
「はい。まあ、一度だけですが」
私は消極的に答えました。この時点では上橋に対して否定的な印象はありません。あれが実力に比して身の丈に合わない実績であったのを、自覚していたのです。
そんな風に恥じ入っている間に、先輩は口を開きます。
「一度だけでよかったな。ちょっと小耳に挟んだんだが、ついこの間、上橋さんのよくない噂を聞いたんだ」
場所は飲食店、目当ての人物が現れるまで間があります。建物内は大音量で音楽がかかっており、私服姿の私たち二人を気に留める者はいません。
「どういう話でしょうか」
「何でも競馬でノミ屋使ってるらしいんだよ。本庁と検察の人間も抱き込んでな」
ノミ屋とは、公に認められたギャンブルの主催団体以外が非合法に運営している投票所の開設者、馬券屋です。正式な馬券は当たった場合、儲け分の約二十五%が主催団体によって天引きされますが、ノミ屋が扱っているのはいわゆるヤミ馬券でその差し引き比率が小さく、いちいち競馬場へ足を運ぶ手間も省けるために利用される暴力団の資金源です。もっとも、こんなことはあなた方は百も承知でしょうが。
当然、ノミ行為もそれを利用するのも身分を問わず犯罪です。ましてや警察関係者などもってのほか。文田さんの事件ほどではなくとも社会を揺るがせ、組織も糾弾されるのは火を見るより明らかです。気づいたときには、私は小さく呟いていました。
「まさか」
否定しようとしましたが、絶対にないと断言はできません。場外馬券売場は設置されたばかりのうえ、オンラインで馬券が買える時代ではなかったこともあり、当時ノミ行為は今より頻繁に行われてしました。恥ずかしながら刑事が暴力団員とコネクションをもっている、仲良しのお友達同士という例は多々あったのです。
「あの上橋さんが」
何より上橋が供述調書に私の名前を残したのと、取り調べで妙に焦っていたのがこのときになって不自然に感じられ、同時にその謎も解けた気がしたのです。上橋自身が八百長に関わっていたからこそ、文田さんを無理やり犯人に仕立てようとしたのではないか。共謀者の真木豊吉を饗応したのも上橋か、その関係者だったとしたら合点がいきます。また文田さんが急に態度を変えたのも、私の知らないところで上橋が何かをしたのではないか。頭の中で幾つもの想像が渦まきはじめました。
「悪い。こんなときに話すことじゃなかったな。忘れてくれ。まだ情報が不確実な段階だ」
とはいえ、先輩の言うとおりです。確実な証拠が揃うか、その見込みがあれば捜査が始まりますけれども、ただの噂だけではそうはなりません。身内の不祥事ともなれば上司は及び腰になるでしょうし、そもそも私は府中署を離れています。捜査四課にでも異動しない限りノミ屋の件で上橋を追いかけることはないと思い込んでいました。
しかし、その仮定は現実のものとなってしまいました。ノミ屋の噂は有耶無耶のまま上橋は退職、噂も忘れ去られ、私もあれは考えすぎだ、〈文田事件〉は控訴もなく、一審で刑が確定したように事実は自供内容そのままだったのだと自分に言いきかせて半ば記憶から消しさっていた頃──あの取り調べの二十数年後です。本庁の捜査四課、いわゆるマル暴に配属されていた私は、上司や部下の助けを借りてM山会系暴力団Y村組を壊滅させました。そう、文田さんの一件に関わっていた暴力団です。
その名前は、当初は大して気になりませんでした。組織が巨大でしたし、はたらいていた違法行為も多岐にわたっていましたので。ですが家宅捜索を行うと古いノミ行為の帳簿までもが見つかり、そこにあの上橋の名前が記されていたというではありませんか。私はそれを部下からの報告で知り、証拠物件の保管室まで足を運びこの目で確認しました。
経年劣化で黄ばんだ紙に、たしかに上橋の名前が書かれています。紙を握る私の左右の手は震えていました。
さらに調べてみるとかつて本庁や検察に籍を置いていた人物の氏名もあり、警察内部はにわかにざわつきました。上橋は、やはりノミ行為を行っていたのだ。噂は単なる噂でなく事実だった。あの事件に関与していたのは本当に文田さんだったのか。
ですが改めて捜査をすべきだという声はなく、逆に幹部からはマスコミはもちろんのこと、よその道府県警察を含め外部には絶対他言しないよう箝口令が敷かれました。警察はメンツにこだわる組織です。だからこそ冤罪を疑われて裁判となった際、本当にそのとおりだった事案でも必死に抵抗するのです。ましてやすでに文田さんは失踪し行方不明、Y村組側で事件に関与した紺野純平も組織同士の抗争により死亡。上橋に電話で探りを入れようとするも不通で住民票の住所にもおらず、間もなく別の場所で病死したことが判明しました。つまり真相究明の手段がないのです。一時は義憤にかられ上層部に反発しようとした職員も、もはやどうしようもないと諦め個人で動く者はすぐにいなくなってしまいました。
私もその一人でした。けれども今は違います。大賀さんから連絡をいただいて、知っている事実は全て話そうと思ったのです。私自身は刑事として平凡な生活、おそらく他の方から見れば恵まれた人生を送らせていただいた一方、人ひとりを冤罪に陥れてしまったのではないかと心のどこかで引っかかりを覚えてもいました。
遅ればせながら、こうして誰かの前で言葉にできてそれを晴らすことができました。大賀さんには感謝しています。
福守さんの表情が、話を始める前より柔らかくなった気がした。たぶん四六時中、例の事件が頭にあったわけではないだろう。それでも俺のメッセージを受けて過去の記憶が蘇り、心苦しい思いをされたはずだ。なのに礼を述べてくれるとは。
「とんでもありません。こちらこそ、本当にありがとうございました」
俺が深々と頭を下げると、福守さんがまた口を開く。
「顔を上げてください。私など、そんな風にしていただく資格はないのです。何せ、高井さんの祖父に当たられる方にひどいことをしてしまったのですから」
その目は向かいに座る高井くんをまっすぐ見据えている。この場に来ただけで改めて気が引けたはずなのに、視線を逸らす気配はまったくない。
「いいえ。取り調べはお仕事のうえでのことだったと思います。逆に祖父を気にかけていただきまして……ありがとうございます」
俺が隣で窺う限りにおいては、高井くんは負の感情を強くは表に出していない。言葉を選んでいる節はあり、上橋は恨んでいるものと察せられるが、福守さんが呼び捨てにしたことから追って非難するのは避けたのだ。
福守さんもそうした高井くんの複雑な心中を察したのだと思われる。最後に目元と口元を緩めた。
「それにしても、心の重しが取れて楽になりました。SNSが犯罪の勧誘にも使われると聞いて、現役のとき捜査二課にもいたので果たしてどんなものか手を出しておいたおかげです。まったく仕事がきっかけで湧いた興味がいつ役に立つか分からないものですね」
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