十 拷問 ①
俺は真正面に腰かける年配の男性を、まじまじと見つめていた。
名前は福守清佐久、警視庁の元刑事。俺が供述調書の担当者氏名からSNSで検索をかけ、コンタクトを取った人物だ。それがたった四日前、メッセージを送信して六日後のこと。もうダメかと思われた頃だったので、着信があったときは驚いた。しかも好意的な内容だったのである。
その旨は急いで高井くんにも知らせた。当然、いまこうして隣に座っている。福島でレースを終えたあと新幹線に乗り、この東京駅構内の喫茶店に着いたばかりだというのに疲れた様子はあまりない。水曜に連絡を受け、その週の日曜に予定を合わせてきたところからしてよほど新たな証言者を待ち焦がれていたらしい。先ほどは多少、忙しい程度でへばってはいられないといった顔をしていた。
しかし今は少し違う。俺と同様、目の前の人物にやや面食らっているようだ。
無理もない。このテーブルに辿りつくまでの足取り、腰つきや最初に頭を下げた際の背筋の伸びに思っていたほどの衰えが見られなかったのである。俺に迫るくらいの長身にきっちりスーツを着こなし、頭髪も丁寧に後ろへ撫でつけており想像していたより若い。これまでのやりとりで年齢を訊いていなかったせいもあり、八十後半か九十歳くらいだろう、ここに来るのもご家族に付き添われてではないかと勝手に思っていた。多分、高井くんも似たような想定でいたのではなかろうか。
「本日はわざわざ、ありがとうございます」
「ご丁寧に……」
俺が改めて礼を言うと、福守さんは掌を小さく横に振る。顔つきは穏やかだ。
「こちらへお越しになるのもひと苦労ではありませんでしたか。ご連絡をいただいて急なお願いでしたから」
「そんなことありませんよ。ここにはあまり来ませんが、割と都内を出歩いてます。もう仕事もしていませんので、時間も融通が利きますし」
当初は先述の理由により、場所は福守さんのご自宅もしくはその近所、時間帯も午後なら三時あたりはどうかとこちらで提案したが、逆に高井くんの都合に合わせるとの申し出があり今日ここで会う運びとなった。とはいえ、やはり負担にはなっているのではないか。
「でもお疲れでしょう。と申しますのも、もっとお齢かと思っていたので」
これに福守さんはちょっとだけ息を吐いて笑う。
「お二人が不思議そうな顔をされていたのはそのせいでしたか。私はもう八十です。あなた方はまだ、と驚かれたかも知れませんが」
俺たちの表情から思考を読んだのを見るに頭の回転は早い。現役時代はかなりの敏腕刑事であったと推察される。ただ、そうなると当時は二十代半ば。若すぎるのではないかと声に出すより早く、隣で高井くんが口を開いた。
「ということは、お勤めをされるようになってそれほど経っていなかった」
「その点を不審がられているのですよね。当時は警察官としてのキャリアも浅かったのに、本当に世間を騒がせた大事件に携わったのかと。当然の疑問です」
「祖父の取り調べはされたのですか?」
ずいぶん気が高ぶっているようだ。自身の疑惑が晴らせるかどうかだけでなく、近しい血縁者の名誉も絡んでいる。いくら顔を合わせたことがなかろうと、力の入らないはずがない。
そうした感情を汲んだのか、福守さんの表情は曇る。
「はい。たしかに書類上ではそういうことになっていますし、私もその場に居合わせました。けれども主導的に取り調べをしたのではありません」
実際、そこで数秒の間が空く。にわかに口が重くなったようだ。それでも意を決したように唇を開いた。
「私が当時まだ若手ながら、取り調べ記録に名前を残すことになったのは特別な経緯があるからです。今日はそれについてお話しするためここに来ました。ただし、ひとつだけ条件があります。話の内容を公表するときは、誰に聞いたかは伏せておいてください。私の名前は絶対に出さないでください。本来は職業柄、守秘義務として現役中に何があったかは黙っていなければならないので」
「分かりました。お約束いたします」
俺も高井も首を縦に振った。素人でも分かる。捜査関係者は退職後も職務上、知りえた秘密を漏らしてはならない。そんな俺たちの反応を窺ったあとで、福守さんは本題の話に入った。
あの年の春、警視庁府中署の刑事課に配属されていた私は、ひそかに戦々恐々としていました。
中央競馬で八百長。暴力団と共謀。関与していたのは関東所属の某有名騎手。事前情報として耳に入る断片的な単語だけで、慌ただしくなるだろうと想像していたからです。昔は治安が悪く、常時忙しい状態だったのでさらに仕事が舞いこむのは勘弁してほしい気持ちでいたのです。しかし日にちが経っても思っていたほどにはなりませんでした。あれだけの事件なので応援要請はありましたけれども、担当になったのは別の係で、捜査対象が早々に絞りこまれたこともあって人員の投入は限定する方針が早々に決まっていたのです。
ところが容疑者の文田猛志が逮捕された後、このまま私の出番はないものと胸を撫で下ろした矢先に声がかかりました。
「福守、取り調べに同席しろ」
命令してきたのは別の係の上橋という、〈文田事件〉を捜査していた刑事です。私とは取りたてて密接な関係にはありませんでしたが課は同じで、本庁のマル暴にいるような坊主頭に顎鬚を生やした粗暴な風貌の持ち主です。それにこちらはヒラの係員なのに対しあちらは係長でしたし、こう付けくわえられては断ることはできません。
「課長や補佐、お前んとこの係に話はつけてある」
「はい。ご一緒させていただきます」
「なに、素直に罪を認めないうえ、別の事件との兼ね合いもあって人手が足りなくなったんでな。安心しろ。実際の取り調べは俺がやる。お前は隣で記録を取ってるだけでいい」
事件の枝葉に当たる箇所や雑用に近い仕事ならまだしも、捜査の核心に私を巻きこむのはどうしたわけか。ほんのわずかの間だけ抱いていたそういう疑問も、口にする前に回答を得られたためにすぐ雲散霧消してしまいました。刑事としてはさほど場数を踏んでいない、下っ端の身分で大事件に携わる重責が少しばかり軽くなったように感じたのもその一因だったのでしょう。
やがて取り調べが始まり、文田さんが腰縄を打たれ、両手に手錠を嵌めた状態で留置場の管理係に部屋まで連れてこられました。目は泳いで身体を震わせ、狼狽えています。ここまでは取りたてて不自然ではありません。不貞腐れる、暴言を吐くといった暴力団員の態度と違っているとはいえ、彼らと関係しているからといって類似の反応を示すとは限らない。ああいった連中の中にも妙にしおらしくなる者はいますし、たぶん大事になって罪を自覚しはじめたのだ、今になって恐ろしくなったのだと思っていました。
その印象は文田さんが手錠を外され、椅子に座り、向かいに上橋が腰かけてからも変わりません。
「何で捕まったかは分かってるな?」
上橋は初っ端で目を剥き、眉に皺を寄せ、ドスを利かせて訊ねました。暴力団員が相手のときによく行う威嚇です。これだけの大事件を起こしたわけですから、容赦しないという意思表示の必要がありました。
これに対し、文田さんは首を横に振ります。
「いいえ。存じ上げません」
「シラを切るな! 逮捕状、読んでやっただろ。てめえは耳が聞こえねえのか?」
上橋はいきなり大声で怒鳴りました。不意を突いて相手を委縮させるのが目的です。その筋の輩には大して効果がなくても、カタギなら怯えるだろうと踏んでいたのかも知れません。私も横から出方を窺っていました。
「何の罪かはお聞きしましたが、私は何もしていません」
けれども表情はそのまま。このあたりで私は幾ばくかの違和感を覚えました。警察官になって五年目を迎えていたので、嘘をつこうとしているか否かの見極めはできているつもりでした。少なくともこの時点では、前者とは断定しがたい。ですがじっくりそれを確かめる暇はありません。大きな音とともに文田さんの顔が視界の外に消えたからです。
目線を移すと、上橋が立ちあがって拳を振るっていました。机を挟んでの体勢ですから力は減殺されたでしょうけれども、いきなりです。文田さんは抵抗する暇もなく椅子ごと床に横倒しになりました。頭を打っていたらまずいのではと、私が立ちあがったくらいです。幸いにして文田さんは反射的に頭の下へ腕を滑りこませていましたが、かなり危険な姿勢だったように見えました。
「少し休ませますか」
私は文田さんの安全を確保しようとしました。この事件は世間の注目度が高かったので、取り調べ中に事故が発生し、別の方向で騒ぎになるのを危惧したのです。
一方、上橋はそんなことはつゆも頭にないようで、即座に首を横に振りました。
「甘やかす必要はない。黙って見てろ」
続けて文田さんの方に歩みより、身体を蹴りあげます。
「てめえがやった証拠は掴んでんだ。さっさと認めろよ」
一度ではありません。何度もです。しかも八割ほどはある程度まで力を加減しつつ、残り二割は思いきり足を振りかぶって腹部に叩きつけていました。痛覚に訴えかけて「いつでもやれる」と分からせ心を折る方法、拷問です。
私は息を呑みながらも、これをしばらく傍で見ていました。今なら大問題ですが、まだ容疑者の人権などが考慮されていない時代です。現在のように取り調べが適切に行われているか否かを確認する監察官はおらず、容疑が濃厚と判断された場合はこういったことが結構な頻度で行われていました。したがって私も選択肢の一つとして拷問を受け入れていたのです。皆そのようにして実績をあげていたので、このときも多少激しいと感じつつ許容範囲だと思っていました。言ってしまえば悪い意味で警察のやり方が頭に沁みついてしまっていたんです。
「さっさと認めろ」
「知りません」
「いい加減にしろ」
「嘘はつけません」
「まだ言いやがるのか」
「やってません」
その様子を眺めていた私は、取り調べがなかなか先へ進まなかったので、さてどうしたものかと文田さんの表情を観察すべく近づいていきました。
すると今度は明らかな変化がありました。先ほどとは異なり、口を強く結んで目をいからせています。これを見た私は堅気の割には強情な反応だ、こんな調子だから暴力団と繋がったのではないかと考えを元に戻し、また距離を置いて椅子に腰を下ろしました。
拷問が止まったのはしばらくしてからです。文田さんが意識を失ったらしく、急にぐったりして何も反応しなくなったのです。上橋はその場でしゃがみ、顔を覗きこみました。
「強情な野郎だ。なかなか口を割りやがらねえ」
私も倣って状態を確かめたところ、息はしています。
「大丈夫でしょうか」
「いらねえ心配すんな。いい身体だ、ずいぶん鍛えあげてやがる」
上橋が軽く舌打ちをして靴を脱ぎ交互にさすりました。足を痛めたようです。再び靴を履いた後、扉の方へかけた声には結構な棘がありました。
「おい、こいつを連れていけ」
そして管理係が文田さんを抱えて出ていくのを待ち、私の肩に手を置いて言います。
「時間をかけている暇はない。今のうちに休憩しておくんだ。俺も適当なとこで横になる。意識を取り戻したらまた絞りあげるぞ。あと管理に言っとけ、食事は出すなとな」
「はい」
私は頷きました。拷問は対象の心身を徹底的に攻撃し、こちらの望む答えを無理やり引きだすのが目的です。まともに休みを与えず、意思の疎通が可能になった時点で再開するのが常識でした。今のように一日八時間などという制限もありません。
実際、三時間後にはまた取り調べがはじまりました。文田さんは身体の動きこそ弱々しくなっていましたが、頬から唇にかけての筋肉を石のように固め、目をらんらんと光らせて抵抗の意思を示しています。
「やっと喋る気になったか?」
「私は……いえ、やってません」
上橋は自供を拒まれるのは想定内していても、いったん言いよどんで否認されたのが癇に障ったのでしょう。すかさず腰をあげ、文田さんの隣に立つなり足の先を椅子に引っかけ、床の上に転がします。
「どこまで頑張れるかな」
次いで左手で襟元を掴みあげ、壁に背を押しつけて無理やり立たせると右手で腹を殴りつけました。たぶんまだ足が痛んでいたのです。強い力の入れられない片手の塞がった体勢ではありましたが、上橋は空手の有段者です。一発、一発が重い衝撃を与えていました。大きく骨ばった拳が身体にめり込むたび、呻き声があがります。額には汗が滲み、顔も苦悶に歪みました。
「吐いちまえば楽になるぜ」
身体を痛めつけられて相当弱っているといっても、普通はここまでされれば相手の腕を払うなり、どうにかして苦痛から逃れようとするはずです。にもかかわらず文田さんは棒立ちのまま、口を開く素振りさえ見せません。むしろ歯を食いしばり、小さくかぶりを振って否定の意思を示していました。
「おら、まだ言わねえか」
「そろそろヤバいんじゃねえのか」
「ムリしてどうなっても知らねえぜ」
「まだ終わらねえぞ」
それどころか、上橋に言葉で嬲られると挑発するような笑みさえ浮かべはじめます。拷問で精神的におかしくなりつつあるのではないか。そんな風にも思えてきました。
結局、取り調べはその日のうちには終わりませんでした。こちらの期待していた答えは出ず、文田さんが再び気絶してしまったのです。
「俺たちは本庁の連中と交代して一晩休むぞ。たぶん、今晩のうちはゲロしねえだろう」
上橋の予想は当たっていました。朝になっても文田さんが容疑を認めたという報せは入ってこなかったのです。おそらく一晩中、まともな睡眠さえ許されず激しい拷問を受けていたというのに、頑固に口を噤んでいました。
よろしければ評価や感想、ブックマークをお願いいたします。




