九 相手 ②
「そこ、いいかい?」
「はい」
僕はすぐに首を縦に振る。成績の差もあってレース外では激しくしのぎを削る競争相手という意識は薄く、割と気を許せる先輩として接していた。葛城さんも似たような感覚のようで、隣に腰を下ろすやペットボトルを豪快に呷る。その中身が喉を通りぬけるのを待って、挨拶がてら何とはなしに訊いてみた。
「葛城さんは、今年は北海道には行かれないんですね」
「ああ。今年は来週まで中京、その後は新潟。どっちも悪くないんだけど、やっぱり北海道のグルメを味わえないのは残念だな」
これに葛城さんが冗談めかして笑う。ローカル遠征をする際、現地での息抜きが関係者にとって楽しみの一つになるのだ。特に中央四場でレースがない夏場は騎手がおのおの競馬場へ移動し、後で顔を合わせた際にあそこが良かったとか逆に悪かったとかの情報交換をするのが通例になっている。しかし自分で口にしておきながら、今はそれに現を抜かしている場合ではないことを思い出す。話題もちょうどそちらの方に変わった。
「そうそう、さっき児玉さんからいろいろ指示を受けてたみたいだけど、やっぱり細かい?」
「はあ、そこそこは」
「いやあ、遠くから眺めてて昔のことを思い出したんだ。児玉さん、割とこだわりがある人で周りは落ち着かないって前から評判だったし。ただ、かくいう俺も人にあれこれ言ってる場合じゃないけど。何せ春が期待に応えられなかったもんで」
「あそこまでの成績で、とんでもない」
葛城さんは今年の宝塚記念を勝っていることから、僕はてっきり上半期全般を指しているのだと思っていた。しかし、どうもそうではないらしく小さくかぶりを振る。
「皆そこまで好意的には評価してくれないよ。といっても一応、名誉挽回の機会を与えられてホッとしてる。コルドロンスヴォーでね」
ぼやいているのは春クラシックについてだ。言われてみれば年明け時点でやれ三冠だ、クラシック確勝だと騒がれながら、皐月賞もダービーもすんでのところで逃してはあれこれ責める者がいてもおかしくはない。オーナーからは厳しい要求もあっただろう。そのうえで続投の判断が下されたのは、確たる実績と信頼があればこそ。もし僕がそこまでとはいかなくても近い数のトロフィーを獲得していれば、あの噂があっても状況は違っていたのではないか。それならエフタリテスと一緒に勝負ができたのに、と腹の中で呟いていると葛城さんが別方向に目を向ける。
「まだ先の話になるけど、早めに帰厩してみっちり鍛えあげるみたいだ。当然、俺も出来るだけ調教に乗る予定だし、秋に菊へ行くのにぬかりはないよ。そこの二人もそうだよね」
その先にいたのは、菅沼と月川だった。僕や葛城さんと同様、午前の調教を終えて休憩しに来たのだ。先日、こちらの触れられたくない部分に踏みこんできた菅沼とは顔を合わせたくなかったが、葛城さんの手前、あまり表に出すわけにもいかずしばらく黙ることにした。
「はい。そのお話をしようかと思っていたところです」
「失礼します」
菅沼と月川はそれぞれ短く答えると、向かい側の席に腰かける。葛城さんは敵陣営の腹を探るつもりか、いきなり本題に入った。
「菅沼くん、なかなか順調なようだね。君のこともさっき見ていたよ」
「恐縮です」
「ジーシースクエア、ずいぶん順調そうじゃないの」
「腰痛もすっかり治りました。体質はかえって強くなったような気がします」
「それは楽しみ。で、今後は噂どおり?」
「先生とオーナーで相談中ですけど、たぶん菊に向かうと思います。馬はまだ良くなるはずですし。不安は暑さでしょうか。昨日あたりいきなり気温が上がって、この時間でもかなりきついですからね」
菅沼は立場が上の相手にはとことん低姿勢を貫きながら、肝心な情報は漏らさない。葛城さんもそうした態度は読んでいたと見え、すぐに視線を横に移した。
「そこはどの馬も同じ条件だよ。じゃあ、今度は月川くん。先週、勝ったニアンフレイグも菊に出たら面白そうだよね」
「はい。正式決定ではありませんが、周りはそのつもりみたいです」
「思ってたとおりだ。いつこっちに戻すの?」
「先生は来週と仰っていました」
「なるほどね。事前情報のとおり、夏の間にもう一回使って賞金確保ってとこか」
話を振られた月川の方も似たような回答に終始している。菅沼と違って、妙な馴れなれしさや媚びへつらいのない淡々とした口調だ。
だが、僕は別の部分が気になっていた。葛城さんの挙げたニアンフレイグなる馬名はまったくの初耳。エフタリテスが負けて以降、新勢力の台頭に目を向ける余裕がなくなっていたのである。
それがどんな馬か。訊こうとしつつも不用意に口を開くと動揺を覚られてしまうように思われ、ならば自分で調べようと席を立っていた。
「すみません。用事があるので失礼します」
その日の夜、僕は自室で横になって何度もニアンフレイグの映像を見返していた。
データと併せて相当に不気味な存在だ。ここまでの戦績は七戦二勝。二歳の夏にデビューしてしばらくは掲示板に入ったり入らなかったりを繰り返していたのが、先月上旬の六戦目になって馬が一変し未勝利戦を二馬身差の楽勝。その次も六馬身差で圧勝していた。ある程度レースを使われ、なおかつエフタリテスより遅れて力をつけた今日では珍しい古典的な夏の上がり馬だ。直線の末脚が武器という点ではジーシースクエアと同じでも、道中は中団からやや後方のポジションを取るため脚質的にペースや展開に左右されにくく、持久力もこちらの方が上。何より一勝目が二〇〇〇、二勝目が二六〇〇メートルと距離実績があり、因果なことに後者はクラスこそ下とはいえエフタリテスが敗れた舞台と全く同じ。父がジャパンカップの覇者ストリートヒーロー、母が三〇〇〇メートルのオープン戦で優勝したムツノモナリザ、その父が日本ダービー馬ジャングルスポットという血統や馬体からも長距離は得意と判断してよい。
くわえてコルドロンスヴォーが春の雪辱を誓い、ジーシースクエアが初戴冠を目指して虎視眈々と準備を進めている。主だったところだけでライバルが三頭。非常にまずい。三畑騎乗のハヤバシリが軽度の故障で放牧、菊花賞を断念したというニュースはあるものの戦局への影響はわずかだ。クラシック最後の一冠を巡る争いは激しさを増している。先ほどまで最悪トライアルは他の騎手で三着以内に入り、その後に僕が復帰して本番を迎える流れも想定に入れていたが、神戸新聞杯へ回るであろうコルドロンスヴォーは別にして、ジーシースクエアとニアンフレイグの両方とかち合った場合はそれすらもきつくなる。誰が乗っても勝てるほどエフタリテスの実力が抜けているならともかく、現時点ではそうではない。ましてやセントライト記念はポテンシャルを十分に発揮できる舞台ではないのである。これでますます僕が乗るしかなくなってきた。
今のところは大賀さんと協力して、祖父が関与したとされる事件が冤罪であった旨を証明する方向で動いている。しかしそのやり方に対する不安が次第に大きくなってきた。先週あたりを境に進展のない状態が続き、手詰まり感が強まっているのだ。
ならば、当初の案に立ち戻るべきではないだろうか。僕の祖父が文田猛志なのは事実としても、だからといってそれをむやみやたらと吹聴していいわけではない。素人でも事実を公然と指摘し、他人の名誉を傷つければ名誉毀損が成立する。競馬が公営ギャンブルであることから、刑事事件に持ちこめる可能性もある。ここを突けばいいのではないか。噂を流した張本人が認めないというのなら大々的に裁判に打って出、警察に駆けこむ姿勢を見せて風説を撤回させる。相手が徹底抗戦に出た場合は長期戦は避けられず、エフタリテスはほとんど諦めなければならないとしても黙っているよりはましだ。
問題は、それが誰かだ。
以前、あれこれ考えたときは皆目見当もつかなかった。しかし今日になって、かなりの部分まで絞りこめるような気がしはじめていた。具体的には昼間、僕が会った菅沼展明と月川敬誠の二人に三畑智久の計三名だ。もちろん根拠もある。
一般に比較的長いと思われている騎手のアスリート寿命は、実態としてはイメージほど他の競技との差があるわけではない。たしかに真のトップジョッキーは四十歳を過ぎても活躍できるが、大半は三十代で調教師や調教助手に転身するか、騎手免許は保有しつつ表舞台からは退いて厩舎で調教をつけるようになる。その分岐点がだいたい二十代半ばあたり。そして三人の年齢はだいたい同世代と呼ばれる範囲に収まっている。六年目の三畑は完全に僕と同学年、菅沼は一つ上。月川も二つ下。
さらにリーディングの順位も互いに接近しているのだ。僕が関東五位で全国十六位、菅沼が関東七位で全国十九位、三畑が関東八位で全国二十位、月川が関東四位で全国十三位。四人揃ってGⅠは獲得できていない。一昨年はここまでの成績に至っていなかった僕がランクを上げ、三人の間に割って入るのみならず素質馬に巡りあって一歩抜けだそうとしている。彼らのうちの誰かがこの厄介なライバルを蹴落としてやろう、潰しておこうと目論んでもおかしくはない。
菅沼や月川の目からして、大いにあり得た。有力馬で菊花賞に参戦するはずだった競争相手が一人消え、代わりに自分たちが素質馬で同じレースに挑む。策が功を奏した、ざまあみろとでも腹の中で嘲っていたのではないか。少なくとも馬鹿にはしていた。またあの場にはいなかった三畑も疑わしい。競馬学校でも口数が少なく、何を考えているか分からなかった。あるいは三人のうちの一人だけではないのかも知れない。場合によっては二人、殊によると全員の共謀か。
いや、直近のリーディング順位は抜きにして、あの三人とは別に是が非でも今年の菊花賞を狙っている人物の仕業とも考えられる。その点では葛城さんも怪しい。コンビを組んでいる馬の状態は誰より詳しく把握しているだろう。コルドロスンヴォーがクラシック無冠に終わることを恐れ、危険な芽を早めに摘むべくエフタリテスに狙いを定めて手を回したとの推測は可能だ。
そうでなければ騎手以外の競馬関係者か。たとえばうちの厩舎の人間などだ。思い出してみると、近ごろ何となく成田さんや八島さんの挙動が不審だった気もする。どことなくよそよそしく感じられるのだ。その他だとすると、まさか児玉先生かと頭に浮かんで止める。先生だけは疑ってはいけない。
それともオーナーの中林さんか。厩舎と波風を立てずに愛馬の鞍上をより成績のよい騎手に替えるため、自ら噂を流して直に先生に吹きこんだ可能性はある。ここまでの大事になるのは想定外だっただろうが、動機も十分に説明がつく。
駄目だ。いくら記憶を辿っても、この中の誰かに絞って当たりをつけるヒントすら見つからない。むしろ余計に分からなくなる。
寝返りをうった僕の頭に、いっそ中林さんに誰から噂を聞いたか訊ねようかとの案が浮かんだ。エフタリテスの降板に納得がいっていないことくらい承知のはず。誓って潔白であり、噂の出所を探りたいと申し出れば嫌とは言わないのではないか。仮に噂を流した張本人だとしたら、その場の挙動や受け答えに不審なところが見つかるかも知れないのだ。
ただ、どうやって会うか。会社に連絡をしてアポを取るといっても、応対してもらえる保証はどこにもない。中林さんに拒否される、もしくは取り次がれない恐れがある。その場合、児玉先生に迷惑がかかるのは確実で、今後の信用に関わる。僕自身の悪評も広まり、傷口が広がるだろう。無理だ。僕には出来ない。この案は却下だ。
他に手段はないか、何でもいい。再び神経を集中させたとき、枕元のスマホが震える。手に取ってみると、大賀さんからメッセージが届いていた。
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