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冤罪  作者: 新宮義騎
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18/36

九 相手 ①

 僕はその日の朝も、トレセンで調教に乗っていた。

 ヘルメットとゴーグルを身に着けて足を鐙にかけ、腰を宙に浮かせながら行く気に逸る馬を宥める。この馬──ソガビットは気分屋だ。集中力が散漫にならないよう視線の下方を遮る、鼻当て状の馬具であるシャドーロールを装着してなお落ち着きが悪く、今日も妙に力んでいる。トラックコースのウッドチップが普段より高く舞いあがるのが見えた。

 まだだ。仕掛けるのは早い。我慢をさせなければ。僕は手綱を緩める。馬には、こんなとき力づくで抑えて従うのとそうでないのがいる。ソガビットは後者だ。こちらの意図を必ずしも素直に汲んでくれるわけではなく、他と同じようなマニュアル通りの操作をしようとすると反発する。慎重にコミュニケーションを取る必要があった。

 むろん彼なりの流儀に従って意思の疎通をはかれば、言うことは聞く。単に少しばかりひねくれ者であるだけだ。ちゃんとこちらに心を開いており、さほど間を置かずして速度を落としてくれた。ソガビットは決して知能が低い馬ではない。確固とした自我を尊重し、その調子だと伝えるべく僕はいつものように左手で首筋を撫でた。

 続けて斜め前方に目をやる。そこにいるのは併せ馬のために先行させておいた二頭だ。両馬との距離が縮まっているのを確認して左手で手綱を握り、少しだけ手前に引いて騎乗馬をコースの内側に滑りこませる。ピッチ走法ということもあってコーナーリングはよく、滑らかにラチ沿いを進む。その間にも先行馬の姿は少しずつ大きくなっていき、やがて直線に入る。差はおよそ二馬身。ここら辺が仕掛けどころだ。僕は右手の鞭で軽く肩を叩いた。敏感な馬はこれでいい。神経質すぎる気性の持ち主は必要以上に刺激しても無駄になるどころか、のちのち悪い影響が残る。

 ソガビットの反応は期待どおりだった。首の振りが大きくなったかと思うと脚の回転も上がり、あっという間に二頭を交わす。ゴール板を駆け抜けたのはその直後だった。先行馬の走りが軽めだったことを勘案しても、結構な決め脚だ。

 僕はその後もしばらく馬を走らせ、徐々に速度を落として歩かせた。調教の目的は多伎にわたり、指示されたタイムで一定距離を走ったり要請どおりに馬を追うほか、体調を確認し、癖が分かった際には状況によって矯正を試みる。時にはこのようにレースのシミュレートも行うのだ。傍で眺めていた先生は、まずまずといった顔をしている。

「いい走りだね。ラストもだいたい想定どおりだ」

 労いの言葉をかけられた僕は、鞍から降りてゴーグルとヘルメットを外したあと、乗り手としての素直な感想を不安まじりに伝えた。

「ありがとうございます。でも最初の方で少し行きたがりました」

「そこが気になるのはいつものことだけど、今日うまくいったんじゃないのか」

「はい。問題はレース当日にその悪い癖が出ないかどうかですが」

「そこは高井に何とかしてもらうしかない。現状、手は尽くしてあるからね」

 もっとも、その点をいくら考えても無駄だというのは分かる。先生はこれまで調教メニューやカイバの種類、サプリメントに馬具を替えて改善を試みている。あとは騎手が競馬場で対処する仕事だ。うまくいかなかった場合を想定して予防線を張ったのも見抜かれていたらしく、僕は小さく俯いて頭を掻くも予想外の話題を振られてすぐに顔を上げる。

「あと、エフタリテスの次走が決まった。セントライト記念だ。中林さんも快諾してくださった。少し間を置いて提案したので、すんなり受け入れてもらえたよ。負けた直後の頭に血が上っていたときだったら危なかっただろうけれども」

 中林さんは、あのレース当日にクルーガーの降板を要請していた。先生が仰るように不適切なタイミングで意図にそぐわない提案をしようものなら無用に機嫌を損ね、仮にまっとうなプランでも感情的に拒絶されていたかも知れない。何にせよローテーションについては希望どおりに決まった。しかし一番の心配は他にある。

「鞍上は決まったんですか?」

 僕は次の、と言いそうになるのを喉の奥へ押しこんだ。状況次第では、本当にその騎手がエフタリテスの主戦に収まってしまう。馬の将来を案じるなら個性を把握してもらうため、一回でも多く調教に乗せるべく早いうちに騎手を確保するのが望ましいが、新しいコンビが好成績を収めれば二度と手元に戻ってこない。口に出すとそれが現実のものになってしまう気がしたのだ。

 ただ、先生は苦笑いをしながら首を横に振る。

「いや、まだだ。さすがにもう下手なのは乗せられない。早く決めておきたくて何人かに声はかけたんだが、先約があってね。誰でもいいってわけにはいかないし」

 多分これは本音だろう。前回と同じように急いで決断した結果、また騎手の選定を誤っては元も子もなく、今度こそ取りかえしがつかないことになる恐れがある。中林さんの信頼を失ったわけではないとはいえ、少なからず失点を喫したのは事実だ。汚名返上を求められているのは間違いない。

「そういう訳だから、あまりそちらに気を取られないように。焦っては駄目だ。平常心を保ってくれ」

 よって去り際の一言も、どちらかといえば先生ご自身への呟きのように聞こえた。むろん、僕も騎手としてその指示に従うつもりでいる。四六時中、例の噂や秋どうなるかなど悩んでいても仕方がないからだ。

 ところが、不意に考えが再びエフタリテスの方に戻る。休憩を取ろうとスタンドへ足を向けたとき、乗り運動を始めたある馬が視界に入った。栗毛に、四肢の膝下と額から鼻筋にかけて通る白い筋で分かる。

 名前はジーシースクエア。二歳の秋に新馬、オープン戦と連勝したあと筋肉系のトラブルで長期の休養を余儀なくされたものの、復帰戦となった今月頭のGⅢラジオ日経賞で見事に重賞初制覇を遂げた三歳牡馬だ。通算成績は三戦三勝と底を見せておらず、後方からの鋭い末脚が着差以上に強い印象を受けるのも相まって、巷では新たに現れた菊花賞の有力馬と評されている。背中に跨っているのは、ここまでのレース全てでコンビを組んでいる菅沼。以前、トレセンで話していた期待の星というのがこの馬だった。父がドバイターフの覇者リアルインゴット、母がアメリカのGⅡ馬ロキシー、その父がアメリカのGⅠ馬ウッドアレイというさほど長距離が得意とは思えない血統でありながら、こうして直に目にしてみるとイメージより胴が長く、骨格も比較的コンパクトで身幅が薄い。

 一般に距離適性と胴の長短は比例し、体重も軽い方が長い距離に対応しやすいと言われる。記憶違いでなければ直近の馬体重は四六〇キロ台と斤量負けするほど軽すぎはせず、長丁場で余計なスタミナを消費するほど重すぎはしないかなり理想的な数値だ。デビュー以来一貫して一八〇〇メートル戦を使っており、それ未満の距離は一度も走らせていないのも強みだ。菊花賞を目指すのであればこの時期には二〇〇〇メートル以上を経験させておくのがセオリーだが、初戦と二戦目は流れが遅く、むしろ消耗を避けて長いところのゆっくりとしたペースに慣らすのに格好の機会だったと捉えることもできる。

 そのジーシースクエアが、馬体を躍動させてキャンターに入った。黄色い体毛が夏の日差しを反射して輝いている。三戦いずれも余裕の勝利だったうえ、十二分すぎるほどにレース間隔が空いたのもコンディションの維持、向上に大きく寄与していた。本格的な調教でないにもかかわらず、どの脚もスムーズに前方に伸びている様子から股関節の可動域の広さも窺える。京都の広いコースはいかにも相性がよさそうだ。夏の間も放牧には出さず、調教師の手元に置いているのを見るに意図してそのような育成をしているのだろう。

 もっと言えば賞金に余裕があるおかげで、本番まで無理をさせる必要もない。仮に前哨戦で勝てなくとも、本番を見据えたテストに大きな比重を置ける。より長い時間を乗りこみなどによる能力の完成に割けるのだ。本来ならエフタリテスも同じ条件で秋を迎えられたことを思うと、改めてこの間の敗戦が悔やまれた。

 僕は頭を捻る。そのエフタリテスでジーシースクエアを退けるにはどうすればいいか。舞台は秋初戦でぶつかると思われるセントライト記念ではなく、本番の菊花賞だ。

 まず天候はあまり期待しない方がよさそうではある。こちらが重い洋芝の函館で十分なパフォーマンスを発揮した一方で、あちらも福島のパワーが要求されるコースをこなしている。ならば距離が長い分、もっと持久力を問われる不良馬場になればよいかとなるとそうとも言い切れない。こちらもそこまで足元がタフな競馬は未経験なのである。馬場条件はイーブンと見るべきだ。

 ただし、それ以外の要素は話が別だ。とりわけ前が止まりにくい京都の長距離では、先行策をとれるこちらが圧倒的に有利になる。スタートをうまく決め、できるだけ前につけて内側の位置をキープし、第三コーナーを通過して下り坂に入ったあたりで仕掛け、自ずと上がるスピードに乗って足りない加速力を補う形に持っていくのが勝利のための唯一にして最善の策だ。この作戦は相手がどんな馬であろうと、よほどの事がない限り変えるつもりはない。要するに選択肢はこれまでと同じで勝ちパターンは限られているわけだが、レースを主導できるのは確実に強みになる。何より本番ほどの長距離ではないにせよ、二六〇〇メートルであそこまでの競馬ができたのは大きい。今後の伸びしろという点でもかなりの期待ができる。

 対してあちらは距離の心配がある。どんなにペースが遅くても積極策は取れず、後方待機に徹するはずだ。しかも道中はそこで脚を溜めるにしても、内を通って距離のロスを減らそうとすれば肝心なときに馬群から抜けだせなくなる恐れがあり、逆に周りに邪魔されないよう外を走ると途中で息切れを起こす可能性が高くなる。どちらを取ってもリスクが付きまとうのだ。この先、トラブルがなければ鞍上は菅沼のまま。堅実な反面、危険な賭けや難しい判断に出るケース、あるいは周囲の予想を裏切っての大胆な騎乗はほとんどないと見ていい。馬体に関しても三月生まれですでに肩が盛りあがりはじめているように早熟な部類に入ると考えられ、これ以降に急カーブを描いて大幅に成長する姿は想像しづらい。世代限定の菊花賞では完成度の高い中距離馬が総合力で押しきった例が過去にあることを考慮に入れても、適性の差を逆転するほど圧倒的な能力の持ち主ではない。

 そこでふと我に返る。今、完全に僕が乗るつもりで方針を練っていた。つい先ほど先生に次を探していると言われたばかりなのにである。鞍上復帰の可能性が示唆されているとはいえ、前提となる疑惑の払拭はまだだ。いくら本番を想定しても、乗れなければ机上の空論でしかない。作戦を提案したところで採用されるか否かは不明であり、そもそも僕以外が容易くそれを実行できるとも思えない。

 気づけばジーシースクエアは馬場の遠くに行っていた。どうやら割合長い時間、一人であれこれと想像していたらしい。

 ともかく僕は改めてスタンドへ向かい、休憩室の椅子に座る。頭をはたらかせていた分、疲れていた。この時間帯は同じように昼、あるいは午後まで仕事のない他の騎手や厩務員が出入りをしている。そんな中でアイスコーヒーを飲んでいると、後ろから声がした。

「お疲れ。久しぶりだね」

 見れば、葛城さんが来ていた。

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