八 恫喝 ②
野山さんが食事に誘ってきたのは、単純になぜ俺がこの件に力を入れているかに興味があったからだという。あまり人に打ち明けたい内容ではなかったが、助けてもらった以上黙っているわけにもいかず、経緯を説明すると「人は見かけによらないものだ」とお褒めの言葉ともその逆ともとれる感想を述べ、「いろいろ取材をするのに都合が悪かったら、トレセン当番くらいは交換してもいい」と申し出てくれた。本当にありがたい話であり、帰宅して風呂を済ませても俺の頭にはそのときの野山さんの顔が消えきらず印象に残っていた。
だが、いつまでものんびりとしてはいられない。机に向かう俺の手元には何枚ものA4用紙がある。検察からコピーを取得した、〈文田事件〉の取り調べ内容が書かれてある供述調書だ。
俺はここ数日、仕事を終えた後の多くの時間を、この調書との睨めっこに費やしていた。もしかすると事件に関する何かしら隠された事実があり、それを諸事情によって検察かマスコミ、もしくは両方が結託して秘匿したのではないか。そうしたことがあった直接の証拠とまではいかなくとも、背景を示す痕跡だけでも調書のどこかに残っているのではないか、情報の発信手段が限られていた当時なら十分あり得るのではないかといろいろ思案していたのである。
もっともその期待は現状、裏切られていると言わざるを得ない。記録に残されている内容は「文田がM山会系Y村組の構成員である紺野純平と結託して真木豊吉を饗応、クロダモノノフを敗退させた」というほとんど既知の情報だ。一応は収穫と呼べる暴力団員の個人名も、今後どれだけ役に立つかは疑わしい。Y村組はとうの昔に解散しており、その筋の人間と渡り合うスキルも持ちあわせておらず、現在の所在地どころか安否を確かめる手段すらないのだ。
唯一の希望は、「福守清佐久」なる取り調べ担当者の氏名だ。いま俺が手にしている供述調書にしっかりその名前が記されている。どうにかしてこの人物とコンタクトがとれれば、事情を訊くことができる。
ではどうすればよいか。最初に思いついたのは、俺か高井くんがどこかの探偵に依頼する方法だ。俺はまともに人探しなどした経験がない。高井くんも文田の戸籍を取り寄せただけで精一杯だったから、似たようなもの。費用も二人で協力すれば捻出できそうだ。
しかし問題もあった。コンタクトを取れるかどうかは探偵の腕次第になる。またいつ見つかるかも気がかりだった。はっきりとした期限が定まっていない俺はともかく、高井くんはあまり遅くなると都合が悪い。ならば別の手段を考える必要がある。仮に探偵の助けを借りるとしても、俺たちでやれる事はやった方がいいに決まっている。ではその具体的な方策はどうかと頭をはらかせても、いいアイディアは何ひとつ出てこない。コーヒーを二、三口喉に流しこんで無理やり神経を叩きおこしてもである。俺は供述調書から手を離し、軽く机の上に放った。
困ったのが、この資料が司法の作成した公文書であるという点だ。もし俺が手にしているのがいち企業の社員が残したものであれば、会社に訊いて何らかの回答を得られる見込みがあるのだが、これを作成したのは歴とした警視庁の刑事、公務員なのである。あちらは公務で個人情報を収集し放題なのに対し、不公平にもこちらが退職者の連絡先などを問いあわせたところで絶対教えてくれない。接触手段が皆無なのである。
狭い部屋の中、脚を上げて机にかけ、椅子ごと壁に寄りかかる。俺は内心、もう〈文田事件〉の真相を探るのは難しいのではと思いはじめていた。当時を知る競馬関係者が他になかなか見つからない。乾さんからの連絡もない。聞き取りで話に出てきた須本と事件のもう一人の当事者である真木豊吉は同業者の伝手で行方を追ってもらっている最中。過度な期待は禁物だ。
考えに詰まった俺は、ふとスマホに手を伸ばしてSNSをぼんやりと眺める。会社のアカウントから発信したメッセージには、幾つもの返信がついていた。
佐藤進「大賀さん、土日のメインを連続的中。おめでとうございます」
ネットーリ「あなたの予想を信じて大正解。五万ゲット」
鈴木浩和「俺も儲けさせてもらった。今夜は奮発するか」
堀之内ホイホイ「どこ行くの? 焼肉? 高級フレンチ? それとも風俗け?」
ギャンブル狂親爺「大賀記者、確変に突入」
GⅠでもない普通のメインレースで予想を当てただけでこの反応なのだ。もし俺が〈文田事件〉の真相を暴いて白日の下に晒すことができれば、反響の大きさは計り知れない。これらのコメントの比ではないだろう。興味をもってくれるのは、ここで喜んでいる馬券購入者より社会一般の問題に関心を寄せている人たちの方だろうが。
俺はもう一度SNSの投稿を見る。アカウント名はまちまちだ。本名らしきものもあれば明らかにそうでないのもある。前者に含まれるのが「佐藤進」と「鈴木浩和」。どちらもありきたりな名前で、実際は誰だか分からないと高をくくっているのか、あるいはプロバイダやある程度詳しい人間には隠しても無駄だと開きなおっているのか。何にせよ開示請求でもしなければ個人の特定が困難であるのに変わりはない。
それから俺は再び供述調書を覗きこむ。「福守清佐久」。あまり目にする機会のない姓名の組みあわせだ。世代が幾つも違うのを考慮に入れても、清佐久というのは古めかしい印象がある。また福守という苗字の人物にも会った覚えはなく、手元のスマホで調べてみると全国でも二百人もいないとあった。
俺はSNSを通じてコンタクトを試みようとするも、いったん思いとどまる。〈文田事件〉は強い衝撃をもって社会に受けとめられた。当時マスコミも相当騒いだだろう。ということは、警察も取り調べ担当者には実績と経験のある人物を充てたはずだ。たぶん事件が起きた一九七〇年時点ですでに三十代半ばにはなっていたのではないか。だとすると現在かなりの高齢であり、SNSを使っていない可能性が高い。事実、文田、真木、須本らは検索バーに氏名を入力してもいずれも該当のアカウントが見つからなかった。この案は比較的早く頭にあったが、まったく関係のない他人だった場合に傷口を広げてしまう恐れがあることから実行に移すのは躊躇していたのだ。
ただ、こうも珍しい名前となるとやってみる価値はあるのではないか。検索で引っ掛からなければ別の方法を探るまで。俺は画面をタップし、慎重に表面に指を滑らせて漢字五文字を打ちこむ。それからサーチボタンを押すと、一人だけヒットした。
「福守清佐久」
いた。しかもありがたいことに一人だけ。俺はすかさず指を走らせた。
「はじめまして。突然のご連絡を失礼いたします。私は〈スポーツ東都〉で記者をしております大賀慶介と申します。以前、刑事をされていた福守清佐久さまでしょうか? もし誤りでなければお訊きしたいことがございます。誠に勝手なお願いではございますが、お返事をいただけませんでしょうか。何とぞ宜しくお願いいたします」
次いで画面上の一点に指を置く。画面上に機械的に「送信しました」との文字が表示された。アプリの反応を確認するに、今のところメッセージは先方に届いている。少なくとも知らない相手からの送信を拒否する設定にはしていないようだ。とはいえ、新着通知などを見る習慣がなかったり、中身を怪しんで即座に破棄してしまうことは十分に考えられる。刑事という職業柄、退職後に赤の他人に素性を明かしたくはないだろう。メディアに顔を出す者もいるが、あれは例外で普通は躊躇する。返事が来る保証はどこにもなく、仮に来るとしてもいつになるかも分からない。明日になるかも知れないし、一週間後かも知れない。あるいは一か月後か。いずれにせよこのアクションが功を奏するかどうかは未知数だ。
俺はしばらく悩んだのち、反応の有無は相手に任せるしかないと覚る。そして供述調書をクリアファイルに入れて引き出しにしまい、机から離れて背後のベッドに倒れこんだ。
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