八 恫喝 ①
木曜の朝、俺はオフィスで罵声を浴びせられていた。場所は嫌でも周囲の視線を浴びるフロアの前方。置かれているだけで威圧感を覚えるどでかいデスクの真正面である。
「大賀てめえ、この間あたしが言ったこと忘れたのか」
言うまでもなく相手はクソ編集長だ。いつにも増して威勢がいい。だが具体的な内容を明示されていない以上、回答は不可能。俺はエスパーではない。
「どのようなお話でしたでしょうか」
「高井が八百長してるだの、昔の事件がうんたらって話、どうでもいいって言っただろ! それくらい察しろよ!」
向かい側ではヤニまみれのガチャ歯が剥きだしになり、喉笛を噛みちぎらんばかりの怒気が発せられている。出勤したてにガツンとかましてくるとはどこまでも根性の悪い奴だ。とはいえ単純に応戦してはガキそのものであり、逆にやられ続けるのも癪に障るばかり。よってこんなときは慇懃に受け流すに限る。そこで咄嗟にうってつけの答えが見つかった。
「ええ、たしかに仰いました。ですので編集長から信頼いただけるよう、私なりに業務に取り組んだつもりです。結果は先々週の紙面でご存じかと思われますが」
当番だったその週の金曜、俺は馬連一点勝負でメインレースを的中させていたのである。しかも土曜は大多数が単穴以下と見ていた馬同士のワンツーフィニッシュ、日曜は単勝一倍台とブービー人気の決着。過去の実績を比較するだけではできない、トレセンに足を運び注意深く馬を観察していればこそ可能な芸当だ。SNSでも俺と社の名前を挙げて称賛するコメントが幾つかあった。刊行紙の実績と信頼獲得に貢献したのは間違いない。
ところが編集長は荒く鼻息を吐き、ますます憤怒を募らせる。
「何それくらいで得意になってんだよ。ドヤ顔でしてやったり、みたいなつもりか?」
競馬記者に課せられた第一の使命は勝ち馬予想と有力馬の情報提供であり、俺の仕事に不足はなかったはず。にもかかわらず、そんなのはお構いなしといった言い草だ。
「てめえはこう言いたいんだよな。仕事はしてやってるから、それ以外は何をどうしようが勝手だろって。あたしの耳にちゃんと入ってんだよ! トレセンで高井と一緒にいたんだろ?」
元競馬担当の編集長はオフィスで細かく指示を出すだけでなく、今も時おり競馬場に足を運んでは昔培った関係者とのパイプを維持しているという。二人して種々の検討をしていた姿か小久保さんとお会いしていたのを誰かが目に止め、どこかでポロっと溢したのを昨晩あたりに伝え聞いたのだ。
「はい。たしかに高井騎手に取材をしておりました」
「今度、どれに乗るんだ? どうせ大したレースじゃないだろ」
俺がトレセンでのごく自然な光景を口にしても、結論ありきで矢継ぎ早に質問を繰りだしてくる。こちらの魂胆をハナから見抜いており、何としてでもこの話題をほじくり返すつもりのようだ。
「騎手への取材はレースの予想のためだけではありません。厩舎の動向を探るなど必要なこともあるのではないかと」
「で、収穫あったのか?」
「いいえ、残念ながら。児玉厩舎には、これといったニュースがなく」
「白ばっくれんな! 今度はごまかしようがないように質問してやる。お前は当番の週、高井の八百長疑惑について本人としたのかって訊いてんだよ。特に〈文田事件〉がホントかどうかをな」
「たしかにお話はいたしました」
「さっさとそう言え!」
露骨な態度でのらりくらりと攻撃を躱しても効果はなく、かえって火に油を注ぐことになったのか、またも怒号を響かせる。もしかするとボルテージは過去一番だったかも知れない。編集長の癇癪に慣れきったフロアの一同も、さすがに驚いて一斉に視線を浴びせてくるのを背中に感じる。それでも今日ばかりは粘ろうと、いったん踏みとどまった。
「ですが、休憩時間です」
「ああ? だったら何やってもいいだろって? もしそんな言い訳が通るんなら大酒飲んで出社してもいいとか、休日にクスリやってもいいとか、そこらの中高生買ったっていいってことになるよな。そうじゃねえだろ?」
ただ意表を突かれると返答に詰まる。ここまでメチャクチャな言い分への即応は難しい。最初のひとつは仕事に影響があり、他ふたつは犯罪に他ならない。逆にこんな無理な例を持ちだしてきたのは、労務遂行と関係ない私生活への干渉、違法行為と自覚している証拠だ。
「そういった事と私の取材を一括りにするのは」
俺が押しかえそうとするも、耳をつんざくばかりの大音声がそれを遮る。
「いいから黙って従え! 高井に接触するな、昔の事件なんざ追うな。命令だ!」
こうも強硬に来られては抗弁のしようがない。もはや是が非でも俺を組み伏せようという感情論が先行している。周囲もこの緊迫した空気に辟易しているらしく、もう俺に反論するな、さっさと首を縦に振っとけと言わんばかりの圧力をあからさまに発しはじめた。
この場を取り繕うのはたやすい。形だけでも頷いておけば話は終わる。だが引きつづき高井くんと行動を共にしてそれが再度ばれようものなら、いちだんと面倒な事態になるのは鏡にかけて見るがごとしだ。取材活動を完全にトレセンの外に移すとしても、どこに誰の目があるか分かったものではない。今でさえ真相究明の目途が立っていないのに、顔を合わせるだけでも結構な手間になり身動きすら取れなくなる。場合によっては年度末を待たずして即刻異動、下手をすればクビになる恐れがあった。その前に反撃しておいた方がいいだろうか。実のところ、ポケットに忍ばせてあるスマホの録音アプリをすでに起動させている。これを盾に労基にでも駆け込んでやろうかと迷っていると、意外な声があがった。
「編集長、ひとつよろしいでしょうか」
見れば野山さんが立ちあがり、こちらへ歩いてくる。普段、上には絶対服従を貫いているだけにみな驚いていた。編集長とて例外ではない。豊富な経験から予想の的中率が高い敏腕記者を、比較的給料の安い再雇用枠で雇っている弱みもあって強くは出られないのだ。
「私も最初、大賀があの話を出してきたときは取るに足らない噂だと考えてました。ただこの間、当番の週にトレセンで他の記者にも同じ噂を聞かされまして、もしかすると大事になるんじゃないかと思いましてね。仮にそれが誰かが意図して流した嘘であっても、場合によっては罪に問われるわけですから。少なくともこの件はウチ以外の社も掴んでいるはずです。編集長のご判断次第ではありますが、先に動き出していたのに折角の特大スクープを逃したら、それこそ大魚を逃すことになりかねません」
「しかし、もしただのデマだったら無駄足を踏むハメに」
編集長がそう呟きかけた隙を逃さず、すぐ隣で足を止めた野山さんがやんわりと畳みかける。
「いいじゃありませんか。その無駄足をわざわざ勤務時間外に踏んでくれるんです。言ってみればタダ働きだ。空振りに終わってもウチの社の懐はまったく痛まない。私が編集長の立場なら、放っといて結果だけ頂戴しておきます。まあ、今の話をお聞きするに、大賀は高井騎手に近づきすぎのような気がしますし、昔の事件を追うやり方もちょっと変わっているかも知れませんが、そっちの方だって収穫があれば儲けものです」
ひたすら利益を強調し、怒りの矛先を逸らすうまい言い回しだ。もし俺が同じポジションで誰かをフォローしようとしても「記者の仕事はそもそもほとんど無駄足だ」「今さら何を言っているのか」などと挑発してしまっていたに違いない。さすが年の功だ。
「分かりました」
それは編集長の妙にしおらしい返答で、より顕著に感じられた。
「大賀、野山さんに免じてこの件に関してだけは許してやる。ただし予想結果は続けて残せ。手抜きしたら今度こそ止めてもらうぞ!」
最後だけは元の声量を取り戻したものの、説得に折れたのは確かだ。このポストに就いて初めて言い負かされたのが気まずいのか、カリカリした空気を撒きちらしつつ腰を上げてスタスタとフロアの外へ出ていった。
俺はそこでようやくほっと息をつき、全身に脱力感を覚えながら野山さんと一緒に後方へ引きかえしていく。その間、周りは何事もなかったかのように仕事に戻ったり、こちらを反抗的な態度で場を険悪にした鼻つまみ者同然に眺めまわしてきたり、「お疲れ」「大変だったね」など労いの言葉をかけてきたりと様々だった。それからもすぐには自分の席には座らず、野山さんのもとへ足を運び頭を下げる。
「ありがとうございます」
まずはお礼の一言だ。あそこで助け舟を出してくれなかったら、俺は延々と絞られ、たぶん例の件から手を引かされていただろう。
「そんな畏まらなくていいよ。ま、座りな」
いっぽう野山さんは飄々とした雰囲気で、近くにあった空の椅子を滑らせ着座を促してくる。
「とにかく、助かりました」
俺が腰を下ろしても、その態度は変わらない。むしろ重ねて感謝の意を示すのを心底、面倒くさがっているようである。
「あの調子だと大賀くん、本気で異動させられそうだったからさ。そうなるとトレセン当番が確実に一人減る。いまローテーションに入ってる俺も現状で一杯いっぱいで、頻度が上がると正直きつい。齢が齢なもんでね」
単なる照れ隠しではない。口ぶりは冗談めかしているが目は真剣で、どうも半分くらいは本気らしい。トレセン当番で寝泊まりする部屋はお世辞にも快適とは言いがたく、そのうえ火曜から木曜までは調教時刻に合わせての早起きが義務づけられる。野山さんの年齢となるとそうとう身体に堪えるはずだ。
「代わりに他の誰かにやらせるにしたって素人だ。経験者を連れてきてもフォローはしなきゃいけないだろ。どっちにしても残された人間の負担が増える。だからあんまり軽率な真似をしてもらっちゃ困るんだ。反りが合わないのは分かるけど、盾突くならもっとうまくやりな。あんな風に私情を表に出したらダメだね」
「すみません」
余計な心配をかけ、ケンカのやり方まで指南されては再び頭を下げるのみだ。
「仕方ない部分もある。大賀くん位の齢だとまだ難し……いや、もういいかげん覚えてもいい頃だ。次からはちゃんと相手なりに対応するようにするんだよ」
仰るとおり。いい加減、世渡りの方法を覚えよう。もう就職して何年目だと自問して俯く俺を慰めてくれるのか、野山さんは続けて声をかけてくれる。
「今日は久しぶりに一緒に昼飯でも食おう」
俺に断るという選択肢はない。一も二もなく返事をした。
「はい」
よろしければ評価や感想、ブックマークをお願いいたします。




