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冤罪  作者: 新宮義騎
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14/36

七 敗戦 ①

 僕は椅子に座り、ひたすらテレビ画面を見つめていた。

 場所は福島競馬場内の騎手控室。他の騎手たちは手持無沙汰にぼんやりとしているか、誰かと話をするなどめいめいのやり方で時間を潰している。いつもであれば僕もそれらに交じって次の出番を待っているところだ。しかしこの日、この時間だけは周りと同じようにはしていられなかった。画面の向こうの函館競馬場では、今まさにエフタリテスがレースに臨もうとしているのだから。

 モニターに映っているのは出走馬がスターティングゲートに向かう光景。それら十四頭のどこにエフタリテスがいるかはすぐに分かった。濃い灰色の毛色に長めの脚。ゼッケンを確認するまでもない。意図して接触を避けていた僕は、この場でコンディションを把握しようとモニターに身体を近づけて覗きこむ。

 するとさっそく不安が胸に立ちこめた。全体のシルエットが今ひとつなのだ。前走の疲労が抜けきらず十分な調教が積めなかったというより、長距離輸送を見越して馬体に余裕をもたせたのが裏目に出た印象だ。画面の端に表示されている気温も二十七度とかなり高い。

 またあらかじめ分かっていたことだが、枠順も気になった。鞍上のクルーガーが被っているのはピンク帽、発走ゲートは八枠十三番。ローカルの条件戦にもかかわらず例年と比べて多くの出走馬が集まったうえ、ここまでの外枠を引いたのはかなりの不運だ。コースを一週半、コーナーを六つ回るこのレースでは内に入らないと距離をロスする。おまけに戦績とパフォーマンスを買われてオッズ三倍ちょうどの一番人気。執拗なマークまで受けるかどうかはともかく、ある程度の警戒はされる。少なくともおこぼれでの有利な展開は望めない。

 スターターが台に上がり、短いファンファーレとともに各馬が次々とゲートに入っていく。まずは奇数番。一頭、二頭と前方へ歩いていき、エフタリテスもすんなりと中に収まる。イレ込みやチャカつきは見られず、精神的には安定しているようだ。続いて偶数番。ほぼ全ての馬が大外枠の十四番を含め滞りなくゲートインを済ませるも、折悪しく隣の十二番が尻込みして前進を拒んでいた。騎手が促しても、係員が押してもなかなか指示に従わない。

 早くしてくれ。僕の額には早くも汗が滲んでいた。出走前のゲートではしばしば馬が騒ぐ、あるいは勝手に扉を潜るなどのアクシデントが発生し、大人しい馬も悪影響を受けることがある。当然ながら、待機時間が短ければ短いほどそうしたリスクも低い。なのに妙にもたついている。

 それでも十二番は何とか抵抗を止めてゲートへ入った。騎手が宥めるのに成功したのだ。係員が離れ、スターターが旗を上げたままスタートのタイミングを計る。ひとまず大事なくレースがはじまりそうだ、と僕は画面の前で息を緩く吐きかけた。

 ところがそのときだった。何と先ほど発走を遅らせていた十二番ではなく、一足はやくゲートインを済ませていた隣の十四番が尻っぱねをし、驚いたエフタリテスが立ちあがってしまったのである。反射的にまずいと思った頃には旗がすっかり降され、扉が開いていた。

 最悪だ。見事に一馬身ほど出遅れて最後方。デビュー以来、強みの一つにしてきたスタートでアドバンテージを得られなかったどころか、ハンデを負ってしまった。

 むろん諦めるのはまだ早い。このレースは短距離戦ではないのだ。ゴールまでは二分半以上ある。他馬との力の差は不明ながら、まだ挽回のきく段階だ。僕はここで自分ならどうするかを考える。正確にはとうの昔に頭にあった。プランは二つ。

 一つめは序盤で脚を使い、さっさと先行集団に取りつける。二つめは無理に動かずしばらくこのポジションを維持する代わり、早めに仕掛ける。どちらも余計にスタミナを消耗するものの、背に腹は代えられない。さてクルーガーはどうかと出方を窺う間に、馬群は六百メートルの標識を通過する。エフタリテスは行き脚のつかない二頭をかわしたきりで、そこから前には行かず後ろから三番手。ならば選んだのは後者か。しかし僕が安堵する暇もなく、あることに気づいた。

 レースの流れが明らかに遅い。先頭の逃げ馬は実に悠然と走っていた。事前の想定ではこれを後ろから突きにかかると考えていた十二番は、あれほどゲートで暴れていたのに中団でじっとしている。それ以外もおのおのの位置を確保して折りあっていた。ロングスパートに賭けるには不利な状況だ。もし僕があの背中に跨っていれば二つめのプランは捨てて一つめに切り替え、今すぐ二、三番手まで上がっていっている。もどかしく焦る僕を嘲笑うかのように、画面に千メートルの通過タイムが表示された。

 一分三秒九。並の遅さではない、超がつくスローペースだ。

 このままではまずい。行け、何をやっているんだ。幸か不幸かエフタリテスは馬群の外にいる。前や左右に蓋をされているわけでもない。身動き出来ることくらい分かるだろう。こうしている間にも勝機はどんどん失われているんだぞ。僕はいつしか拳を膝に叩きつけていた。周りに人がいなければとっくに怒鳴り声を上げていただろう。だがどんなに焦ったところでエフタリテスは動かない。さらには聞きわけのよさが仇になり、がっちりと手綱を握るクルーガーの待機指示に従ってしまっている。僕だったら幾らかは対処できたのに。一度ゴーサインを出しても、賢いエフタリテスなら後で手綱を引けば止まってくれると信じて仕掛けていけるのに。

 なぜあんな根も葉もない噂が流れたんだ。それがなぜ中林オーナーの耳に入ってしまったんだ。よりによってなぜあのタイミングだったんだ。どれか一つでも違っていれば、僕が降板させられることはなかったはずだ。いや、乗り替わりにしても別の選択肢があった。海外ジョッキーは大抵、腕っぷしが強く日本人よりうまいというイメージに捉われてこんなのを選んだのは判断ミスだ。忸怩たる思いで掌が汗でいっぱいになる間にも、先団は二周めの第三コーナーを通過する。

 そこでエフタリテスがようやく攻めあがりを開始した。

 正直いって遅すぎる。現に程なくして他も競うように仕掛けに入っていく。スローで流れている場合、常識とされる一般的な鞍上の対応だ。

 そのため、エフタリテスは順位を上げるのに難儀していた。普段どおりに加速していても、周囲もギアを上げているせいでじりじりとしか前方との距離を縮められないのだ。しかも進路を阻まれないよう馬群の外を走っているのだが、ここ函館は小回りコースな分、つくりの大きい競馬場より距離のロスが大きくなってしまっている。晴天で馬場が乾いているだけに前が止まらないのもマイナスか、逆にただでさえ重い洋芝で雨に降られたらもっと絶望的だったか。僕の頭は半ば混乱していた。

 やがて先団が最終コーナーに差しかかる。エフタリテスはそれを懸命に追いかけていた。二重、三重の不利を受けたにもかかわらず、一頭、二頭と次々に他馬を交わしていく。僕が跨っているときはあんな形で全力疾走したことは一度もないのに、ぽっと出の乗り替わり騎手がミスを犯したために無用の酷使をされている。不甲斐ない鞍上の鞭に応えるその姿は哀れを誘うとともに健気でもあった。こうなった以上、内容はともかく頑張れ、勝て。

 僕の願いに呼応するかのように、エフタリテスは脚を伸ばしていた。コーナーで大きく膨らみ、直線で外に回りながらも一頭、また一頭と前の馬を追い抜いていく。一完歩が大きい。段違いのストライドだ。濃い灰色の馬体が鬣を靡かせて緑のターフを疾駆する。まだ完成形ではないにしても、実に美しいフォームだ。

 そしてついに最後の一頭を捕まえにかかる。スタートから終始、馬群をリードしていた逃げ馬だ。道中で楽をしていたとはいえ、力のいる芝の長距離を走って力尽きたのか失速しており、差は四分の三、二分の一馬身と見る見るうちに詰まっていく。

 だがそこまでだった。無情にもクビ差まで迫ったところがゴールだった。

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