六 知人 ②
それはある水曜日の午後だった。僕がひとまず仕事を終えて厩舎へ戻ろうとしたとき、調教場の隅にあった納屋の方から声が聞こえた。普段は人気のない場所だったんでどうしたんだろうと思って近づいたんだけど、中に不穏な空気が漂っているのに気づいて窓の傍で聞き耳を立ててみたんだ。
「須本さん、それでご用件というのは」
声の主は文田さんだった。間違いない。会話から察するに相手しているのは須本という騎手だ。文田さんと同じ厩舎で、年齢はさらに五つ六つ上。ベテランといっていい。
その須本が文田さんの問いかけに対し、ドスを利かせて答えた。
「おめえ、どういうつもりだよ」
直後に何かが何かを打って人か物が倒れるような音と、小さく短い呻き声がした。
「須本さんこそ、ご自分が何をしているのか分かっているのですか」
「殴られたのが気に入らねえってか?」
「そうではありません。私を制裁するにしても素手で殴ればいいでしょう。鞭を使うなんて」
「悔しいか」
須本はとんでもない奴だった。文田さんを殴りつけたんだ。しかもよりによって僕たちの商売道具たる鞭を人に向かって振るうとは、まさに騎手の風上にも置けない。文田さんも同じ思いだったんだろう。言葉遣いこそ丁寧ではありながら、声は鋭かった。
「いいえ、恥ずかしくないのですかと訊いているんです」
「何が言いてえんだ」
「馬に合図を送るための鞭を、こんな風に使って恥じもしないのに呆れてるんです」
「合図? その澄ました答えと顔が腹立つんだよ」
続けて鞭が空気を裂き、高く乾いた打撃音が一、二、三……十回ほど鳴って、それが止んだかと思うと荒い息が聞こえた。殴りつけていた須本の方が疲れたんだな。すると程なくして、文田さんがいかにも馬鹿にした感じで嗤ったんだ。
「これで須本さんがその程度の成績しか残せない訳が分かりました。そんな考えで馬を走らせられるわけがない」
須本は経験年数こそ長かったが、実績は文田さんよりはるかに下。獲得した重賞はたったの二つで、どちらも人気薄での棚ぼた勝利だった。プライドを傷つけられて激昂したのか、反撃とばかりにすかさず怒号を飛ばした。
「黙れ! てめえみたいな奴がいるから、俺の居場所がなくなっちまうんだよ! 勝手に若造どもにアレコレ教えやがって!」
再び鞭が唸るも、今度は一度きりで止まる。そのうえ音も先ほどより小さい。
「なるほど、それで私を呼びつけたわけですか」
「そうだ。俺が面倒見た奴に後から余計なマネするんじゃねえ。てめえは黙って自分の仕事だけやってりゃいいんだ」
須本の考えは重ねがさね腐っていると思う。けれどもこの発言のとおり文田さんが無断で後輩に指導をしたのであれば、同じように疎ましく感じる人間もいたであろうことも確かだ。むろん、だからといってリンチを加えるのは言語道断。文田さんの怒りは頂点に近づいていたようで、納屋の空気が張りつめていくのが外にいるこっちにも伝わってきた。
「須本さん、あなたのような人が有村先生の足を引っ張っているんです。ご自分の指導力のなさを棚にあげて逆恨みするとは見下げ果てました」
その物言いを耳にして、文田さんがふだん覆い隠している別の一面を知った気がした。もしかするとこちらの方が本性かもと思ったくらいだ。自らを厳しく律している人だけに、周囲を下げて保身を図る行為を卑しんだんだろう。
「この野郎、離せ」
須本は、文田さんの迫力に明らかに恐怖している。気圧され、声が震えていた。
「離しません」
「いいから離せ。これをどうするつもりだ」
「私を殴りつけた動かぬ証拠にします。須本さんは素手で柄を握っていますから、指紋がはっきり残っているはずです。身体に当たったところにも私の血が付いているでしょう。このことは有村先生に相談し、埒が明かなければ直接、警察に被害届を出します」
「こいつ、最初からハメるつもりで」
その後いったん唸り声を上げかけるも瞬時に止まり、代わりに大きな鈍い音がして納屋の壁が大きく揺れた。
「殴ったな、この俺を殴りやがった」
「私の顔、身体には鞭の跡がありますから、騒ぐならお好きにどうぞ」
有村先生が文田さんと須本、どちらの言い分を聞くかは外部の人間である僕にも容易に察しがついた。前者の訴えを退け、禍根を残したまま両者を厩舎に留めおく必要はない。万が一、喧嘩両成敗と判断するなら文田さんには別の先生につくという選択肢がある。厩舎経営者としてもあそこまでの名手を手放すことはあり得ない。また仮にこの暴挙をお咎めなしとしても、手を上げた方は同僚から蔑まれ針の筵になるだけだ。
「いいですか。私が先生に相談するまで一日だけ猶予を差しあげます。その間に身の振り方を考えて、二度と私の前に現れるな」
須本もそれは理解できたのだろう、文田さんが凄むなりガサガサと慌ただしく納屋から飛びだしていった。僕が柱の陰から足音がする方を覗くと、完全に腰砕けの状態だったのが確認できた。その一、二分後に出てきた文田さんの頬に擦り傷ができていたのもね。
もちろんゴタゴタが済んだからといって、声をかける気にはなれなかったよ。文田さんは恐ろしく冷徹な、触れれば切れるような空気を発していたんだ。あのガラの悪い須本が屈したのは当然だった。もし怒りの矛先がこちらに向けられていたら、やはり同じように震えあがっていただろう。僕はさも何もなかったかのように鞭を握って厩舎の方へと歩いていく文田さんを見送り、聞き耳を立てていたのを勘づかれないよう少し経ってからその場を離れた。
須本が「一身上の都合」で騎手を引退したと聞いたのはその一週間後だった。実際はもっと早く厩舎や運営に引退を届け出ていたのかも知れないが、あの納屋での一件が原因だったのは間違いない。箸にも棒にも引っかからない成績だったんで、白井の分場が若干ざわついた程度で大した騒ぎにはならず、文田さんが負った怪我との関連を推測する人はいても事実を断言した人は誰もいなかった。須本は屈辱を覚られまいと一部始終をいっさい語らなかったか、必要最小限の人間にだけ事情を明かして厩舎を出ていったんだろうね。その後は顔も名前も見ていないから、競馬とは無関係の仕事に就いたんだと思う。えっ? 今どこにいるかだって? さあね。僕も君に連絡をもらうまでほとんど忘れてたよ。知ってる人なんているのかな。まだ生きてるのかどうかも怪しいもんだ。
ちなみに、僕は納屋での出来事は他言していない。文田さんに口止めされたわけではないけど、騎乗のヒントを貰ったのに恩を仇で返すわけにもいかなかったし、須本とは話をしたことさえなかったんでね。尊敬したり目標にする部分があればともかく、言動は真逆。関わらない方が吉とも判断したんだ。
あの事件が起こったのは、それから半年後だった。僕も最初は何かの間違いだと思ったよ。問題になったレースでも挙動不審なところはなかったんだから。でも、本人が認めたと聞いては受け入れるしかなかった。日ごろから親しかったわけじゃないし、別厩舎で僕がものを言える立場にもなかったし。けどこうして記憶を辿ってみると、やっぱり八百長なんてする人じゃなかった気がする。
「話はここまでだよ」
小久保さんがペットボトルを呷ると、高井くんは頭を下げる。
「ありがとうございました」
俺はといえば隣で同様に礼を述べつつ、頭の中で思案を巡らせていた。
今日はこの間と違い、幾らかの収穫がある。須本の名前は乾さんの話にも出てきた。両者の証言は整合性がとれている。先輩としてのメンツを潰され、逆恨みで文田を陥れたとしてもおかしくはない。追ってみる価値はありそうだ。
ただ、一方でやはり噂どおり八百長をはたらいていた可能性も若干高まった。小久保さんの話によれば、文田はふだん内に秘めている強かな一面があったことになる。先輩に鞭で制裁を加えられながら、わずかの間に報復の方法を思いつくとは並の胆力の持ち主ではない。裏で堅気ではない人間との関わりがあったからこそ可能な真似だったとも考えられる。
「ところで小久保さんは、直線でうまく馬を追う秘訣がお分かりになったのですか?」
俺がこめかみに手を当てて悩んでいる間にも、高井くんは質問を続けていた。答えに回る小久保さんの声は、先ほどより穏やかだ。いつしかしんみりとした空気を漂わせている。文田の無実を信じているとの言葉は嘘ではないらしい。
「ああ。恥ずかしながら事件の少し前に気づいた。カラクリは簡単だったよ。文田さんは全力を出す必要のない道中では、ほんのちょっとだけ上体を起こし気味にしてたんだ。それでも他の騎手よりは低い体勢だったけど、要は体力を温存してたんだな。だから最後の直線で思いきり馬を追えたんだ。引退した年の天皇賞は、そのおかげで勝てたようなものだ」
「そうでしたか」
「今は必要に応じて比較的多くの人がやってるけど、それをあの時代に実践してたからあんないい成績が残せたんだ。お礼は出来ずじまいだったけどね」
そんな風に弾む二人の会話を聞く俺の頭には、前回と同じ疑念が湧いていた。
そう、文田は今日用いられる技術を先行して取り入れている。フォームの徹底のみに留まらず、レース中の力の配分までもだ。二つのアドバンテージは非常に大きい。特に後者に関しては、同門の乾さんにヒントすら出していない。同業者として好成績の秘訣を全ては教えられないとしても、自身の優位性を保持していたのは間違いない。であれば、勝負をある程度操作できたのではないか。実際どちらだったのか、俺は悩んだ。だが何度考えても答えは出なかった。
****
ここは面会室。対面窓の向こうにいるのは有村先生だ。
「猛志。何でこんなことになったんだ」
先生の顔に怒りの色は微塵もない。あるのは戸惑いと悲嘆だけ。目は泳ぎ、声も震えている。
「私も分かりません」
本心では私の方が泣きたかったが、そんな真似はとてもできなかった。先生は今にも声をあげて泣きだしそうになっている。その元にあるのが厩舎の所属騎手が不祥事を起こして恥じているだとか、調教師としての立場が危うくなっているのが不安だとかいう感情でないのは明らかだ。家族同様に私を案じてくださっている。
「心当たりはないのか?」
私は先生の顔を見るのも切羽詰まった声を耳にするのも辛く、努めてそちらから意識を逸らした。実のところ心当たりだけはある。しかし単なる憶測に過ぎず、簡単には口にできない。私にかけられた疑いが晴れる保証もなく、むしろ下手にこちらから触れようものなら別の罪を着せられかねない。いま言えるのは、この件に関して私が無実であることだけだ。
「八百長があったというレースもそれ以外の日も、私は普通に騎乗して引きあげてきただけで不正は一切していません」
「噂になってる暴力団員との接触はないんだな?」
「まったくありません。断言します」
「ということは、猛志は潔白なんだな? 俺は信じるぞ」
窓の隙間から先生が手を差しのべてくる。私も手を添えると、力強く握りしめてきた。日々の仕事で使いこまれた、分厚く硬い皮膚が暖かかった。
「ありがとうございます」
「安心したぞ。猛志がそんなバカな真似をするはずないからな。初めからこれっぽっちも疑っちゃいなかったが、その答えを聞いてはっきりした」
お会いできなかったのはたったの四日間だというのに、ひどくくたびれている。というよりいきなり歳を重ねられたように見えた。たぶん私と同等かそれ以上に憔悴している。皆の前では気力で抑えこんでいる疲労が表に噴きあがっているのだ。
その先生が手を放す代わり身体を前に傾け、目を見据えてきた。真実を全ては打ち明けていないことに罪悪感を覚えた。
「そうと分かれば話は早い。今、世間はありもしない噂で持ち切りだ。そこら辺の素人が、お前が八百長をしたとか事情も知らないで勝手に騒いでる。競馬界は浮き足立っちまって、国会議員の先生まであれこれ口を挟みはじめる始末だ。門外漢は黙ってりゃいいものを……。そういう訳だからこの先、警察は躍起になってお前を犯人にしようとするに違いない。猛志、本格的な取り調べはこれからなんだろう? 相当厳しいものになるはずだ」
そうだ。憶測に頭を悩ませている場合ではない。警察はもう私がやったものと決めつけている。この先、証言を引きだすためになりふり構わず色々な手を打ってくるはずだ。私の背中に悪寒が走る。
「だから、何をされても嘘はつくな。お前は八百長なんてしていないんだから、本当のことを答えればいいんだ。刑事からどんな目に遭わされても、『自分がやった』なんて言うな」
同時にこの後に待ち受けているであろう仕打ちも脳裏に浮かんだ。先生は口にこそしていないが、何をされるかはだいたい想像できる。殴る蹴るは覚悟しておくべきだ。
「分かりました」
首を縦に振ると、先生もご自身に言いきかせるように何度も頷く。
「よし。猛志が黙っていれば何とかなる。罪に問おうにも証拠は何ひとつ掴めずに終わる。どんな悪辣な刑事が地団太を踏んだってこればっかりはどうにもならん。ただ、そうは言っても起訴されないとは限らんから、そのときは俺が無罪の証拠を集めてやる。こんなのはでっち上げだって警察に突きつけてやるぞ。俺には夢がある。猛志はもう紛れもない一流の馬乗りだが、ダービーだけはまだだ。それを絶対獲らせてやる。だから自供なんかするな」
その言葉を聞いた途端、目頭が熱くなるのを抑えきれなくなった。そして改めて思った。有村先生についていってよかった。こんなにも親身にお世話をしてくださる先生は他にいない。私が我慢できずにとうとう涙を流しそうになったとき、後ろで声がした。
「時間だ。出ろ」
見れば、留置場の係員がすぐ傍に立っていた。
私はしぶしぶ立って先生に向かい、深く大きく頭を下げる。これ以上に頼もしく、力強い励ましがあるだろうか。必ずやこの厚意に応えよう。そう胸に刻み、また顔を上げ先生の顔を目に焼きつけた。
「忘れるなよ。俺の言うとおりにするんだ」
対面窓の向こうから再び差しだされた手を握りかえそうとするも、係員に阻まれる。最後は先生もまた別の係員に肩を叩かれ、仕方なく部屋を出ていくのを見送った。
私は面会室の扉を潜りながら決意を固める。これから取り調べにやってくる相手がどのような人物であろうと、とにかく無実を訴えよう。嬲られ、痛めつけたとしても偽りを口にしなければいい。冤罪は必ず晴れる。私は独房に戻ってからもそれを胸の内で数えきれないほど反芻した。
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