六 知人 ①
その八日後の午後、俺は高井くんと並んでトレセンにある食堂前の廊下に立っていた。
「児玉先生は、今日のことを知っているのかい?」
「逐一、いつ何をしているとまでは報告していませんが、僕が疑惑を晴らそうとしているのはご存じです。応援もしていただきました」
「理解のある先生でよかった。羨ましい。そうそう、このあいだ訊き忘れちゃったけど、エフタリテスの引き継ぎはうまくいった?」
「必要な部分は伝わったと思います。最初に英語で直接、そのあと翻訳アプリを使ってもういちど説明しましたから。あとは調教で感触を掴んでくれればいいんですが」
お互い波風の立つような内容の話ではなく、雰囲気も穏やか。特に直近一週間は二人で一緒にいる時間が増え、お互い以前より打ちとけられている気がする。しかし俺はここ数分というもの少しばかりやきもきしていた。今日は当番明けの貴重な休日であり、本来なら明日以降の本社勤務に向けて自宅でゆっくりしているところだからだ。
「でも大賀さん、帰り大丈夫ですか?」
したがって質問への答えは次のようになる。
「本音を言うと、もうちょっと早い方がありがたかったけどね」
時計の針もすでに三時半を回っていた。とはいえ、ここをおさらばするわけにはいかない。俺たちは人を待っている。
相手は元騎手、元調教助手の小久保重房。騎手時代は長年にわたって中堅クラスを彷徨いながらも徐々に成績をあげ、引退した年に天皇賞を制したなかなかにドラマチックな経歴の持ち主だ。当時を知る数少ない関係者の一人だけに、会ってみる価値もあるように思える。
ただし、多大な期待をするのもいかがなものかと訝しんでもいた。乾さんに話を聞いたはいいが、結局は有力な手がかりを得られずに終わっている。いくら文田が競馬には真面目かつ先進的、私生活は地味な倹約家であるとしても状況証拠に過ぎず、噂の否定材料にするには弱すぎるのだ。しかもそれとて見方次第で変わる。優れた騎乗技術を八百長に利用したかも知れないし、表向き質素に見えたのは裏で浪費を重ねていたせいかも知れない。いずれにせよ内容としては期待外れだった。むしろ調査対象の捜索を申し出てくれたことの方が今後に繋がるように思われたくらいだ。
「僕の都合ですみません」
「気にしないでくれ。高井くんが身動き取れなきゃどうしようもないし、今日を逃したら俺も自由に動けるのはけっこう先になるから、絶妙なタイミングだよ」
「であればいいんですけど……。わりあい近い稲敷市にお住まいのようですが、どうしたんでしょう。約束の時間は過ぎてるのに」
「途中で道に迷ったか、混んでるのかな。遅れてるっていっても、まだ五分くらいだ」
まあ、そちらに関しては吉報を待てばよく、今日の話についても収穫の有無は後で判断するまで、などと腹の中で呟いているうちに前方に人の姿が見えた。
日常的にここへ足を踏み入れるにしては明らかにお年を召しており、薄く白い髪とも相まって二つ下の乾さんとは実年齢以上に開きがある印象だ。当時、騎手だったとなるとこちらの方が年相応なのだが。
「小久保さんですか。こちらです」
手を振るや、すぐさま芯の通った声が返ってきた。
「そうだ。連絡をくれたのは君たちか」
「お電話を差しあげたのは私です」
続けての呼びかけに応じ、高井くんが前に出るなり小さく笑う。
「ああ、そちらの方だったね」
それから少し太めの身体を揺らして歩いてくる。俺はその足取りが案外しっかりしているのを確かめて安心した。受話器越しに会話をしてみてどんな調子だったか聞いてはいたものの、質問等のやりとりができるかどうか心配だったのだ。くわえて小久保さんはその必要などないとでも言わんばかりに、俺たちと一緒に食堂に入ったあと高井くんが飲み物を出そうとするのを軽く掌を掲げて制してきた。
「僕はこれがあるから気を遣わなくていいよ。だが、一口だけ飲ませてくれ」
代わりに適当な席を見つけて腰を下ろし、左手に持っていたペットボトルの蓋を開けて中のコーラをゴクゴクとうまそうに喉に流しこむ。
「小久保さん、改めてご挨拶させていただきます。騎手の高井と申します。本日はわざわざこちらまでお越しいただき、ありがとうございます」
高井くんは先日の乾さんとはまったく毛色の違う少し癖のありそうな相手を前に、やや緊張した面持ちで椅子に座った。小久保さんはそれを目にして口の端を軽く上げ、白い歯を見せる。
「いや、こっちとしては暇しててお呼びがかかったものだから、出かける口実ができてありがたかったよ。ここに来たのも半年ぶりでね」
どうやら多少マイペースな性分でもあるようだ。あらかじめ用件を伝えているはずなのに神経を尖らせている様子は皆無で、名刺を出した俺には人を食った返事をよこしてくる。
「私は〈スポーツ東都〉の大賀と申します」
「君の予想はたまに見てるよ。けど、もうちょっとでいいから的中率を上げてくれると助かるなあ」
痛いところを突かれて苦笑する俺の隣で、場が和んだのを見計らった高井くんが話を切りだしても表情はそのまま。
「そろそろ、あの件についてよろしいでしょうか」
「僕に訊きたいのは〈文田事件〉についてだね。でも言えることは何もないよ。単に同じレースに乗ってたってだけで」
そこで俺は口を挟む。
「私たちも、小久保さんが八百長に関与しているなどと考えているわけではありません。ですが、その裏付けとなるような根拠は何かおありなのでしょうか」
だが小久保さんはまったく狼狽えない。逆にこの質問を待っていたようですらある。
「もちろん。僕があのレースに騎乗することになったのは偶然なんだ。それまで乗っていた──たしか外岡って騎手が当日の第六レースで落馬、負傷してしまってね。同じ厩舎じゃ都合がつかなくて、馬主さん同士のツテで僕にお鉢が回ってきたんだ」
たしか当初の連絡で高井くんは、結果確定後の着順表から小久保さんの名前を見つけたと言っていた。おそらくレースが始まる前の出馬表は確認していないのだろう、予想外の指摘を受けて短く声をあげる。
「えっ、そうだったんですか」
小久保さんはその様子がおかしかったようで、サングラスの向こうで目元を緩めた。
「疑うなら確かめてみるといい。昔の記事くらいそちらの方の会社にあるはずだ。いや競馬専門紙じゃないから違うか、でもよその社のやつに当たってみればはっきりする。落馬負傷交代も、記録に残ってるんじゃないかな」
ここまで堂々とした態度を取れるからには、たぶん嘘は言っていない。この証言が正しければ、騎乗が決まってレースが始まるまで二時間前後。たったそれだけの間に外部の人間が接触して八百長を持ちかけるのは不可能だ。高井くんが動揺しながら再び投げかけた質問にも、筋道の通った答えを返してくる。
「ただ、あのレースは五十年以上も前です。どうして今もそのことを覚えていらっしゃるんですか?」
「なに、前に何度か同じ話をされたんだ。事件の直後に騎手仲間、二、三年後に週刊誌の記者からね。当然そのときも同じ説明をしたよ。皆すぐ納得してくれた。あれだけの騒ぎだ、わざと負けた馬の人気だとか八百長にしては不自然なところもあるし、謎を追いたくなるのは分かる。君が目をつけたのは、文田さんと真木以外であのレースに乗っていた唯一の白井所属の騎手が僕だから、二人と接触しやすい環境にいたから、だよね?」
そのとおり。当該レースに騎乗していた中でも俺たちが小久保さんに注目した理由がまさにそれだ。今よりはるかに連絡手段が限られていた当時、もしその二人の両方か片方いずれかが八百長の算段をつけ、片棒を担がせるのであれば同じ白井調教場の人間を選ぶのではないかと睨んでいたのだ。特に最初にその発想に辿りついた高井くんは、図星を言いあてられたと見えぴくりと肩を震わせ頷く。
「はい」
「人間、考えることはだいたい一緒だね。まったく面倒なレースに乗ってしまったものだ」
何にせよ、資料を調べれば真偽のほどは判明する。違っていたらまた小久保さんの身辺を洗えばいい。高井くんもその点を理解したのか、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ご不快になるような質問をしてしまい、申しわけありませんでした」
「いいよ」
「ですが、そうであればどうしてここまで来てくださったんですか」
「この間の電話で今みたいな具体的な質問がなかったし、おかしな疑いをかけられたままでは嫌だっていうのもある。それに、さっき言ったように久しぶりに足を伸ばすきっかけを作ってくれたお礼をしたくてね」
「お礼、ですか」
小久保さんは若干、顔を引き締めた。今しがたのやりとりは単なる前振りで、本題はこれからのようだ。
「うん。レース当日、何があったかは今の話を聞かなくてもそのうち分かっただろう。きょう僕が来たのは、たぶん誰も知らない文田さんのある一面を教えてあげようと思ってね」
「お願いします」
そして高井くんも、真剣な表情で首を縦に振っていた。声も心なしか太く強い。
そうか。文田は、高井くんにとっての祖父。例の噂を払拭するためだけでなく、純粋に事件の真相を知りたいという欲求が出てきたのだ。俺が脇からその様子を眺めていると、向かい側で小久保さんが口を開いた。
僕が入門したのは田安先生のところで文田さんとは別だったけど、同じ白井の調教場だったし、厩舎も隣だったんで顔を合わせる機会自体は多かった。それに途中から一方的に意識するようにもなってね。運悪く同門には目標にできる先輩がいなくて、少しでも成績を上げようと、よその一流騎手がどんな風かいろいろ参考にしてたんだよ。中でも文田さんは馬を追うときの姿勢が綺麗で、僕もああいう風に乗ろう、そのためにはどうすればいいかなどとよく頭を悩ませてたんだ。そういうこともあって一時期、本番でも稽古でも目を皿のようにして観察してたな。
とはいっても、見るだけじゃ限界がある。なので白井にいる騎手同士の飲み会で声をかけてみたんだ。昔は厩舎間のタテ関係が強くて、他に何か趣味とかで親しくなる繋がりもなかったし、競馬場や調教場ですれ違っても軽く挨拶を交わすくらいだったから、こうでもしないと話しかけるきっかけがなくてね。
「あの、いつもお世話になってます」
「小久保くんだね。こちらこそ」
そこで改めて分かった。文田さんはかなり口数が少なかったんだよ。実際、すぐ言葉のキャッチボールを止めちゃったんだから。ただ、同時にあることに気づいた。目の前の料理は減ってるのに、手元のコップに注がれたビールがあんまり減ってなかったんだ。僕は会話を再開させるべくその点を指摘した。
「お酒、あんまり飲まれないんですか。お注ぎしましょうか」
「いや、いいよ。どうしても太るからね」
文田さんは騎手としては背が高かった方だけど、そこまでの節制が必要なほどではない。身体もきちんと絞れているのになぜだろう。不思議になって訊いてみたんだ。
「でも気が晴れないときはありませんか」
するとこう返ってきた。
「身体だけ重くなって、使える筋肉が減る方が嫌だ。本来は逆じゃなきゃいけないのに。寝つけなくなるのも困る。だったら別のものを食べた方がいい」
知ってのとおり、僕の成績は文田さんに遠く及ばない。いったいどこで差がついてるのか判然としてなかったんだ。でもこの一言で覚った。理由は経験が豊富だとか、単純にいい馬に乗っているとかではなくこのレベルからの体づくりだったんだ。
翻って僕はどうだろう。当時は食事制限なんて減量のいち手段でしかなかったから、周りに流されるがまま好きなだけ酒を飲んで木曜、金曜は食事量を減らす、場合によっては絶食するなんてバカな真似を延々くり返してた。これじゃ、同年代が相手でも勝てっこない。今は他のスポーツも含めてみんな留意してる、ちょっと気取った言い方をすると栄養戦略とか食事戦略みたいなやつに目をつけてたんだな。似たような発想に辿りついた騎手は他にもいたんだろうけど、長期にわたって自己管理を継続するのは難しい。その点だけでも先進的な方だったと思う。
とにかくそうした日々の積み重ねが、馬上でのあの見事な姿勢を生みだしているのは分かった。決して簡単ではないにしても見習える部分だ。しかしあそこまでできる秘訣は本当にそれだけなのか知りたくなって、この機を逃すまいとまた質問をぶつけてみた。
「文田さん、もうひとついいですか」
「うん」
「あんなに道中で馬の力を温存させたり、直線でしっかり追えるのは体づくりをちゃんとしているからですよね」
「そうだね」
「その他に何かありますか」
後になって思い出してみるとあり得ない話だ。同業の競争相手である以上、一緒の厩舎の先輩でさえ成績を上げるコツなんかはそうそう教えてくれない。ましてや別厩舎だ。普通だったら一蹴される。人によっては怒鳴りつけてくる場合もあるだろうね。僕はそれを承知しながら、物静かな人柄に付けこんで使える情報を聞きだそうとしたんだ。
もっとも、そんな思惑は見透かされていたらしい。文田さんは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべてたよ。
「あるけど、直接は教えてあげられないね。ただしヒントは出そう」
「何ですか」
「レース中の僕をよく見るんだ。直線だけじゃなくてね」
直接の答えは得られなかったけど、それを言ってくれだけでありがたかった。そもそも、懇切丁寧な手ほどきを受けようなんて目論見はムシが良すぎたんだ。今までの僕の観察には、きっと穴があったに違いない。文田さんはそこがどこか見つけられるものなら見つけてみな、とでも言いたそうな顔をしてたね。小さな呟き声だったんで余計にそう感じた。
「ありがとうございます」
僕は深々とお辞儀をしたが、そのとき先輩に遠くから呼びつけられてしまった。
「おい小久保、こっち来いよ」
昭和真っ只中だ、先輩の命令に逆らえるわけがない。僕はしぶしぶ先輩のところへ行くこととなり、せっかくの話もやや唐突な形で終わってしまった。
それでもいったいどんな人なんだろうと興味が湧いて、少し離れたところから眺めてたんだ。雑談の合間を縫ってね。で、ちらちらと目で追ってるともうひとつ発見があった。
文田さんは、いわゆる一匹狼だったんだ。普通、こういう場では誰かと会話するものだよね。なのにそんな様子はまったくなくて、相変わらず一人でちびちびと料理を口に運んでるんだ。多分、意図して周りと距離を置いてたんじゃないかな。極力この手の集まりに出ないようにもしてたんだろうね、飲み会で姿を見たのもこれが初めてだったように思う。おまけに何人かが二、三人で声をかけてきても、騎乗技術なんかについて議論を戦わせる風もなく適当に返事をしておしまい。それも別厩舎の人間ばかりだったんだ。今もその傾向は変わってないはずだけど、親しい仲間とかがいないうえに手持ちぶさただったら、まずは同僚と話をするところなのにだよ。
もしかしたら厩舎では人望がないんじゃないか。余計なお世話ながら心配になって後で訊いてみると、いつもこんな調子なんだそうだ。だから同僚もわざわざ話しかけにいかない。かといって煙たがられてるわけでもない。むしろ何人かはものすごく頼りにしてるっていうんだ。皆ああいう気質というか、性格を分かってたんだな。
そんなわけで僕はしばらく、文田さんを尊敬するとともにかなりの変わり者だと思ってた。といっても馬を降りたらどうしようもない人だとか、悪い印象をもったわけではないよ。逆にああいう風に周りに流されないでいるのが、いい騎乗をする秘訣の一つなんだろうと納得したくらいだ。
だが、僕のその考えが少し変わった事件があった。
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